撃ちなさい。
 わたくしごと、殺しなさい。
 彼女の赤い目は、真っ直ぐにそう告げた。
 言葉を介さなくても分かる。
 空気を震わせ、光よりも速く、感情が伝わる。
 眠りに就くように彼女は目を閉じる。
 今しかない。
 先天遺伝子を殺すには。
 後天遺伝子は、先天遺伝子を駆逐する。
 ……それでも。
 フィアスは両手に銃を構え、銃口を二人に向ける。

 それでも、フィオリーナを救いたい。
 それが、俺たちの願いだ。

 放たれた弾丸は、音速に近い速さで貫いた。
 艶やかな黒髪に隠された後頭部を、頭蓋を、脳を。銃弾の衝撃で、ネオは前のめりに倒れる。そして、フィオリーナも。
 先天遺伝子を分かち合った兄妹は、互いに抱擁をかわしたまま、地面に倒れた。
 フィアスも地面に膝をついた。
 左手を見ると、愛銃はホールド・オープンしていた。
 最後の一発。
 バリケードを超える際、獣の反射に抗えず銃を撃ちまくった。ここに来るまでに、マガジンも使い果たした。残数はわずかだったのだ。
 血塗れの、黒ずんだ金髪に手をあてる。数字が思い出せない。
 そして、俺の名前は……フィアス? アルド? ラインハルト? いや、ルディガー?
 本当の俺はどれだ? 本当の俺は……そこまで考えて、思考の残滓をシャットアウトする。
 俺が誰であろうと関係ない。
 渾身の力を奮い起こして立ち上がる。倒れた二人の元へ向かう。
 先天遺伝子の血液に、心が破裂しそうだ。荒く息を吐きながら辿り着く。
 振いたくなる拳を握りしめる。
 蹴りたくなる足を踏ん張る。
 うつぶせている少年を避け、女性を抱き起こす。血に染まった白いドレスの胸元に、弾丸の穴が開いている。
 近い位置に、二つ。
 一つは歩道橋で狙撃手が撃った弾。
 もう一つは、今、自分が撃った弾。
 ネオの頭を貫通して、フィオリーナの胸元に届いた。
 彼女は無反応だ。
 閉じられた瞼はぴくりとも動かない。
 その血に刻まれた遺伝子が、正気を狂わせ続ける。殺人衝動。それは強烈な欲望だ。この女を殺したい、と願うことだけを許されているように感じる。
 殺したい。殺さない。逆だ。助けろ。
 歩き出そうとしたとき、背後でネオが動いた。
 体勢を整え、飛びかかる……直前。
 前方から銃声が轟いた。二発、三発。ネオの身体が、衝撃でひっくり返る。
 側を走り抜ける影。手にした銃で頭を撃ち抜く。
 四発、五発。猛り狂う勢いで、倒れた相手に銃弾を撃ち込んでいく。
 脳と心臓、赤い二つの目、四肢の各関節まで隅々を撃ち貫いた後、男はようやく銃撃を止めた。
 両膝に手を当て、肩で荒く息を吐く。
「ちゃんとやれ」
こめかみの汗を拭って男は言った。
「それが、相手に対する礼儀だろ」
「マ、サ……ムネ……」
正宗は背を起こすと、足でネオをつついたり、身体をひっくり返したりした。完全に死んでいる、と確証を得るまで、銃を構えたままだった。
 彼は血だらけの頬を拭った。
 安心したら、マジで痛くなってきた。低い声でつぶやきながら、ニヤリと笑う。
その顔にどのような反応を返したのか分からなかったが、
「なんだよ、笑ってんじゃねぇよ」
と正宗が言ったので、笑ったらしい。
 両手に抱えたフィオリーナを差し出す。腕が震えて、今にも彼女を取り落としそうだったからだ。
 これ以上、側にはいられない。
 心情を察すると、相棒はフィオリーナを抱き上げた。
 美人な姉ちゃんだな。胸もでかい、とお馴染みの独り言をつけくわえながら。
「フィアス、この姉ちゃん生きてるぞ。安心しろ。弱々しいけど、息がある。病院行くぞ、病院。お前も医者にかかれ。脳外科か、精神科か、動物病院か。とにかく……」
 階段から、足音が聞こえる。
「フィアス! 正宗!」
野太い男の声。
 続いて、狙撃音。大男の背後にいた女が上空に銃を向けて、連続射撃を行う。
 コックピットのガラスが割れる。操縦不能になったヘリコプターが、左右に揺れながら、駐車場へ落下した。
 派手な墜落と爆音にともなう耳鳴りはしなかった。鋭い聴覚の収集音域を超えて鼓膜が破れた。そしてすぐに回復した。身体に受けた傷もすべて回復している。
 これからどんどん壊れてゆく。
 身体ではなく、脳が。心が。
 狙撃手の女の黒い目が、じっと見つめる。
 そうだ。思い出した。彼女とゲームをしている。
 いや、正確に言うと、フィオリーナと。
 どちらかが生き残ればどちらかが死ぬ。
 希望の奪い合いの、シーソーゲームは続行中だ。
 正宗がフィオリーナを大男に引き渡す。シドは慌てて階段を駆け下りる。彼女を病院へ連れていく。それだけでは助からない。
 狙撃手の灰色の目が、選択を迫る。
 感情のこもっていない強い眼差し。彼女たちは本気だ。
 屋上の入り口付近へ引き返す。銃がある。ホールド・オープン。弾切れしている。忘れていた。撃てない。殺せない。その場に膝をつく。言葉が出ない。
 狙撃手を見上げる。
 彼女は頷いて、銃口を向ける……より先に、正宗が割って入る。
「やめろ。殺すな」
「殺さないと、暗示は解けない」
「昨日、言ってたやつか? 解けよ。ネオを殺してめでたしで良いだろ」
「良くない。狼くんが獣化する。犠牲者が出る前に殺さなければならない。暗示だって解けないよ。あんたが寝た女を、寝なかったことにできないのと同じだよ」
「不感症女がらしくない例えを出すんじゃない。つべこべ言わず解け。なかったことにしろ」
「無理なんだってば。私の暗示の強さを、あんた知らないね?」
二人の応酬がうまく頭に届かない。苛立ちまぎれに頭を掻き毟る。理性が、知性が、人間性が、空白になる。
 その刹那、閃きの一光が頭をよぎる。
 暗示を解除し、生き延びる方法。
 一つだけある。

 うまくいくか分からない。
 うまくいかないかもしれない。

 しかし、試してみる価値はある。

 フィアスは見上げる。強い視線に射抜かれて、正宗は振り返る。意思を伝えようとするが、言葉が出ない。
 思いついた閃きさえ、意識を集中していないと忘れてしまいそうだ。
 彼の感受能力に託すしかない。
 正宗は気づいた。
 言葉を失った相棒が、何かを伝えたがっていることに。
 スキャナーの眼差しが、赤い眼の奥に潜むわずかな思考を読み取ろうとする。

 気づいてくれ。正宗。
 気づいて、守らせてくれ。

 ――約束守れよ、男だろ?

 フィアスは立ち上がる。
 庭園の端まで歩く。今にも暴れ出しそうな身体を押さえつけながら。
 庭園を囲む緑色のフェンス。落下防止のための柵だ。フェンスを握る両手に力を込める。
 カーテンを開くように、簡単に人が潜り抜けられるほどの穴が開く。
 目下の駐車場に並んだ車……その光景が水に揺らぐ。
 目下に見える暗い濁流。
 川の音。
 遠くに聞こえる、暗殺者の気配。
 ここはまさに、原初の記憶に記された、橋の上。
 父親との、別れの記憶。
 死ぬな! という怒鳴りは、過去の呼び声か、現在の叫びか。
 静止の声を振り切って、その場から飛び降りる。
 冷たく、暗い、水底へ。
 水が身体を打つ衝撃はない。代わりに、鋼鉄の打撃が全身を打ち砕いた。
 骨が折れ、ほとんどの臓器が損壊した。その痛みは思考を飛ばし、意識を飛ばした。
 鼓動が弱まる。
 二、三度脈打ったあと、心肺が完全に停止する。

 自分が死んだことに気づかないまま、フィアスは死んだ。