「ルディガー先生は死んで当然だった」とネオは微笑んだ。
「彼のせいで、施設は破壊されたんだ。あのクーデターを僕たちは望んでいなかった。引き裂かれた、大人たちの都合で。こうして互いが大人になるまで」
 ネオは両腕を開いて、自分の身体を見回した。僕はまだ、大人じゃないかな。小さなつぶやきが、フィオリーナの耳に届く。一歩を足を踏み出そうとした。しかし、層のように分厚い空気が行く手を阻んだ。
 もう少し、もう少し彼の側に行くのよ。
 いくら自分を鼓舞しても、両足は一歩も動かない。これ以上、近づくことはできない。
 仕方なく、歩道橋の袂で立ち尽くす。
「そうですね。彼がいなければ、施設は存続していたはず。わたくしたちはいつまでも幸せに暮らしていたでしょう……あの、悠久の楽園で」
「蛇を退治した」ネオは得意そうに言った。
「楽園の追放者を、現実から追放してやった」
ルディガーの死際の情景が、ストロボのように瞬きながら脳裏を駆け巡る。さらにその前の、彼と過ごした思い出の日々が一瞬の刹那によみがえる。
 付随した感情から距離をとった。
 問題は過去じゃない。
「兄さんを守りたい」
フィオリーナは言った。
「終わらない戦争はない。この戦いもすぐに終焉を迎えます。勢力と勢力が極限までねじれて、犠牲者の血が絞り出される。目も眩む業火はその後です。全世界が徒党を組んで、地獄の支配者をあぶりり出す。歴史は繰り返されるでしょう。兄さんに戦犯の道を歩ませたくありません。今度こそ楽園に行きましょう。あの頃のように側にいてください」
ネオはじっと話を聞いていた。フィオリーナの短いながらも、切実な訴えに耳を傾けていた。
 外見も精神年齢も幼い、しかし兄は人心掌握じんしんしょうあくという天資てんしを持っている。
 ネオは妹の言葉を反復し、細分化して検証を行った。シャーレに乗った言葉を顕微鏡で拡大したり、ナイフで切り刻んだりしている。
「それは、間違いじゃないかな」
 数十年前と同じ、純真な眼で問いかける。
 間違い。どういうこと? わたくしは本心を告げた。愛する彼のことを思って、この提案を持ちかけたのよ。
「わたくしの言葉に嘘はありません」
 そうだね、とネオは同意した。
「その言葉に嘘はない。君でさえ気づかない真実が隠されているだけだ」
「わたくしでさえ気づかない、真実……」
予想外の答えを聞いて、フィオリーナは兄の言葉を反復することしかできない。
 ネオの微笑みは悲しげだった。
 曇空の陰影で、悲しげに見えただけだろうか。
「側にいて欲しいのは、ルディガーだろう」
フィオリーナは息を呑んだ。
「違います。ネオ」
「ここにおいで。フィオ」
ネオは両腕を開いた。
「愛しているならできるよね。ここにおいで。僕を抱きしめてよ」
 彼の純真な眼。
 思わず目を逸らしてしまいたくなるほど、純真な眼。
 その眼から愛情を感じとる。数々の非道な行いに手を染め、大勢の人間の人生を破壊してきた兄だが、遺伝子学上の妹にその刃を向けてこない。
 その瞳に見えるのは、愛情を与え、愛情を欲する姿のみ。
 呼応するための一歩が、踏み出せないのはなぜだろう。彼とともに消滅することで、全ての問題にカタがつく。先天遺伝子の破壊も、赤目たちの鎮圧も、後天遺伝子の問題も。
 この世に未練はない。兄のことを愛している。
 それなのに足が動かない。ハグしていい? 静かな声が脳裏に蘇る。大好きな灰青色の瞳。彼は死んだ。兄によって殺された。
 切り離しても切り離しても、渾々と湧き上がる怒りと悲しみ。
 一歩も近づけない。
 彼は、ルディガーを殺したのよ。
 フィオリーナの赤い目から、涙が滴る。

 決着をつける。
 僕と君が、狂う前に。

 狙撃手に最後の合図を送った。
 弾丸の衝撃が身体を貫き、フィオリーナは意識を失った。


 開けた視界が揺れる。焦点の合わない目。ピンクや紫、青と赤が混ざり合うモヤが見える。
 一本の指が伸び、目で追うように指示がある。
 左右にスライドする指を追いかける。
 混在していた色彩が、徐々に落ち着きを取り戻す。
 ピンク・ブルー・グリーン・オレンジ。一色ごとのパステルカラー。馴染みの薄い壁画を捉える。
 動物が気球に乗った、子供向けの明るい絵。その壁の下にある、数々の物体にも色がつく。小さなジャングルジム、布でできたボール、カラフルなブランコと角の丸い積み木。
 室内用に作られた、柔らかい玩具たち。鉄でできたものは一つもない。
 吐いた息が人工呼吸器の中で白くぼやける。全身を包む大人用のベッドの周りに、様々な医療器具が並ぶ。ちぐはぐな部屋だ。病に侵された子供の病室みたいだ。
 意識は胡乱としていて、深い考えごとができない。
 フィオリーナは見る。頭上に点滴袋が吊られている。麻薬か精神安定剤。薬のせいで心を穏やかにさせられている……穏やかならぬ状況にも関わらず。
 ベッドの周りに数名の人間がいた。医者の身なりに近いが科学者だ。英語でなにやら話をしている。先天遺伝子の回復力についての会話。学術的だが、ただの雑談だ。
 二、三の雑談を終え、白衣の人間はネオを呼んだ。
 部屋の向こうから少年が現れた。大人たちに容態を聞く。傷口は未回復。拘束。精神を制御。
 ドイツ語のやりとりから、簡単な単語しか拾えないのは「精神を制御」されているからか。
 精神どころか、きついベルトで身体を拘束されてもいる。
 聞くことを聞いて、兄は科学者を部屋から追い出した。ベッドの側にやってきて、フィオリーナの頭を撫でる。
 その瞬間、周りの機械が容態の急変を知らせて騒ぎ出した。この身が示す拒否反応を、フィオリーナはぼんやりと見つめた。
 手が離れると、けたたましい警告音が落ち着いた。
「僕のこと、許さない?」
ネオは言った。言葉の意味も聞き取れた。しかし、思考が追いつかない。
 許すって何? ……ああ、ルディガーのこと? フィオリーナは五分かけて思い出すか、返答ができない。喉が詰まって喋ることができないのだ。
 精神を制御、発声も制御?
「ルディガー先生の遺した後天遺伝子が、世界を血だらけにするなんて、すごい皮肉だと思わない?」
微笑みを浮かべて、ネオは続ける。
「僕たちの破壊のために作られた遺伝子が、僕たち以外のすべてを破壊する。皮肉というか、洒落が効いてる」
話を聞きながら、フィオリーナは自身が受けた傷痕を探る。歩道橋の上で狙撃手が放ったライフル弾。弾は右胸部に受けていた。胸骨と内臓の一部を破壊して貫通した。
 痛みはない。しかし、怪我も回復しない。
 作戦は失敗した。フィオリーナは痛感した。
 わたくしはネオと心中を図れなかった。
 心の底から思っていることを伝えたつもりだったのに。
 ネオは、ルディガーの元に行きたいのだろう、と言った。
 兄妹きょうだいに安寧をもたらすためではなく、愛した人のところに行きたいのだろうと。
 真実か否かは、分からない。ネオは確信を持って断言したが、自分の気持ちがよく分からない。図星を突かれた衝撃もなければ、嘘だと言い切る自信もなかった。
 無意識の底に潜んでいた本音? しかし、ネオによって顕在化されたはずの本音は、他人事のように感じられる。
 あの研究施設から逃げ延びたとき、過去の一切を断ち切った。少女時代のあらゆる感情を、自室から見える湖の底に捨てた。そうしなければ、生き延びることが出来なかった。
 それよりもショックだったのは、ネオに対する恨みや怒りを、自分の中に見つけてしまったことだ。
 兄さんを守りたい、と告げておきながら、ルディガーを殺されたことに対する私怨を見出されてしまった。
 兄さんを守りたい。でも、許さない。かつて愛した人を殺した兄さんを絶対に許さない。
 抱きしめてあげたい、とフィオリーナは思う。すべての因縁を捨てて、貴方を。
 どうしようもない遺伝子を共有している、貴方のすべてを。
 赤い目から滑り落ちた涙を、ネオは親指で拭った。途端、医療機器がありえない数値を示す。
 騒ぎを聞きつけ、白衣の人々がやってくる。心配ないと合図を送って、彼らを部屋の外へ追い返すネオ。
「話してごらん」
優しく促され、フィオリーナは会話を試みる。しかし、上手くいかない。肺にダメージを負っているのか、声を放つと内臓に負荷を感じる。痛みはないのに、重い。
 一語一語を振り絞って、フィオリーナは想いを言葉にする。
 兄さん……。
 距離、距離、が。
「側に行けない」
ネオの言葉に、微かに頷く。
 わたくし、を、阻む。
 過去。
 愛おしい、過去、が……。
 愛おしい過去が邪魔をする。怒りや恨みが、大好きな兄に向けられる。
 刺すような痛みが胸を突いた。フィオリーナは咳き込む。呼吸器に血の飛沫が点々と飛び散る。
 ネオはガーゼで患部を抑えて、点滴袋のしぼりを緩めた。液剤の落下速度が増し、再び思考にモヤがかかる。
「過去に戻ろう」
 大人と子供の中間にいる、低くもなく高くもない声が告げる。
 フィオリーナの頬を涙が伝う。その涙は自分のものではない。
 ざあざあと降り続けるこの雨は、ネオのものだ。
「過去に戻る。僕たちが二人ぼっちだった頃に」
 そんな、こと……。
「できる。君の前から消してあげる。あの男と、あの男の子供。忌まわしい遺伝子を根絶やしにして、二人だけの楽園で暮らそう」
 そんな、こと……。
 出来るわけがない。
 貴方はなにも分かっていない。
 たとえ過去に回帰できても、それはわたくしではない別の誰かよ。貴方が欲しているのは、わたくしではない別の妹。兄さん、時計の針は進むの。過去にはもう戻れないのよ。
 脳裏に浮かんでは消える言葉を紡いで聞かせてあげたい。
 眠りの海へ誘われながら、フィオリーナは思った。
 わたくしの声は届かない。