李小麗は震える手で銃を構えた。
 群青色のチャイナドレス。右脇腹から血が染み出し、赤黒く変色している。蒼白した顔の中、黒い瞳が異様な輝きを放つ……涙が光に反射するせいか。
「撃つな」と真一は言った。小麗ではなく、ヤクザたちに命令を下した。
 この女性を殺してはいけない。一目見て感じた。煮えたぎる怒りと静かな悲しみ。相反する激しさが、彼女の全身を取り巻いている。
 銃を構える小麗は、深傷ふかでを負った動物が、決死の覚悟で牙を向く姿に似ていた。それは、こちら側の世界の、ごく一部の男だけが変化する姿だ。
 女の子にこんなことをさせてはいけない。
「小麗、銃をおろしてくれ」真一は静かに告げた。
「あんたを助けたい」
 一之瀬に、武器を置け、と合図した。彼は難色を示しながらも絶対たる若君の命令に従った。部下たちへ武器を置け、と指令が下り、芝の上に銃器が落ちる。
 張り詰めた空気の中心点、小麗は武器を捨てない。武装解除した周囲を見回すこともない。青ざめた顔である一点を凝視している。
 標的は決まっている、と真一は気づいた。視線を走らせ、隣に佇む凛を見た。
「なぜ、生きている……」
薄い唇から低い言葉が漏れる。話すことに気力を使うのか、息も絶え絶えだ。
「早く、こうするべきだった……。希望の、芽を、積んでしまえば……。彼は……、彼は……」
「撃たないでくれ、小麗」
「彼は……、彼は……っ!」
紅潮した頬をぼろぼろと涙が伝う。ぎゅっと目を閉じ、小麗は食いしばるように引き金を引いた。
 真一は凛を押し除けた。あ、と思う間もなく強い力が全身に迸った。衝撃に押される。天と地が逆転する。茜の悲鳴がつんざくように耳の中へ入ってくる。続いて凛の叫び声。
「ま、真一くんっ! 真一くーんっ!」
痛みというより衝撃。何かがどくどくと自分の外側へ漏れ出している。
 頭が冷えて、吐き気がする。貧血を起こしたのか?
 近くでわんわん茜が泣いている。その泣き声が幕一枚隔てた向こう側から聞こえてくる。
 耳鳴りに似ているが、異音は聞こえない。
 数秒遅れて強い痛みがやってきた。
 目の前が白くなったのは一瞬のこと、すぐに視界を取り戻した。
「い、痛ぇ……」
青空を背後に茜が見えた。ぼろぼろと涙を流している。
 いつもの口調で、なにやっとんねん! とツッコミを入れられる。
「ドアホ! わざわざ撃たれに行くやつがあるか! しっかりせえ! し、死んじゃ、やだっ!」
「し、死んでない……痛い……」
弱々しい声で答える。激痛だ。苦しい。中学のマラソン大会で、15kmを走らされたとき、いちばんきつい部分で感じた苦しみと似ている。その苦しみが絶え間なく持続している。
 嫌だ! と真一は思う。早退したい。サボりたい。……じゃなくて気絶か。今は。
 視界に凛が見えた。いなくなったと思った彼女は、救命箱を取りに行っていた。ジャージの裾をたくし上げられ、患部にガーゼを当てられる。強く押し当てられ、ようやく痛みの場所が分かった。右脇腹、偶然にも小麗が受けた傷と同じ箇所だ。
 凛も泣きながら、それでも冷静な声で真一に告げた。
 真一くん、大丈夫。致命傷じゃない。銃弾は貫通した。撃たれた場所も贅肉の部分。骨も臓器も心配ない。腸も傷ついていないから、うんちも出てないよ。ゆっくり、深呼吸して。
「守ってくれてありがとう。真一くん、本当にありがとう」
 うぅ、と相槌と呻きの中間の声が出る。上手く受け答えができない。
 凛に代わって、一之瀬が見えた。滅多に顔色を変えない彼の顔も青ざめている。凛が真一に言い聞かせたことと同じ内容を手早く伝える。話に頷きながら、一之瀬は携帯電話で何者かに連絡をとった。
 大きな手が真一の手を力強く握りしめる。
「若、お気をしっかり。すぐに医者が参ります」
「や、闇医者……?」
「すみません。市内の一般病棟はテロ被害者で満室状態だそうで。ただし腕前は確かです」
 ヤクザ専用の「ブラック・ジャック」 か。金がかかりそうだな……と考える余裕が出てきた。
 茜ちゃん、ここ押さえて。止血して。凛が素早く指示を与える。膝に抱えた救命箱から薬瓶と注射器を取り出し、液剤を注ぎ込んだ。
「鎮痛剤、少しだけ打っておくね。痛みがやわらぐから」
 先の痛みが勝って、注射されたことも分からなかった。それでも、すぐに身体が楽になった。同時に眠気もやってきた。鎮痛剤ってモルヒネか。そんなことを思いつつ胡乱とした目で茜を見る。ぼろぼろと涙を流し続ける茜。小熊の唸りに似た、可愛くない嗚咽だ。
「まだ泣いてんの……?」なんとか声を振り絞り、真一は言った。
「泣くなよ、男だろ?」
 死に物狂いの冗談に、ぶるぶると茜は震え出した。
 怒鳴られるかと思いきや、少女は微かに唇の端を吊り上げて笑った。
「覚えとくわ、ドアホ」

 応急処置は施した。一之瀬によると、医者は十五分程度で到着するようだ。
 真一の出血が落ち着いたところで、凛は立ち上がった。
 庭先を見る。
 小麗は芝に膝をついたところで、一之瀬に取り押さえられた。彼女は抵抗しなかった……自らの舌を噛むという決死の抵抗を除いては。
 口元の唾液にわずかな血が混ざっている。
 凛はハンカチを取り出し、口の周りを拭う。若衆に囲まれた小麗は、芝に横たわったまま浅い呼吸を繰り返している。自殺するほどの体力が残っていない。おそらく、あの一発を放って、彼女を支えていたすべての力が尽きた。
 傍に膝をついて、救命箱の中身を漁る。これはフィアスの所持品だ。真一が撃たれた瞬間、あの箱の存在を思い出し、大急ぎで彼の部屋から持ってきた。かなり使用したと見えて薬品の残量が少ない。
 注射針の予備があったので、真一に注入したものと同じ鎮痛剤を打つ。
 針の刺激で小麗は気力を取り戻した。暗い目で凛を見上げる。
「私を、殺すのか……」
「喋らないで」
「死なば……もろとも……」
怖いことをつぶやきながら、小麗は目を閉じた。細い身体をそっと抱き起こし、仰向けに体勢を変える。チャイナドレスの裾をまくり、血染めの衣服の裏側を確認した。治療を施した痕があった。
 自分で応急処置をしたらしい。一旦は塞がった傷口が、激しい動きとともに再び開き、流血したといったところか。血塗れのガーゼを剥がす。赤黒い血は右脇腹のすぼまった穴から噴き出ていた。銃創だ。真一が撃たれた傷よりもひどい。周りの皮膚組織が破壊されて、ぐちゃぐちゃになっている。そっと体勢をずらして背中を確認するが、貫通した痕がない。
 もしかして、とつぶやかずにはいられない。
 もしかして、弾丸、取り出していないのでは?
 凛はひとまず傷口の周りを消毒した。止血剤入りのガーゼを押し当てながら一之瀬を呼んだ。
 彼女の容態を説明し患部を見せた。医者の治療が必要だ。
「そうですね。若に危害をくわえたとは言え、捨て置くわけにいきません」
一之瀬は部下を呼んで、気を失った小麗を邸内へ運ぶよう指示を出した。
 その際、凛は小麗の身体を探って隠し武器がないか入念にチェックをした。暗器あんきの類で一矢報いられては大変だ。
 洋服、脱がしておこうかしら。女の子だけど……。
 逡巡した挙句、チャイナドレスを脱がせることにした。彼女は民族衣装の下に、下着を身につけているだけだった。ボディーアーマーやプレートの類はない。レースのついた黒い下着と、右太腿に小さなレッグホルスターが一つ。真一を撃った銃をその中へ忍ばせていたのだろう。毒針も刃物も見当たらない。武器らしい武器は小型拳銃くらいだ。
「扱いに気をつけてください。撃たれているから。たぶん、銃弾も残っています」
空室に敷いた布団の上に小麗を寝かせ、濡れたタオルで身体を拭く。それから四肢の怪我の消毒をした。打ち傷と切り傷でまだらなどどめ色になっているが、お腹以外は軽症だ。
 止血剤が効いたのか、銃創からの出血もおさまった。医者が来たら、弾丸を取り出してもらって、滅菌消毒。抗生物質も打ってもらわなきゃ。
 小麗の顔色は死人のように白い。呼吸も浅く、脈拍もかなり遅い。
 障子戸を見る。近くの部屋で真一の治療が行われている。
 小麗を部屋へ運んだ後、一之瀬はきっぱりと告げた。
「すみません、凛さん。若の治療を優先させてください」
「もちろんです。あたしも、真一くんが心配だから。先に見てあげて」
そう言って一之瀬の懸念を取り除いたが、早く弾丸を取り出さなければ小麗の怪我は生命に関わる。鎮痛剤が切れてきたのか、細い眉が苦痛にゆがんだ。次第に意識も取り戻すはずだ。
 凛は、小麗の冷たい手を握った。
 <サイコ・ブレイン>なのに。自分を狙ってきたのに。真一くんが撃たれたのに。
 なんだか、可哀想だった。
「何があったの?」つぶやくように凛は言った。
 そのとき、障子戸が開いた。
 数名のヤクザに従われて、おじさんが顔を出した。ごめんねぇ、待たせたねぇ、と人好きのする笑顔で謝りながら部屋に入る。
 チェック柄のシャツを着た、普通のおじさんだ。天気の良い日に町中を散歩していたら、似た格好のおじさんと三人くらいすれ違う。それくらい普通のおじさんだ。
 闇医者と聞いたから、もっと陰鬱な影のある男だと想像したんだけど……。
「〝ブラック・ジャック〟じゃないんですね」
「あれ、さっきの子と同じこと言ってる! 若いのによく知ってるねぇ!」と闇医者のおじさんは笑った。