小狗シャオゴウ。それが彼の綽号しゃくごうだった。
 小狗と小麗。同じ場所に暮らしていた人々は、二人のことをそう呼んだ。小姐シャオジェの誰かが女を産み、別の小姐が男を産んだ。
 背丈も歳も違わない彼と、血の繋がりがあることを小麗は感じとった。二人は同時期に生まれた、言わばはら違いの双子。誰からも打ち明けられることはなかったが、今生の別れまでその確信は揺らがなかった。
 あの日――増殖し続けた、城のような建物が崩壊した日――唯一の血族と離れ離れになった。繋いでいた手が解けた。大混乱の人混みに小狗は飲まれた。
 生き別れになった兄弟の名を呼びながら、人混みの中を彷徨った。何時間も、何時間も。
 大人たちは幼い小麗に目もくれなかった。彼らは色のついていない、一塊の怪物に見えた。
 海の向こうの侵略者から、正体を暴かれた怪物。翻弄されて戸惑う怪物。彼らから離れ、路地裏にしゃがんだ。
 怪物に吸い込まれた小狗の小さな手。
 両目に手をあててしくしく泣いた。
 どうして泣いているの? と誰かが尋ねた。
「僕にお話ししてくれる?」
 ふわり。小さな身体が宙に浮いた。何者かに抱き上げられた。バランスを失い、首筋にしがみつく。よいしょ、と声を上げると、彼は態勢を整えた。
 ルビーに似た眼差しに見つめられる。艶やかな黒い髪。五歳の小麗より十ばかり年上だが、現地の人間でないことは、上品な身なりから察した。
 家族とはぐれた、とつたない中国語で小麗は説明した。
「君はあの建物の中にいたの?」と彼が指差す先で、まさに解体作業が行われていた。
 是、と小麗は頷いた。いつの間にか放り出されて、離れ離れになった。
 探しても、探しても、見つからない。私によく似た男の子、私たちは兄弟なの。
 彼は、しばらく考えた末、不思議な質問をした。
「その子は、君のお兄さん? それとも弟?」
 兄? 弟? 分からない。一度として考えたことがなかった。
 二人はほとんど同じタイミングで生まれて、同じ時間を一緒に過ごしてきた。
 それでも、小麗は答えた。
「哥哥(お兄ちゃん)」
「哥哥?」
「是」
そう、と赤い目の少年は頷いた。小麗の名前を尋ねるより先に、兄の名前を聞いた。
 少年の背後には、フロックコートをまとった背高の男たちが控えていた。父親ほどの年齢差のある男たちは、敬語を用いて恭しく少年を扱った。彼らは少年を「ネオ」と呼んだ。
 ネオは、男たちを集めて「小狗」という名の子供を探せと命じた。ポラロイドカメラで小麗の写真を撮影し、コピーした写真を手下に配った。
 捜索は、何日もかけて、丁寧に行われた。
 その間、小麗は王宮に似た豪奢なホテルに連れて行かれた。ネオは小さな小麗を膝に乗せ、よしよしと頭を撫でた。
 きっとすぐに会える。
 励ますように彼は言った。
 僕が見つけてあげる。君の大好きなお兄さんを。
 温かな部屋でネオに抱っこされていると、不思議と心が落ち着いた。その胸に顔を埋めると、男の子のにおいがした。入り組んだ廊下が続く屋内で小狗と遊んでいたときに何度も嗅いだにおい。お日様みたいに温かくて、少しだけ粉っぽい。好きな人と同じにおい。小麗は目を閉じた。
 繋いだ手が離れたとき、小麗は確信を得ていた。
 もう二度と、小狗には会えない。
 あの瞬間、混迷を極めた時代の変革に、兄は押し潰されたのだ。
 小麗は目を閉じて、密かに同胞をしのんだ。
 果たして、小狗の訃報が届いた。部下の一人が、繁華街の裏路地で、餓死した小狗を見つけ出した。
 彼は小麗とはぐれたのち、孤児として浮浪者の掃き溜めをうろつき、食うものに事欠いて生き絶えた。路地裏には、同じ死因で生き絶えた子供が何人もいたそうだ。
「可哀想に」とネオは言った。
 心の底から哀れみの響きを帯びた声だった。
 僕と一緒に生きる? と尋ねられ、小麗は頷いた。
「哥哥」と呼ぶと、彼は毅然と首を振った。
 その呼び方は駄目。
 僕は君の兄ではない。君は僕の妹でもない。
「ネオ?」
 そうだ、とネオは頷いた。
 僕の名前はネオ。
「李小麗、君の側にいてあげよう。いつか終わりが来る、その日まで。僕は君を愛していない。しかし、君は僕を愛するようになる。愛は君の糧になり、生きる目的になるだろう。悪くない。それも生存戦略の一つだ」
 その声はとても優しく、とても冷酷だった。
 幼い小麗は、話の内容が理解できなかった。それでも、彼の真摯な台詞を一字一句逃さずに聞いた。日本にやってきてからも、事あるごとにその台詞を思い出した。
 いつか終わりが来る、その日まで。
 今日がその終わりの日だと、小麗は悟った。ネオとフィオリーナ。生き別れの兄妹は再会した。
 妹は二人も必要ない。だから、私は捨てられた。ネオの寵愛は今や、本物の血族に注がれている。
 私はネオの妹にもなれなければ、妻にもなれなかった。
 言うなれば、小狗こいぬ
 私はただの、愛玩動物だったのだ。

 小麗は目を開けた。明瞭な視界に和室の天井が見えた。視線をずらして、側に座る女を見た。龍頭凛。彼女は畳の上に座したまま、こくりこくりと舟を漕いでいた。
 膝下に置いたガーゼの水が、ワンピースに染みている。枕元にある救命箱へ目を移す。白い箱の中にあるはずの、注射針や小型のハサミを思い浮かべる。それから、匙加減で毒にも薬にもなる、薬品類のことを。
 中国式の暗殺術は蛇が獲物を仕留めるように忍びやかだ。死の瞬間を自覚することなく死ぬ。武術とともに、暗殺術も体得した。今からでも遅くはない。
 ……まったく、なんて無防備なんだ。
 小麗は溜息を吐いた。
 おい、と声を掛けて、女を眠りから引き戻す。ごめん、寝ちゃってた。凛は素直に謝った。ごめんね。それから膝に置いたガーゼで、小麗の痛みの汗を拭った。
 体温に染まった生温い布を当てられながら、あの言葉を思い出した。
 可哀想。
 凛は小麗に言った、可哀想と。
 小麗はフォックスに言った、可哀想と。
 その言葉が引き金となって、遠い昔の夢を見た。
 ネオと初めて出会った、幼い過去の夢。
「可哀想に」
あのとき、ネオも同じことを言った。その言葉は天涯孤独の身となった自分に放たれたのだと幼い小麗は思った。しかし今では違うと感じる。
 ネオは小狗に言ったのだ、可哀想と。
「これ……」
おずおずと凛が声を掛けた。脇に置いた紙袋をまさぐって、衣服を引っ張り出す。
 丁寧に折り畳まれたコートは、ここへ来る前に小麗が羽織っていたものだ。
 痛みを堪えて上体を起こす。震える背を凛は支えた。
「貴女が現れた時、赤いコートが、一瞬だけ見えたの……。それで、探しに行ったら、門の外に、落ちてて。ちょっと埃を払ったくらいで、べたべた触ったり、していないから……」
遠慮がちで、たどたどしい説明だ。要領を得ない。しどろもどろの凛を一瞥した後、膝の上に乗ったコートを見た。傷ついた指先で、レザー生地の表面をなぞった。
 初めて愛をもらった、好きな男の愛用品。
 今では彼がこの世に存在したことを示す、唯一の遺品。
 ――世界には愛と裏切りが存在する。
 ――身をもって知るべきだ、小麗。
 フォックスの愛情は偽りだった。それでも小麗は本物の愛情を受けたと感じた。だから、彼のことを可哀想に思えたのだ。
 私は、ネオのことを可哀想に思えば良かったのかも知れない。
 ふと、小麗は思った。
 崇拝するのでもない。兄や妻として恋い焦がれるのでもない。
 ただ「可哀想に」と言って、頭を撫でてあげれば、良かったのかも知れない。
「ありがとう」
意図せず、その言葉が口をついた。
 うん、と緊張した返事が返ってくる。身を硬くした凛に構わず、小麗は言った。
「貴女を殺すのをやめる。貴女の恋人も殺さない。しかし、恨みは消えない。私は死ぬまで貴女たちを恨み続ける。でも、復讐はしない」
淡々とした台詞に凛の緊張は高まった。それは空気を伝播して小麗にも伝わった。
 突如、掛けられた言葉の意味を、反芻に反芻を重ねて、聞き間違いを起こさないよう咀嚼している。布団に目を落とし、十分な思案に暮れた後、凛はそっと黒い目で小麗を見上げた。
「それは、長く生きるってこと?」
「長く?」
「五十年くらい恨み続けるってこと?」
「何を言っている?」
「分からないなら良いの」
凛はふっと安堵の息をついた。緊張の糸が切れたらしい、肩から力が抜けて、脱力した。
 微かな笑みさえ浮かべて、彼女は言った。
 長く、長く、恨んで頂戴。