遺伝子のゆくえ


 涙はとても熱いものね。
 体温をそのまま移したように。
 そして、すぐに冷めてしまうのね。
 幼ない心の情愛のように。

 身体とは裏腹に、心は落ち着き払っていた。過ぎ去った嵐の静けさが一足先に訪れた。声を荒げて訴える自分を、どこか遠くから眺めている。
 要求しながら諦めている。
 夢見ながら絶望している。
「わたくしのことを好きだと言っていたじゃない! あの言葉は嘘だったの?」
 フィオリーナは細い腕に巻かれた包帯をほどき、ルディガーに見せつける。白い滑らかな皮膚。昨晩の傷痕は跡形もなく消えている。最初から傷などなかったかのように。
「休眠状態の遺伝子を成長させているの。こうやって、促進させているの」
ポケットからナイフを取り出す。
 やめなさい、と止めに入るルディガーを振り切って、腕に傷を切る。焼けるような痛み。被害者感覚と加害者感覚が混ざり合う。ぱっくり割れた皮膚から血が滴り落ちる。
 先天遺伝子の細胞分裂は遅い。一般人の分裂速度に比べて二倍はかかる。それは身体の成長に二倍の時間を要するということ。
 忌まわしいこの遺伝子は怪我で負傷したときだけ、集中的に活性化する。
 自分を傷つけなければ、少女の形から逃れることはできない。
 ルディガーを押しける。子供といえど、腕力は桁違いだ。
 ルディガーの手を何度も振り切り、フィオリーナは同じことを繰り返した。自傷を止めたのは怒鳴り声が涙に満ちていたからだ。
 白い腕は血塗れだ。傷口も見えない。ルディガーは立ち上がり、部屋に備え付けられた医療器具を持ってきた。箱の中から清潔なガーゼを取り出して腕に押し当てる。皮膚に浮いた血は溢れることなく白い布に吸水される。
 血液を拭った跡に傷口はない。あれだけの深い傷も数分できれいに塞がる。それでも、ルディガーは傷痕を消毒し丁寧に包帯を巻いた。巻く必要のない包帯を。
 遠巻きに見ていた情景が、自分の中に戻ってくる。ともなう感情、これは愛しさ? それとも憎しみ?
 フィオリーナは金色の髪に触れた。彼は驚かなかった。身じろぎもしない。
 こういうことをすると、科学者たちは恐るべき暴力を想像して、恐怖に身を縮める。先代の実験体が悲惨な事件を起こしてから、先天遺伝子の取り扱いは慎重になった。
 怪物を扱うように、人々はフィオリーナを扱う……ルディガー以外は。
 涙が真っ白な包帯に染みた。血液と違う透明な液体は止め処なくぽたぽたと流れる。それは春先の雨のように、穏やかとも言えるほど静かだ。灰青色の瞳がフィオリーナを仰ぐ。ハグしていい? 静かな声で尋ねてくる。ルディガーはいつも許可を取る。二人の距離が近くなる時は必ず。
 すごく紳士なのね、とその度に茶化したものだった。愛する人の礼儀と気品を愛しく思い、その美しさが自分に向けられていることに対して幸福を感じた。
 しかし、それは間違いだった。
 今夜、その腕に抱きしめられて気づいた。
 彼の礼儀は思いやりや優しさから発露したものではない。文字通り儀礼的な証なのだ。互いの領域を守るために、許可を得ている。
 互いの領域を守るため、不意の侵略を犯さないために。
 そう、そういうこと。
 赤い瞳に溢れる涙は勢いを増した。
「わたくしを傷つけているのは、貴方の優しさよ」
抱擁を解いてルディガーを睨む。
 すぐさま目下を見下ろして、身につけている衣類を見る。何もかもが忌々しい。異質な身体を包むこの包帯――白いブラウスと黒いプリーツスカート。黒いタイツの足先がおさまった、赤い色のメリージェーン。
 病衣らしくない病衣は、どれも子供用サイズだ。十二、三歳程度の、女の子のお召し物。
「愛しているなんて言わないで」
「僕は……君のことを愛している。考え方も、性格も、僕に対する優しさも、その涙さえも」
「その言葉が、わたくしを傷つけるのよ! どうして分からないの? 分かっていながら、無視しているの? わたくしを自分の一部だと思っているのなら、貴方は子供だわ! わたくしよりもずっと幼い子供だわ!」
感情が心を決壊する。フィオリーナは叫ぶ。幼い子供の甲高い声で。
 事情を知らない人が見れば、駄々をこねた女の子に見えるだろう。さながらルディガーの配役は、癇癪を起こした子供に振り回される父親か。
 この構図にフィオリーナは気づいている。気づいても止められない愛しさが、心も身体も傷つける。
 ふいに抱きしめられた。通行証のない抱擁は力強い。それでも、彼の保つ秩序は揺らがない。
 ルディガーは人間で、動物ではないからだ。
 彼のにおいがする白衣の中、美しい思い出が回想される。傷口を流れる血のように。鮮やかで、苦しい思い出たち。
 何度、繰り返すのだろう。傷つけあい、罵り合っても、離れられずに戻ってくる。一時的な感情が収まって、翌日には元の役割を演じる。
 包帯の下の、跡形もない傷口みたいに。
 分かってる、と涙ぐんだ声が頭上から聞こえた。
「君の苦しみは分かってる。僕は傲慢だ。分かっている。分かっていながら、無視している」
「無視出来るなら、すべて無視して」
「それは駄目だ」
「目を瞑って」
背を伸ばして口付けを乞うが手くいかない。
 ルディガーはフィオリーナの前髪をかき分けて、真っ白な額にキスをする。これが答えだ、と言わんばかりに。
「決着をつける」とルディガーは言った。
「僕と君が、狂う前に」
 狂ってもいい。
 震える声でフィオリーナは答えた。
「貴方となら、狂ってもいい」
試験官から生まれ落ちて二十年、感情のすべてを振り絞った告白に、ルディガーは答えなかった。
 白衣の背がドアの向こうに消えた。
 恨みの炎が爆ぜるに任せ、フィオリーナは心の中で彼を罵る。
 ルディガー・フォルトナー。傲慢で、身勝手で、いくじなし。人間を捨てる勇気も、愛する女を捨てる勇気もない、弱い男。
 ……わたくしの、愛おしい人。
 なんて滑稽な失恋だろう。互いに愛し合っていたのに、キスさえ交わしていないなんて。
 彼は人間で、わたくしは動物だった。彼の施しは広大な愛で、極限的な恋ではなかった。
 フィオリーナは泣きながら、キャビネットの引き出しを開いた。一番上の引き出しにしまわれた小箱。その中に、ヒスイのネックレスが入っている。少女の首には大きすぎる代物だが、大人の女性が身につければ素敵なアクセサリーになる。
 十八歳の誕生日に、ルディガーが贈ってくれた。いつか君に似合う日が来ますように、と願いを込めて。
 フィオリーナはネックレスを握りしめる。部屋の小窓を開け放つ。
 自室から小さな湖が見える。宵の更けた晩に見える湖面は暗黒の沼と化している。ルディガーとの関係は終わった。第二世代の実験体は、大人になる前にきっと死ぬ。先代のように致命的なエラーを起こして、いつか殺処分される。希望なんて捨ててしまえ。
 腕を大きく振り上げたとき、ドアを叩く音が聞こえた。
 遠慮深げに。恐る恐る、といった力加減で。
 わずかに開いた扉から、男の子が顔を出した。もじもじした、恥ずかしげな態度だ。
「フィオ」と、きれいなソプラノで名前を呼ばれる。
 七、八歳ほどの、幼い少年の姿をした彼は、血の繋がっていない遺伝子学上の兄弟。
 黒髪に赤い目、顔の造形から身体つきまで、似通ったところが一つもない。卵子と精子の提供者も違う。唯一の共通点は、同じ試験管で培養されたことだけ。フィオリーナが生まれる数年前、この世に生を受けた。
 ネオ、と名付けられたその少年を、フィオリーナは「兄さん」と呼んだ。
「入ってもいい?」
おずおずと少年は尋ねる。一般人より鋭利な五感で、ルディガーとのやりとりを聞いていたようだ。激昂した妹に恐れを抱いている。
 ネックレスをポケットにしまい、フィオリーナは涙を拭う。
「もちろんよ、兄さん」
にっこり微笑み、少年を招き入れる。表面上、機嫌を良くした妹に安堵したらしい。ネオは嬉しそうに目を細めて、大きなベッドに飛び込んだ。敷物から顔をあげ、きょとんとした目でフィオリーナを見上げる。
「ルディガー先生に叱られちゃったの?」
「ルディガー先生に?」
「さっき、泣いていたでしょう? ルディガー先生も怒っていたよね?」
「先生は怒らないわ」
フィオリーナは、ネオの頭を優しく撫でる。
「ルディガー先生はいつも優しい。兄さんも知っているでしょ」
うん! とネオは天真爛漫に笑う。ルディガー先生、優しいよね! 先生たちの中でいちばん優しいよ! と大きな声で主張する。
 フィオリーナに同意することで、励ましているようだ。
 優れた聴覚で立ち聞きしたにも関わらず、二人の会話を理解していない。
 兄は身体的成長にくわえ、精神的成熟も遅かった。頭も心も外見相応だ。複雑な人間関係が分からないし、人の心の機微も分からない。
 少年らしい純朴さで、いつもにこにこと笑っている。
 フィオリーナが生まれてから、ネオはいつも側にいた。
 「僕はお兄さんだから、フィオのことを守ってあげなくちゃいけないんだ」と言って胸を張った。ネオはアメリカン・コミックが大好きで、何年も飽きることなく同じ雑誌を読み続けた。
 心身ともに成長しないまま、悠久に近い時を過ごす兄。時間という概念を持たない兄。
 不幸な少年だと思った。心が成長していく過程で、小馬鹿にしていた時期もある。
 精神的に成熟した今、フィオリーナが抱く感情は羨望だ。兄を羨ましく思う。年相応の心と体で、のびやかに過ごす兄を。
 妬ましいほど羨ましく思う。
「兄さんはわたくしのことが好き?」
ごろごろと寝そべる少年に問いかける。ネオはぼろぼろに擦り切れた漫画雑誌を夢中で読んでいる。こわい時間は終わったと安心し切っている。
 語調を強く呼びかけ、ようやく漫画から目を離した。
「兄さん、わたくしのことを愛してる?」
「うん! フィオリーナを愛してる!」
 フィオリーナは微笑んだ。
「いつまでも側にいてくれる?」
 ネオは微笑んだ。
「うん! ずっと側にいてあげる!」