硝煙に霞む雨の中を潜り抜けた。
 赤い視線を捉えた瞬間、目と目の中心へ弾丸を放つ。光を失った眼を確認する間もなく次が来る。正宗の腕を掴んで、半円を描くように壁に押し付けた。
 廊下の中心を弾雨が過ぎる。次なる赤い視線を感知する。
「マサムネはそこにいろ」
指示を与えて三階のフロアへ。五感を開い・・・・・てアタリをつけた場所に予想通りの数がいる。撃たれる前に撃つ。
 エントランスが開かれ、催涙ガスが撒かれた。煙探知機の警報が鳴る。
 ――耐えろ!
 端的なシドの声が受信機に届いた。
 同時におぞましい憎悪が全身を駆け巡る。フィアスは袖口で口と鼻を抑える。催涙弾に加えて、生物兵器をもう一発。後天遺伝子をおびき寄せる罠だ。インプットされた宿敵へと獣たちは突っ込んでいく。中にはガラス壁を飛び超え、吹き抜けから階下へ落ちてゆくものもいる。衝動の隙をついてフロア内の獣の頭を射抜く。三階だけで十匹。あと何匹いるんだ。上階からの狙いを感じ、退いた床に穴が開く。
 階下のフロアで、チリン、という鈴の音が響いた。動かないエスカレーターに身を潜めて、コンが銃を構える。四階にいた敵が、ライフル弾の餌食になる。前のめりに崩れ落ち、白煙漂うエントランスへ吸い込まれた。
 階下のコンと目が合う。彼女は防毒マスクとゴーグルをつけていた。仮面のようなそれらを剥ぎ取り、ハンドサインを送ってくる。二階まで制圧。フィオリーナはいない。フィアスも了解の合図を返す。
 腕に奇妙な湿り気を感じて目を向ける。いつの間にか負傷していた。流れ弾が当たって右上腕に穴が空いていた。被弾したことにまったく気づかなかった。痛みも衝撃もない。腕から太い血が流れ、スーツの袖を赤く染めている。銃創が完全に閉じるまで五分程度。利き腕をやられなかったのは不幸中の幸いだ。
 フィアスは額に手を当てる。戦いによる興奮からか頭は冴えている。知性も理性も健在だ。後天遺伝子の侵食までまだ時間がある。
 正宗の元へ引き返す……前に、眼鏡屋の店舗でランニング用の色つきゴーグルを拝借する。金は後払いだ。ディスプレイを覆うように、うつぶせに倒れている店員に告げた。
 お喋りな相棒は無傷だった。破壊した自販機で、悠長にコーヒーを飲んでいた。
 人のことは言えないが、やりたい放題やっている。
「ここはビーチじゃねーぞ」
サングラスを見て、さっそく茶々を入れてくる。
「一階で催涙ガスが撒かれた。これはその対策」
なかなか苦しい言い訳だ。
 だったら俺の分も持ってこいよ、若い奴は気が効かねぇな、と正宗は平坦に毒づく。言い訳を本気で信じているのか。冗談に冗談で返しているのか。その口調からは判断がつかない。
 後天遺伝子を覚醒させてから、正宗に追従者の立場を取らせた。援護射撃を受ける間もなく、前方の敵を殲滅した。建物に侵入してから、アイコンタクトは図っていない。
「フォーメーションを決める」とフィアスは言った。
「マサムネはバック・アップに回れ。俺より前に出るな」
「なんで?」
「邪魔だから」
「滑りそうだな。お前の血で」
色を失った視界で、正宗が腕を組む。視線の先を追うと、床を滴る血溜まりが見えた。右腕の重傷を忘れていた。革靴で足元の血を蹴散らす。リノリウムの床に半円形に液体が広がる。フィアスは左腕に巻いたセーラー服の止血帯を外した。正宗に応急処置をしてもらった怪我は完治している。傷痕もない。
 少しでも回復を早めるために、今度は右腕を止血する。
「かすり傷だ。すぐおさまる」
 はあ、と正宗は曖昧な返事をした。傷を治すために一時撤退したが、これはこれで息が詰まる。
 壊れた自販機に背中を預け、煙草に火をつけた。催涙弾が破裂した時点で、エントランスの煙探知機は鳴り続けている。建物を焼き尽くす火災が起きたとしても、巡回警備員が事態に気づくことはない。
 ゴーグルを取り上げようとする手。身をひねってかわす。
 つまらないボクシングが三、四度繰り返される。
 外せ。奪取だっしゅを諦め、正宗は言った。
「グラサンを外せ」
「催涙ガスが収まったら外す」
「ダセェから外せ」
エントランスで銃声が止んだ。フィアスは被弾した患部を片手で押す。痛みはない。良いタイミングで血も止まった。
「全然イケてねぇ。見ているこっちが恥ずかしくなる。そんなみっともねぇグラサンは外せ」
鋭い視線が背中を刺す。お馴染みのX線にスキャンされているが、紙一重で核心に至っていない。どうやらこのサングラスは、紫外線以上に真実を透過する眼差しを防いでくれるようだ。ダセェようだが役に立つ。
 スポーツ用の太くて頑丈な縁をなぞる。レンズ越しの視界は暗い。レインボーの色合いも趣味じゃない。目の色を隠す以外のメリットはまるでない。
 フロア内に敵の気配がしないのを感じ取り、フィアスはサングラスを外した。
「俺の前に出るなよ」
「邪魔だから?」
「うっかり殺したくない」
正宗はなおのこと苛立った。ガキに殺られる俺じゃねぇ、と反発しつつも、真に迫った気配を察して、素直に跡をついてくる。
 真実を見抜く力は、厄介だがおおむね長所だ。
 コンの姿が見当たらない。空を切る銃声が、上階から聞こえてくる。四階だ。一休みしている間に、彼女は先へ進んでいる。エスカレーターを登って同じ階へ。
 コンは吹き抜けの中央部から階下に向けて、狙撃を行っていた。霧が晴れた二階にシドの姿が見えた。怪我を負ったのか鈍い動きだ。狙撃手は残党の始末をして、バディの血路を開いている。
 四階から五階へ続くエスカレーターにバリケードが組んである。システムキッチンや大型のキャビネットが行く道を塞いでいる。四階にきて、いきなりフロアが静かになった。コンが狙撃を行っている周りに、二、三の死体が散らばっているだけだ。
 従業員専用通路の階段に回る。薄暗い店舗裏もバリケードが敷いてあるが、乗り越えられないほどじゃない。
「マサムネ。このバリケードを越える。合図したらついてこい」
「そのグラサンまだつけてんの? 本気でかっこいいと思ってんの? めちゃくちゃダセェよ? 分かってる?」
レンズ越しに正宗が映る。半笑いだ。
 うるさいな、と思いながら、フィアスは五感を研ぎ澄ます。五階、数匹の敵の気配がする。その気配すらも吹き飛ばす凄まじい怒りが全身を震わせる。先天遺伝子。ネオだろうか。フィオリーナだろうか。五階にいるのか? さらに上階か?
 サングラスを外して、バリケードを越える。察知した地点に獣がいた。ひとまず物陰に身を潜め、獣側が撃つに任せる。どうせ当たらない。例え当たったとしても、後天遺伝子の力ですぐに回復する。
 五階は寝具売り場だった。血が染み込んで枕や布団が赤い。布団から飛び出た羽毛がふわりと床を舞っている。反撃に備えながら考える。
 一階から四階までは、バリケードが張られていなかった。
 つまり、五階から先は侵入禁止エリア。
 あのバリケードは、獣避けのつもりだろうか?
 もしそうだとしたら、獣ではなくバリケードを壊すべきではないか?
 このフロアにいる赤目は、下階からの侵入者だ。俺と同じように先天遺伝子を殺す衝動に駆られている。
 死を恐れない赤目たち。彼らは味方ではないが、敵でもない。先天遺伝子という共通敵を持っている。文字通り猟犬みたく獣をけしかけ、混乱に乗じてネオを殺す。この作戦はリスクが高いが、成功率も高そうだ。試してみる価値があるかもしれない。
 反撃の隙ができた。獣を殺す。殺す度に、精神がたかぶっていく。殺人衝動。慈悲心を糧にする必要がなくなった。植え付けられた本能に従う。うるさい銃声が耳障りではなくなってきた。
 獣よりバリケードを壊した方が良い……そう考える根拠を忘れる。無我夢中で殺しながら、バリケードをなんとかしようと考える。エスカレーターに目をやる。五階から六階に続くバリケード。あの障害物を破壊して……。
 チリン、と鈴の音が響いた。
 四階でコンの構える銃口が上を向いた。ほぼ同時に銃口の先へ視線を移した。黒髪の少年。彼は狙いをつけていた。二発の銃声が轟いて、火花が爆ぜた。強い衝撃が胸を撃った。空を切るコンの追撃。六階に向けて連射されるライフルの音。その中に、例の生物兵器が含まれている。宿敵のにおいが空中に放たれると、獣たちが一斉に上階を向いた。その隙に、同フロアにいる獣を撃つ。
 五階の残党はニ匹。生物兵器に気を取られているが、ライフルの銃口はこちらに向いたままだ。視線が目先に戻った瞬間、紛うことなく撃ってくる。
 溢れる血を吐き出して迎撃の構えをとる。が、力が入らない。床に膝をつく。前のめりに崩れる。
「マ、サ……ムネ……!」
血反吐とともに吐き出した、か細い救援要請に応答があった……というより、正宗は指示を無視して勝手にバリケードを超えていた。
 フルオートの激しい銃声。数発が獣の顔面にヒットした。脳幹が破壊されず、呻く獲物を足で踏みつけ、止めの一撃をくわえる。その間に、フィアスは床を這って、支柱の死角に身を潜める。これで二度目の狙撃は受けない。
 血液と吐瀉としゃが器官に詰まる。横向けの体勢になって、窒息する前に血生臭いそれらを吐き出す。背後から入射にゅうしゃした弾丸は肋骨を破壊して右肺うはいを傷つけた。肺に流れ込んだ血液が逆流して口から漏れ出た。
 激痛は一瞬で治まった。
 肺が破れた直後、後天遺伝子がすぐに傷口を塞いだ。胸腔きょうくうに溜まった血はわずかだと思いたい。胸部の疼痛を感じながら、フィアスは血を吐き続ける。迂闊うかつだった。狙撃されたことも含めて、油断しすぎた。
 体内に溜まった血は外傷が回復したところでどうにもならない。
 ……煙草は、もう吸えないかな。
「おいこら、何やってんだ。この自己中野郎。勝手に撃たれてんじゃねぇ!」
正宗が傍にかがむ。ワイシャツのボタンを開いて、怪我の具合を確かめる。血塗れの胸部を見て、ちっ、と舌打ちした。
 辺りを見回して、びりびりに引き裂かれたシーツを持ってくる。銃創に押しつけ、止血される。
 正宗の苛つきは限界に達しているようだった。
 バリケードの手前で置き去りにされたこと、相棒が勝手に動き回った挙句、胸部に銃弾を受けたことが気に入らないらしい。応急処置をしている間も、きつい毒舌が絶え間なく口をつく。
 弱っちいクソガキめ、死んだらぶっ殺すからな! と矛盾だらけの恫喝どうかつが耳に入る。
 フィアスは口を開く。鉄錆の味がして再び吐血した。ハンドサインを描こうとするも、正宗は止血に集中して目もくれない。
 コンがバリケードを超えて五階にやって来た。吹き抜けから全フロアを上下に見下ろし、最後に六階を見上げた。先天遺伝子の生物兵器を放った六階。フィアスも五感を開い・・・・・て、獣の気配を探る。赤目たちの注意が六階に逸れている。階下に潜んだわずかな残党も、パーティー会場へ向かった。
「頭を撃ち抜かれていたよ」とヨンが言った。
「私たちが、気を逸らさなければ」
 銃を構えながら、コンがちらりと目をやる。
 無表情な灰色の目と目が合う。撃たれる直前に聞こえた銃声の一発は、狙撃手が発したものらしい。ネオが撃つ前に素早く先制して手元をくるわせた。礼を言いたいところだが、今は血液しか出ない。
「回復まであと何分?」と尋ねられ、ハンドサインで「8」を描く。
「三分しか待てない」
コンは銃を構え、死角に佇む。シドの行く先に注意を払いつつ、護衛してくれるようだ。
「クソガキ、あとで説教だからな」
 正宗は怒りに燃えた目で、フィアスの赤い瞳を睨んだ。応急処置をしながら、やり取りを見ていたのだろう。瀕死状態であるはずの相棒が、平然とコンタクトを図るのを。
「隠し事と自己中心的な態度……何より、この俺様を甘く見ていたこと。大人を怒らせるとどうなるか、思い知らせてやるからな」
 返事代わりに吐血をする。少量だ。もう少しで動けるようになる。
 面倒くさいな、と思う心中を示すハンドサインが見つからない。
 仕方なく「了解した」というサインを送った。