穏やかな笑顔と対照的に、闇医者はてきぱきと治療を施した。
 麻酔をかけて患部を切開し、埋まっていた弾丸を取り出した。凛は医者の側について簡単な作業を手伝った。取り出した弾丸は、予想していた通り鋭いライフル弾だった。
 こんなものを体内に抱えたまま、動き回っていたなんて。
 医者は患部を消毒した後で縫合し、抗生物質入りの点滴剤を施した。
 バイタルを測定するモニターを見ながら唸る。
 思わず凛は問いかけた。
「小麗、助かりますか?」
「うん。臓器の損傷も小さかったし、撃たれた直後に応急処置がしてあったからね。大丈夫だと思うよ」
 安堵の息を吐く。
 医者は銃撃の事情を聞かされていないのか、「どっちのお友達も無事で良かったね」と慰めの言葉をかけた。凛は曖昧な笑顔を作るだけにとどめる。それから横浜中で起こっているテロ事件について、他愛ない世間話をした。
 起こるかも知れない銃撃に備えて、闇医者は笹川邸に留まるという。
 若君の経過観察もかねて、数日、滞在するそうだ。
「これ以上、患者が増えないでほしいね。お金を貰えるのはありがたいけれど、医者が素寒貧すかんぴんなのは平和の証だからね」
味のあることをおじさんは言って微笑んだ。
 凛にバイタルサインの見方を教え、女の子が目覚めたら呼んでくれる? と言い残して闇医者は退室した。
 凛はバイタルをチェックしながら小麗の顔色を伺った。
 血色は戻っていない。快方には向かっている。あとは小麗の治癒力次第だ。
 看護の合間、真一の様子を見に行った。
 真一は鎮痛剤の影響で、眠りに就いていた。
 そろそろと障子を開けると、茜と目が合った。彼女は真っ赤な鼻をぐずぐずさせながら、泣き腫らした涙の痕を拭った。よほど怖かったのだろう。友達が傷つく姿を間近で目にしてしまったのだから。
 隣に座って肩を抱く。涙目のまま茜は笑った。
「真一、寝言、言っとる。お好み焼きとか、たこ焼きとか。絶対、アホな夢見とるで」
「真一くんらしいわね。たくましいというか」
「食いしんぼうなだけや。弾丸も脂肪で食い止めたし」
 ちょうどそのとき、もぐもぐと口を動かした後で、うまー、と寝言が聞こえた。
 本当だ、夢の中で何かを食べてる。
 な、アホやろ? と確認を求めるように茜が凛を見た。
「それにしても、あの女、なんで真一を撃ったんや」
茜は真一に向き直ると、緊張に身を固くしながら、低い声でつぶやいた。
「こいつ、恨みを買うようなことしたんやろか」
「たぶん、あたしを狙ったんだと思う」
「凛姉ちゃんを? なんで?」
 うーん、と首をひねる。
 思い当たる節が多すぎて、うまくまとまらない。
 一番高い可能性は、裏切り者の後始末。後天遺伝子を使ったテロを起こした時点で、先天遺伝子の子孫を残すというネオの計画は変更された。
 したがって、用済みになった自分を始末しに来た。
 あるいは、嫉妬心が絡んでいる。小麗はネオを崇拝している。拉致されて、彼女と引っ掻き合いのケンカをした時に気づいた。特殊遺伝子を持つ自分に対し、小麗は嫉妬し、羨望していた。
 それで個人的な恨みを晴らしにきたのかも。
 どちらにしても、小麗の暴挙の原因は自分にある。
「ごめんね。真一くんの怪我は、あたしのせいよ」
何言うてんの! と茜は憤慨した声をあげた。
「凛姉ちゃんは悪くないよ。どう考えても、あの迷惑女が暴走しただけやんか。自分を責めたらアカン」
茜は目力を込めて凛を見た。
「あの女みたいに、怒りや悲しみを人にぶつけるやつがたまにおる。他人をストレス発散に使う、心の弱い人間が。今回は、面倒くさい毒に当てられただけ。凛姉ちゃんも真一も、アンラッキーだっただけや」
「茜ちゃん、深みのあること言うわね。あたしより大人みたい」
「ウチ、スナックのママに向いてんのかなぁ。進路、変更すべきやろか……」
 うーん、と考え込む茜の隣で、凛は真一の手を握った。
「真一くん、早く良くなってね」
「平和になったら、みんなでお好み焼き食べいこ!」と茜が明るく言った。
贔屓ひいきにしてる店があんねん。ウチが真一の夢を正夢にしたるわ」

 小麗が目覚めた。麻酔が切れた痛みで目を覚ましたらしい。
 闇医者を呼んで術後の容態を診てもらった。
 診察の間、一之瀬にも護衛に立ってもらう。怪我を負いつつ、大暴れした小麗だ。念を入れるに越したことはない。
 ところが、彼女は微動だにしなかった。虚ろな目で天井の一点を見つめたまま、終始無言を貫いた。
 痛いところはないか? 気分はどうか? という問診を無視され、医者は困った笑みを浮かべた。
「小麗、なんとか言って」と強要して、ようやく「問題ない」と答えた。
 経過観察の終わりに、微量の抗不安薬を投与してもらった。
 小麗は診察の最後まで大人しくしていたが、再び自殺を企てるかも知れない。精神を落ち着けてもらい、冷静な状態で話がしたい。
 医者が部屋を出た後、もの問いたげな一之瀬にも離席してもらった。いざと言う時のため、廊下で待機してもらう。
 青白い顔に何の表情も浮かべず、小麗はそれぞれの動きを眺めた。雲の流れや、木々の揺れを眺める程度の無関心さだ。凛が部屋に残っても、無感情のまま。庭先で感じた殺意はひとかけらもない。
 小麗、と名前を呼んだ。
 小麗は首だけを動かして凛を見上げた。
 黒い眼は落ち着いていた。
 落ち着いていて、静かだった。
 勇気を出して、凛は尋ねた。
「あたしを殺しに来たんでしょ?」
「そうだ」
小麗は布団の下でわずかに身体を動かした。そして苦痛に顔を歪めた。
 慌てて、救命箱を取り出す。
「鎮痛剤、いる?」
尋ねたものの、返事はない。
 苦悶の表情は、痛みが過ぎ去ると同時に消えた。
「どうして私を助けた」と小麗は問いを返した。
「助けなど必要なかった」
「助けたのは真一くん。あたしは手助けをしただけ」
「そいつは、どうして助けた」
「知らない」
「お前は、どうして手助けした」
「それは……」
「答えろ」
端的な質問を投げ続ける小麗。怪我を追っているが、淡々とした声だ。
 一問一答形式の会話に、躊躇いを覚える。
 激昂を恐れて調子を合わせているものの、一言では答えられない。
 ちらと障子に目をやる。ぼんやりと一之瀬の影が映っている。
 胸の前に手を置いて、凛は一思いに告げた。
「あたしが貴女を助けたのは、可哀想だと思ったから。なぜかは分からないけれど、貴女はとてつもなく傷ついて、可哀想だった。真一くんもそう思ったから、助けようとしたんじゃない? 小麗の身に何が起こったのか、みんな知りたがってる。あたしも、真一くんも、茜ちゃんも、そこにいる一之瀬さんも」
小麗の表情は変わらなかった。無味乾燥に「可哀想」と繰り返した。
「私は、可哀想か」
「そんなふうに見える」
「可哀想……」とつぶやいて、小麗は目を閉じた。
 彼女は素顔だった。ファンデーションをつけていないので、肌の青白さが余計に目立った。
 どうしてこんなに可哀想に見えるんだろう……。
 布団にしまわれた手を握った。すぐに小麗は目を開けた。てっきり眠り込んだと思っていた凛は、少しだけ驚いた。繋いだ手を通して、痛い思いをさせられるかも。
 しかし、その心配も杞憂に終わった。
 小麗は苦悶の表情を浮かべた。疼痛とうつうの耐え難さは、先ほどよりも強かった。
 救急箱から鎮痛剤を取り出す。
 やめろ、と強く拒絶された。そんなものは必要ない、と言い切られた。
「私は、可哀想じゃない」
「ごめん」と凛は謝った。可哀想という言葉が、武人のプライドを傷つけたと思ったからだ。
 小麗は情けや施しを疎ましく思っている。「可哀想」という憐憫の情も、神経を逆撫でしたかもしれない。
 ところが、その推論も的外れだと気づいた。
「彼は、可哀想だった」
 天井へ目を向けて、小麗はぽつりとつぶやいた。
 彼って……。
 すぐにネオが思い浮かんだ。しかし、口から出たのは別人の名前だった。自然な流れに乗ってはからずもその名が口をついた。
「……フォックス?」
小麗の細い目尻から涙が溢れ落ちた。
 数多の粒はやがて太い川になって、枕を暗く濡らした。痛みに呻くような嗚咽が、結ばれた口元から微かに溢れた。何気なく口にした言葉は、彼女の心を震わせた。凛は悲しみに暮れる彼女を眺めることしかできなかった。
 フォックス。自分を拉致した殺し屋。派手な身なりの赤髪の男。
 今でも自信ありげな態度と鋭い目つきを思い出すことができる。
 その名前を起点として、ありとあらゆる情報が、頭の中で結びついた。
 小麗は涙とともに血色を取り戻していった。青白い頬が薔薇色の熱を帯び、白い唇に赤みが差す。
 顔に両手を当てて、しくしく泣き続ける小麗。それはフィアスがいなくなった直後、縁側で泣いた自分の姿と被った。
「貴女は、フォックスのことが好きだった」
確認を取るために尋ねた言葉が涙に滲む。
 ああ、いけない。もらっちゃった。目尻から溢れる涙を拭って、凛は続ける。
「彼のために復讐しにきた。あたしというか、フィアスというか……」
小麗は泣き続ける。凛はポケットから取り出したハンカチで涙を拭いた。
 その声は聞いているこちらまで辛くなってしまうほど、悲しげだった。
 どうしよう、と凛は思った。
 一体どんな言葉を掛ければ良いのか。
 彼女から見れば、こちらは加害者だ。
 好きな人を殺された。
 小麗の好きな人は、あたしの好きな人に殺された。
 やるせない思いを抱えたまま、小麗の涙を拭い続ける。
「理屈は分かる」
しばらくして、小麗は言った。
「戦えば、どちらかが死ぬ。私は戦士だ。理屈は分かっている。理屈は……」
傷が疼き、小麗の細い眉が歪んだ。
「心に理屈は通用しない。だから、納得させるしかなかった。納得させるには、この方法しかなかった。私はネオを愛している。愛する人を殺せない。フォックスは可哀想だった。私は何もできなかった」
じっと話を聞き入っていた凛は、内心で首を傾げた。
 ネオ?
 どうしてネオが出てくるの?
 辺りを見回すと、唐木座卓の上に茶器一式が置いてあるのが見えた。ちょっと待ってて、と告げて温かな緑茶を淹れた。人肌くらいに冷まして与える。
 小麗は一口飲んだ。
「フォックスが可哀想ってどういうこと?」
 落ち着いた頃合いを見計らって凛は尋ねた。
 小麗は外傷か心傷しんしょうかに顔を歪めながら、ぽつぽつと事情を説明した。
 単語が連なるだけの台詞。端的な会話のやりとりに掛かる時間は長かった。
 話を聞いた後、ばらばらだった言葉のパズルをつなぎ合わせる作業に、さらに時間がかかった。
 つまりこういうこと? と確認を取りたかったが、小麗に事実を再認識させるのが恐くて聞けなかった。
 すべてを話し終えた後、小麗は力尽きて眠りに落ちた。
 静かな寝息を立てる彼女の傍で、凛は組み合わされた事実を反芻した。
 それは、こういうことだった。

 昨日の歩道橋で、小麗はネオに許しを乞った。
 フォックスと行動を共にしてから、小麗は<サイコ・ブレイン>のアジトに帰らなかった。フォックスが死んだ後も、アジトに戻れなかった。時間にしておよそ一ヶ月、姿をくらました謝罪をした。
 ネオは小麗に許しを与えたが、かなり投げやりな態度だった。
「良いよ。許すよ。ちょっと、それどころじゃなくてね」
 小麗は幼少のころにネオに拾われ、様々な軍事訓練を受けた。肉体を強化し、日々研鑽を怠らなかった。
 武術を体得する一方、彼女はある目的を抱いた。夢といってもいい。
 それは、母体になることだ。
 先天遺伝子を産むための母体。凛がネオの子供を宿せなかったときに、代理出産をして母になる。
 その夢は小麗にとって、生きがいであったらしい。
 ネオの子供をこの身に宿す。
 世界を一変させる、神の子供を。
 遺伝子上の繋がりがなくとも、私は神の母親になれる。
 しかし、後天遺伝子のコピーが完成してから、ネオは先天遺伝子の繁殖実験に興味を示さなくなった。
 ネオの興味は素早く後天遺伝子に移った。後天遺伝子を注入したフォックスに。ネオはフォックスのあらゆるデータを取り続けた。
 戦闘に手慣れた人間が後天遺伝子を注入すると、どの程度戦闘力が上がるのか。
 精神状態は? 五感に対する反応は?
 そういえば、と思い出したようにネオは言った。
「フォックスの死際を見たよ。衛星の観測から。ラインハルトに殺された。破壊と再生を繰り返す獣たちのイタチごっこ。とても面白い決戦だった。それに……」
三回、とネオは三本指を立てた。
「通常の人間ならば一回で発狂するところ、フォックスは三回耐えた。三回目に発狂して、理性を失った。とても興味深いデータが取れた。身体能力が関係しているのか。精神力が関係しているのか。死に方もとても面白かった。何かの幻覚を見ていたみたい。泣きながら、ずっと自分の足を撃ち続けていたよ」
「そ、それじゃ……。か、彼は……」
小麗はがたがたと震えながらつぶやいた。
「か、彼は……最初から、死ぬ運命だったのですか」
「僕は、生きていてほしかったね」
ネオは残念そうに肩を落とした。
「幻覚症状の分析が行える。僕があの戦場にいたら、檻に入れてでも連れ帰っていたと思うよ」
 小麗は足元から崩れ落ちた。
 フィオリーナがやってきたのはその直後だ。彼女の身体を通して放たれた銃弾が、ネオに被弾する前に小麗は身体を張って食い止めた。歩道橋から転落し、道路を通る自動車に運ばれた。数分気絶していたが、なんとか意識を取り戻した。再びねぐらに戻り、装備を整えて笹川邸にやってきた。
 真の狙いはフィアスだったが、抹殺対象は凛でも良かった。好きな人を失う気持ちを、どちらかに味わわせればそれで良かった。
 私はとむらいにきたのだ、と話の最後に小麗は言った。
「彼の喜ぶ顔が見たかった」