小麗の寝顔は穏やかだった。ここ数日の出来事を吐き出して、肩の荷が降りたのかも知れない……そうだと思いたい。
 音を立てず、障子戸を開けた。廊下で待機していた一之瀬に礼を言う。
 凛と小麗はただ広い部屋の中央で、静かに話をした。
 いくら障子が薄くとも、会話の内容は聞こえなかったはずだ。もちろん彼も、他人の会話に聞き耳を立てるような低俗な真似はしない。
 一之瀬は隻眼の目で凛を見下ろした。
「彼女から動機は聞けましたか?」
「小麗は、あたしを狙っていました」
「それは、凛さんが所属していた組織の命令ですか?」
「いいえ。私怨でした」
「なるほど。拘束しますか?」
 凛は首を振る。小麗に戦う気力は残っていない。体力もない。
 恐ろしい事実を語った彼女は、同時に内省していた。
 起こった事実、湧き上がった感情を語ることで、客観的に自分を分析しているように感じられた。
 確信は持てないけれど、復讐心が再び頭をもたげることはないと思う。もちろん、邸内で暴れ出すことも。
 ただ、心残りがなくなって、自殺を図るかも知れない。
 心配なので、引き続き側についていたい。
 私怨の内容は明かさず、そのような意見を述べると一之瀬は頷いた。
 先ほどと似た相槌を打ったが、賛同を示す強い頷き方だった。
 様々な人間模様を目にした結果か「内容についてはお尋ねしません」と彼は告げた。
「一つだけお答えください。お二人の因縁に、若は関わっていますか?」
「いいえ。真一くんは無関係です。生命を狙われることはありません」
 安心しました、と一之瀬は心から安堵した表情を浮かべた。
「しかし、凛さんに危険が及ぶのも気懸りです。大事をとって、腕の立つ部下を護衛につけましょう。俺は引き続き、邸外の警護にあたります」
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「お構いなく。これも世話人の役目ですから。それから、正宗の件ですが……」
 困り顔の世話人を見て、凛はハッとした。
 正宗のこと、忘れてた!
 心の底から、正宗の存在を完全に忘れ去っていた。
 姿をくらました父は、どこで何をしているのか。
 部下に笹川邸の周辺一帯を捜索させたが正宗を発見できなかった。荷物をまとめた痕跡がないから、逃亡したわけではなさそうだ。彼は携帯電話を持っていないので、連絡をすることも、GPSを使って行方を探すこともできない。
 一之瀬の報告を聞きながら、身勝手だなぁ、と凛は思った。日夜、家でごろごろして、気ままに何処かへ行ってしまう。野良猫みたいな身勝手さだ。
 口には出さないが、かつての旧友も同意見らしい。
 もっとも一之瀬の場合は「相変わらず」身勝手だなぁ、と思っているようだ。
 娘以上の呆れが、重い溜息に表れている。
 暗い顔つきの二人の元へ、茜がぱたぱたと走ってきた。真一の携帯電話を耳に当てて通話している。二人の元に来る直前、「あっ、切れた!」と電話を見つめた。
「姉ちゃんパパから着信あったで。変わるって言ったのに、切りよった」
唇を尖らせてぶつぶつとつぶやく茜。
 携帯電話を借りて、着信履歴を見ると「シド」の携帯電話だった。
 慌ててかけ直すも、応答不可になっている。呼び出し音すら鳴らない。
「シドの電話から、お父さんが掛けてきたの? 真一くんの携帯電話に?」
わけのわからないコネクションだ。どうしてシドの近くに正宗がいるのか。
「お父さんはなんて言ってたの?」
「マサ……正宗はいずこへ?」
鬼気迫る二人におろおろしながら、「なんや、知らんけど……」と茜は気弱な前置きをした。
「おっちゃん、フィアス兄ちゃんと一緒におるって言うとった。場所は教えられへんから、探しても無駄やって言うとった。忙しくなるから電話もかけるなって。それから、〝けーいち〟って言う人に、ちゃんと家を守れと伝えろって言われた。これで全部。ウチ、覚えるのに必死やった。正宗のおっちゃん、立板に水やから取りつく島もないねん。うるさかったわ」


「やめろ」
その一言で、改めてバディが結成された。
 フィアスと正宗。シドとコン。
 ネオの抹殺。フィオリーナの救出。
 シドとコンはその場に残り、先天遺伝子の生物兵器で赤目を一掃する。そして突破口を開き、エントランスから突撃。
 フィアスと正宗は、赤目が生物兵器に注目している隙に、エントランスと反対側の商品搬送口から侵入。ネオを探し出して殺す。
 役割と目的、作戦内容が素早く決定した。シドはショッピングモールのフロアマップや内部構造をノートパソコンに表示して説明した。
 モールは八階建てで中心部は吹き抜けになっており、左右にエスカレーターがついている。搬送口の近くに運搬用のエレベーターと階段があって、各フロアへ移動できる。ただし、エレベーターを安易に使用して、閉じ込められれば一巻の終わりだ。細工が施されている可能性も考えて、使わない方が良いだろう。
 一フロアの面積は広い。若者向けのカジュアルな店から年配者向けの高級店、レストランや映画施設まで揃った超大型施設だ。
「ここは制圧拠点だな」とフィアスは言った。
 ショッピングモールはテロや篭城に最適ではあるが、アジトに向かない……というより、人目につきすぎて長期滞在は不可能だ。
 本陣はおそらく別にある。
「フィオリーナもネオも、本当にここにいるんだろうな?」
「いる」とヨンは答えた。
「彼らはいる。この仮初の揺籃に。早くしないと逃げられるよ」
「本拠地はどうする?」
「君の知ったことじゃない」さらりとヨンは答えた。君の知り得ない未来の話さ。
「安心しろ」と、シドがフォローする。
「ここに来るまでに、数名の友人から連絡があった。フィオリーナお墨付きの、裏社会の重鎮たちだ。最悪の可能性も考えて、彼女が根回しをしたらしい。司令塔ネオを殺し、フィオリーナが執権を取り戻せば、残党の始末に時間は掛からない。今は拡大するテロの根源を叩くことが先決だ」
フィアスは灰青色の眼差しでシドを見た。
「あの二人を守ってくれ」
「そのためにフィオリーナを助けるんだ」とシドは答えた。
 フィアスは正宗を見る。
 彼は、三人から離れたところで通話中だ。
 先ほど、携帯持ってるやつ手を挙げろと言って、手を挙げたシドから携帯電話を奪い取った。
 去りゆく皮ジャンの背中を恨めし気に睨みながら、フィアスは連絡手段を絶たれた旨をシドに説明した……というより愚痴った。
 ははは、とシドは苦笑した。苦笑を返すことしかできない、と言った笑いだ。
「赤目に言語は通じない。やつらは良いとして、問題はネオだな。通信機、使うか? フォックスの時のように、盗聴される可能性もあるが」
 フィアスは手首を見る。電子時計型の小型通信機。スイッチを入れると時計盤が表示される。
「一応持っておく。行動確認はやめよう。非常時の連絡手段だ」
 話をしながら五感を使って、電話の内容を聞いた。正宗は連絡帳に登録してあった真一の電話番号に掛けて、俺の行方は探すなと伝言をことづけていた。
 電話に出たのは茜だったが、正宗のマシンガントークに圧倒されて、まともな受け応えが出来ずにいる。最終的に若者らしい物分かりの良さで聞き役に徹し、正宗の言いつけにはいはいと従っていた。
 電話先の声色から、このおっちゃん面倒くさいわ、という内心が読み取れた。
「そうだ。マサムネは面倒くさい」
茜に同意するようにフィアスは言った。
「面倒くさいが、センスはある。戦力の足しにする」
「せいぜい足を引っ張られないようにしなよ」とヨンが言った。
 通話を終えた正宗が帰ってきた。
 ありがとさん、と携帯電話を投げて返す。
 シドは電話を受けとり、電源を切ってポケットにしまった。
 てめぇら、ちゃんとやれよ、という正宗の口癖が作戦開始の合図になった。
 フィアスと正宗は駐車場の外壁を回って、裏口に辿り着いた。生物兵器をエントランスに向かって投げたことは、全身を巡る怒りの感情を通して伝わった。神経を逆撫でする、激しい憎悪の感情。
 反射的に遺伝子上の標的へ――生物兵器へ足を向けたいのを堪える。獣たちの大量虐殺が始まった。銃声と血のにおい。数が多すぎて、何十匹いるのか、判断がつかない。
 忌まわしい死の空気は、正宗にも伝わったらしい。こともなげに「ロックだな」とつぶやいた。
「うるさい音楽は俺好みだ」
「アヤもパンク・ロックが好きだった」
「聴かせまくっていたからな。子守唄がわりに」
 あんたのせいか、とフィアスは内心でつぶやく。
 俺たちのデートがうるさかったのは、あんたのせいか。
 追憶に似た激しい音楽――銃撃は続いている。
 シドとコンのアサルト・ライフルのほか、獣たちも撃ってきている。
「凛は流行の歌が好きだろ。ガキの頃は、ラブソングをよく歌ってたよ。アイドルになりきってな」
「彼女の嗜好は知らない」
「好きな女の趣味くらい覚えとけよ。俺は落としたい女の好みをチェックしてたぞ。これがモテるやつとモテないやつの差だな。あいつらの世界は、理解者か否かで出来ている。敵か味方かじゃない。理解者か否かだ。学識と数式だらけの頭に叩き込んどけ」
 はいはい、と先ほどの茜と似た返事をして頃合いを見計らう。
 獣といえど元は人間だった者たちの死際に、これほどどうでも良い会話はない。突入の際に武器の最終チェックをしていると、正宗の鋭い視線に当てられた。その目は自分の顔、かくべつ瞳に向けられている。洞察されている。コンによって阻まれていたスキャナー機能が、再び働き出した。
 理解者になるのは女だけか、と皮肉がついて出そうになる。
 獣の気配がある程度しなくなるまで、無視を決め込むしかない。
「ちゃんとやれよ」と正宗は言った。
「三人でごちゃごちゃ言ってただろ」
「俺たちの話を聞いたのか?」
「通りすがっただけだよ。車のトランクに隠れる前にな。昨晩の不感症ちゃんの話と、任侠王子の性格を合わせれば、会話の内容は予想がつく。何より経験則だ」
小突くような勢いで、煙草くさい手が頭の上に乗った。
 がっしりと、振り子の思考を止めるように。
「約束守れよ、男だろ?」
 分かってるよ……と、軽々しく言えない。
 頭に乗った重い手を、投げやりに振り払う。
 約束、と心の中でつぶやく。
 仕事を終えて、帰ってくる。赤い目になっても、帰ってくる。
 それが約束。
 友達と恋人と、交わした約束。
 搬送口の扉を開ける。テロ直前に来店していた一般客と店員の死体がフロアのあちこちに転がっている。フィアスは五感を研ぎ澄まして、先天遺伝子の気配を探る。一階にはいない。二階、三階と階段を昇るごとに、獣の数が多くなる。彼らはシドのトラップにおびき寄せられなかった赤目たち。
 希望、と心の中でつぶやく。
 この心臓は、フィオリーナの心臓と紐づいている。あと三時間で彼女の鼓動は停止する。フィオリーナに掛けられた死の暗示を解くには、自分の鼓動を停止させるしかない。つまり、死ぬしかない。
 約束と、希望。
 目を閉じた。
 父親譲りの灰青色の瞳が、赤く変色すると同時に、銃声がフロアにこだました。