フィアス、正宗と別れて、シドは六階に向かう。階段の踊り場と階の入り口に張られたバリケードを慎重に乗り越え、お目当てのフロアについた。六階は装身具売り場になっていた。店先のガラスケースはどれも粉々に破壊されている。物盗りの形跡はなく、高そうな腕時計やジュエリーがそのままの形で並んでいる。ここが、獣と人間の違うところだ。
 カウンター型の店の奥で従業員が倒れている。どのフロアでも目にした光景。血塗れでぴくりとも動かない。周囲を一瞥するが、もちろん生存者はいない。ここへ来るまでにいくつか被弾した。鈍痛が胸を中心にうずく。打撲だか骨折だかしたあばらが、呼吸をするたびに悲鳴をあげる。
 フロアは静まり返っている。常人の五感で耳を済ませるが、物音はしない。感じる限り無人に思える。コンはどこに行ったんだ? 慎重にフロアを歩きながら、シドはバディの姿を探す。室内の照明は、すべて破壊されており、視界が暗い。
 ……見えないといえば。
 観測手はどこにいるんだ? シドはふと考えた。
 考えるというより、思い出した。
 人間のさがというのか、姿を認識できるコンとバディを組んだ気分でいた。
 狙撃手と観測手。「ネクロマンサー」は二人で一つだ。ヨンともチームを組んでいる。
 むしろコンは思いのままに動く手足で、意思や思考はヨンが持つ。
 おそらく、彼女はこの建物のどこかに潜み、戦況を見極めている。フィールドを俯瞰できる場所からコンを操作している。シドは注意深く吹き抜けから顔出す。上階には、人影一つ見えない。
 不思議なにおいが鼻をついた。
 欧米圏では嗅ぎ慣れない、粉っぽくて深みのある香り。エキゾチックな香のにおいだ。
 辺りを見回す。フロアの隅にある、アジアンテイストな雑貨店。その店先を白煙が取り巻いている。アサルト・ライフルを担いだコンが、ありとあらゆる形の香炉に香を突き立てている。ジッポ・ライターで灯した火種が、輝きを失った星々のように赤く光っている。
 漂う煙はすべて同じにおい。白檀チャンダンの香りだ。
 コンが振り返る。彼女の背後に幾本もの香が立ち並ぶ。戦いの最中とは思えない。
 「ネクロマンサー」という言葉から連想して、黒魔術的な雰囲気を感じ取る。銃撃戦と黒魔術。どちらともアグレッシブな語感がするが、相容れない……現実と非現実。形而下と形而上という感じがする。
「何してる?」と純粋な疑問をそのままぶつける。
 暗闇の中、コンの灰色の目は、いつものように虚空を見ている。
「暗示を掛け直しているんだよ」首元のスピーカーからヨンが答える。
「狼くんが近くにきた。存在を察知されたくない。設定に戻らせてもらうよ」
「待ってくれ。何を言っているのか分からない」
「説明したところで分からない」
「こらこら」
再び香に火をつけ始めたコンの肩を引いて、強引に向き直らせる。
 いきなり意味不明な行動をとり始めたバディにどう対処しろというのか。今のところ敵の気配はしない。しかし、ここは戦場だ。仮にもチームを組んでいるのだから、行動の意味をちゃんと教えてくれ。
 そのようなことを訴えると、溜息が聞こえた。スピーカーのノイズに塗れているので、面倒くさがりな老婆のものだ。続けてチリンと鈴が鳴り、コンが大仰に肩をすくめる動作をする。完璧な連携プレーで、ウンザリした態度を取ってくる。
 しょうがないねぇ、とヨンは言った。
「私は観測手。観測とは、対象から離れた位置で物事を観察し測定すること。この場合の測定とは、客観的立場から物事の推移を調べることを言う。従って対象者と接触すれば、観測に狂いが生じる」
確かに説明されたところで分からない……シドは言葉を飲み込み、さらに質問を投げかける。
「このお香で暗示が掛かるのか」
「掛けてみないと分からない。普段は蝋燭ろうそくの炎を使用しているんだ。終わりを設けないと、暗示の設定に飲み込まれてしまう。暗示を掛け直すことになるとは思わなかったから、持ち合わせがない。仕方なく、香の火で間に合わせた。これ以上は言えない。企業秘密だ。とにかく火が消えるまで、コンの相手をしておくれ」
チリン、と鈴の音が響き、灰色の目に光が宿った。機械に電力が走ったように。
 無表情だった彼女が表情を取り戻す。
「あれ? シド?」
辺りを見回しながら、首をひねるコン。思い出したように、ぽんと手を打つ。
 こんこんと脇腹に肘鉄を喰らわせてくる。
「シドもオシャレなことをするよね。憧れちゃうなー」
悪戯っ子のような笑み、溌剌とした明るい声。突如、喋り出したコンは科学館にやって来る偽物の人格が宿っている。豹変した彼女に喉が詰まる。
 ここは戦場で、劇場ではない。
「サプライズ……サプライズか」
しどろもどろにコンの言葉を繰り返す。
 サプライズって、何だ? むしろ、俺の方がサプライズされたくらいだぞ。
「フィオとお揃いの指輪をつけるんでしょ。良いな、良いな。私も恋人とそういうことしたーい!」
銃痕だらけの宝飾品店に足を向けるコン。なるほど、彼女の中ではそういうことになっているのか。
 シドは把握する。婚約者とお揃いの指輪を買いに来た。フィオリーナには内緒。楽しいイベントを設けて、クライマックスで秘密のプレゼント渡す。華やかな人生のワンシーン。
 血みどろの戦場から、いきなり夢の国にやってきたみたいだ。
 柔軟な対応、柔軟な対応……頭の中で繰り返しながら、年若い女性の跡を追いかける。
 損壊したディスプレイを見下ろしながら、コンは様々なデザインの指輪を眩しそうに眺める。
 これはダイヤが大きい。これはフィオに似合いそう。これはちょっと高いよねーなどと、一人で盛り上がっている。彼女の目には、倒れた死体も見えなければ、血痕も弾痕も映っていない。肩にかついだライフルはちょっと奇抜なショルダーバッグか。
 完全武装の自分も、ジャケットとジーンズとを引っ掛けた、ラフな姿に見えていることだろう。
 早くおいでよー、と地獄絵図の中で手を振るコンは、ちぐはぐにコラージュされたアート作品みたいだ。
 ヨンも無茶苦茶なことを言う。
 これカワイイ! とコンが指差す先に、エレガントに装飾されたヒスイの指輪が光った。
 確かに、彼女のペンダントのヒスイと合わせても似合いそうだな。プレゼントには最適だ、とシドも同意してしまう。
 いかん、乗せられてしまった。フィオリーナの置かれている状況を知りもせず、女友達の話をし続けるコン。聞いていると、心が不安に揺らいでくる。
「コンは恋人、いないのか?」
 シドはさりげなく話題を変えた。
「明るいし、美人だし、モテるだろ」
「そんなことないよ〜」と頭を掻きつつ満更でもない。おだてに弱いタイプだ。
「恋人はいないけど、好きな人ならいるよ」
「へえ、誰かな?」
「凛ちゃん!」
「ああ、前に言ってたな。タイプだとか何とか……」
 あの話、冗談じゃなかったのか。
 話を振ったものの、まったく広がらない。血みどろの戦場で、恋愛話に花が咲くはずがない。愛想笑いを返すだけで精一杯だ。
 シドの内心を露知らず、コンは灰色の目を輝かせる。
「凛ちゃんと、お揃いの指輪つけたーい!」
 きらきらした目でジュエリーを見下ろすコンを後に残し、白檀香の元へ戻る。火種は三分の一にも届いていない。
 早くしてくれ、ネクロマンサー。
 充満する濃厚な香りの中、シドは上階を見上げた。

 階段の踊り場でフィアスは立ち止まった。不思議なにおいが鼻をついた。
 エキゾチックなアジアの香り。階下から漂ってくる。なんだこれ、白檀か?
 そのにおいに正宗も気づいたらしい、くんくんと鼻をひくつかせている。もっとも常人の五感からにおいの種類までは特定できないようだ。怪訝な顔で首を傾げる。
 謎めく香りに後ろ髪を引かれたが、六階は生物兵器のせいで近づけない。捨て置くことにする。
 前方にタンスや戸棚が積まれたバリケード。ここへ来て守りが強固になった。厳重な獣避けが施してある。五感を開く・・・・・と、七階で人の気配がした。獣でもなく、先天遺伝子でもない。
 別の誰かが、フロアにいる。
 簡単なハンドサインで「様子を見てくる」と伝える。
 正宗は片手でフィアスを差し、もう片手で首を切るジェスチャーをした。後に続く、空振りのパンチ。
 「殺られたらぶん殴るぞ」と言いたいのだろう。こちらとしても、五階の二の舞は御免被る。
 音を立てず、バリケードを乗り越える。身を伏せて、壁沿いに移動する。
 狙撃しにくい死角を抑える……というより、死角だらけだ。商品棚や長机が倒壊し、フロアを埋めている。別のフロアから持ってきたらしい大型家具もあちこちで倒れている。意図的にフィールドを狭くしているようだ。
 床に膝をついたまま、両手に抱えたPCCを見る。この部屋でロングガンの取り回しはきつい。獣たちの気配がしないのも、手狭てぜまなフィールドで武器を使いこなせないまま殺されたからだろう。気配はしないが血のにおいは充満している。
 一時退却して部屋の様子を正宗に知らせるか。
 懐から使い慣れたS&Wを取り出そうとした時、声がした。長い銃身を向ける。
 倒壊した家具と家具の隙間。洞窟のように暗い穴から、少女が出てきた。引き金を引く直前で、止めた。少女の目は黒かった。理性の輝きを宿していた。獣ではない。一般人だ。襲撃時に買い物をしていた一般客の生き残りか? それにしては、泣いたり、パニックに陥ったりしていない。武器を携帯している様子はないから、敵ではない。敵の囮でもなさそうだ。
 ……ごく普通の、女の子?
 銃を構えたまま、フィアスは五感を開く・・・・・。違和感が脳裏をよぎる。
 這って隙間を出てきた少女は、立ち上がるとスカートについた埃を払った。彼女は黒いブレザーの制服を着ていた。中学生か高校生。長い黒髪を三つ編みで締め付け、黒縁のメガネをかけている。顔立ちにこれと言った特徴がない。地味な雰囲気の女子生徒。妙な落ち着きと佇まいが謎めいている。
 フィアスは銃を構えたまま、少女を見つめた。彼女からは何のにおいもしなかった。生きた人間が放つ、体臭が一切しない。制服の布地のにおいも、汗も石鹸のにおいも、なにもしない。
 リアルに描かれた人物画が動いている。否、リアルなホログラム映像が流れている、と例えたほうが現代的か。
 とにかく生物のにおいがしない。
 後天遺伝子が見せる幻覚? ……だとしたら、まずい。
 無臭の少女は、音もなく近づいた。そして、フィアスの前にしゃがみこんだ。
 目と目が合う。
 君は、誰だ?
 声に出さず、フィアスは尋ねた。
 生存者か?
 少女に読唇術どくしんじゅつが通用するか分からなかったが、様子伺いも兼ねて聞いてみた。
 見てくれた? と少女は尋ねた。
――わたしの、描いた絵。
 彼女が喋っているのは、拙い英語だ。一単語、一単語を区切るような形で意思を伝える。
 喋っているのに、その声は空気を振動させない。耳で聞き取ることができない。それは声ではない。少女は口を動かしていない。
 それでも、問いかけてくる……一体、どうやって?
 ペインティングス? とりあえず英語で聞き返す。依然、唇だけを動かして無声で伝える。
 君が描いた絵?
 少女は頷いた。
 こちらの言いたいことを完璧に読み取っている。少し複雑な言語も理解できそうだ。
 試しに数語の簡単な単語を用いて、問いかける。
 俺にくれた、あの絵のこと? あの絵は、君が描いたの? 星と、動物の……?
 少女は頷く。
 それじゃあ、君は……
 フィアスの言葉を遮るように少女は唇に人差し指をあてた。
 しーっ、と乾いた唇がとがる。彼女の言いたいことを言葉にする。
 名前は言えない。
 ――そう。
 どうして、あの絵を俺にくれたんだ?
 Save you.――少女は言った。
 俺を……?
 ――そう。
 少女は首を傾げて、階段へ目を落とした。鼻をひくつかせ、においを嗅いでいる。
 フィアスも同じ方向へ視線を向けた。階下に充満していた香りが薄れている。
 君は……
 視線を戻した先に、少女はいなかった。始めから存在しなかったように、跡形もなく消えていた。かわした会話すら、幻であったかのごとく。
 フィアスは微かに首を振ると、正宗の待つバリケードの向こう側へ戻った。