希望と約束


 凛は気が抜けたように縁側に座っていた。
 放心状態の真一とともに、十分かけてこれまでの記憶を回想した。
 さらに十分かけて、この場所で交わしたやりとりを仔細に追想した。
 走馬灯のようにめぐる彼との思い出をすべて思い返した後、凛はしくしくと泣き始めた。
 知り合って、近づいて、遠のいて。昨日の夜に、ぎりぎりまで近づいた。
 そして再び、遠のいてしまった恋人。
 〝きちんと躾けて、可愛いワンちゃんにしてあげる〟。
 あんな冗談が飛び出るなんて我ながら感心する。悲しみへの墜落を防いだ、ぎりぎりのユーモア。ここは笑い飛ばさなければいけないと、頭ではなく心で計算した。
 本当は「行かないで!」とすがりつきたかった。
 世界の都合なんてどうでも良い。後天遺伝子とか、集団テロとか、組織の存続とか、そんなもの関係ない。誰かの押し付けがましい思いに、貴方が生命を投げ出す義理もない。お願い。行かないで。戦わずに側にいて。
 しかし、ここで引き止めたら、彼はさらなる葛藤と戦わなければならないことも分かっていた。
 貴方が困ると、あたしはもっと困るのよ――だから、笑い飛ばさなければならなかった。
「どうしよう。フィアスがいなくなっちゃった。どうしよう。あたし、どうすれば……」
何も考えられない。狼狽する言葉は意味を持たない。あてどない両腕は恋人を抱きしめられず彷徨うばかりだ。
「彼が殴られたら……撃たれたら……二度と、戻って来なかったら……」
 頭を垂れて、咽び泣く。その肩をがっしりした腕が抱く。
「大丈夫」と真一は言った。冷えた上腕をごしごしとさすりながら。
「約束しただろ。どうすれば良いか、もう忘れたの?」
「信じる……」
ぽつりと凛は言った。一粒の涙が流れるとともに。
 そう、と真一は微笑んだ。
「凛の約束はいちばん楽だぞ。女の子だから、ハンディだ」
ごしごしとさする手が強い。温かいけど、少し痛い。力加減の分からない男の子の励まし方だ。
「真一くん、ちょっと痛い」
わっ、ごめん! と言って真一は離れた。ごめんごめん、と平謝りしながら頭を掻く。
「俺の約束はけっこう難しいな」
あははは、と笑う真一につられて少し笑った。その明るさが頼もしい。真一も同じような傷を負ったばかりだというのに。きっと泣きたいくらい辛いのに。
 天性のものではない彼の明るい優しさが、凛の涙を堰き止めた。
 メイクするの忘れた、と涙を拭いながら凛は思った。
 それどころか、夜のメイクも落とさず寝た。艶のないせた顔のまま、洗顔もしないで送り出した。フィアスが出発ぎりぎりになって、ここを出ていくと告げたからだ。涙まじりのしんみりムードが嫌だったのだろう。土壇場で知らせてきて、名残を惜しむ暇もなくさっさと出て行ってしまった。
 そういうのを、男ってやりがち。
 「出て行くときは知らせてね」と約束した。それは「出て行く瞬間に知らせてね」という意味じゃない。前もって計画を伝えてほしかったし、十分なハグとキスの時間も欲しかった。そういう日のために、特別なメイクだってあるんだから。
 現実的な後悔をしっかりと思い出し、凛は安心した。悲しみの渦の中でわんわん泣き続けるだろうと思っていたが、彼との交流で鍛えられた強さは、しっかりと心に根を張っている。
 信じる。どんなに状況が厳しくても。誰がなんと言おうとも。
 彼を信じる。
「真一くんてさ、彼女いたことあるの?」
たわしで磨くようにごしごしされた腕をさすりながら凛は聞いた。
「あるよ!」真一は大声で言った。大ボケをかました相方に対して、ツッコミを入れる勢いだ。
「中学の時に付き合ってた彼女がいたよ……二股、かけられてたけれど」
「あ、そんな感じする……」
「どんな感じだよ!」と再びツッコミを入れてくる。
 ふふふ、と笑うと、ようやく真一も安心したように笑った。
 その笑いをかき消すように、携帯電話が鳴った。着信音ではない。聞き慣れない大きな通知だ。
 電源がついたディスプレイを真一の隣で覗き込む。「緊急速報」とタイトルが振られた警告が表示された。

 緊急速報。
 ゲリラ攻撃情報。当該地域にゲリラ攻撃の可能性があります。
 すみやかに屋内に避難してください。

 笹川邸内のあちこちから同様の通知が鳴り響く。大音量の警戒警報は、ボタンを押すとすぐに止まった。
「地震以外で、初めて見た」スクリーンショットを撮りながら真一はつぶやく。
 そのままSNSを開くと「緊急速報」「テロ事件」「ゲリラ攻撃」などの不穏な言葉がトレンドワードに表示されている。
 赤目が動き始めたのだ。画面を操作しながら、二人の顔が青ざめる。
 真一と凛姉ちゃーん! 大声で名前を叫びながら、どたばたと茜が駆けてきた。
 ぜいぜいと息を切らしつつ、「やばいで! やばい!」とまくしたてる。
 身だしなみを整える最中に飛び出してきたのか、トレードマークのポニーテールを変な位置で結んでいる。
「やばいっ!」と茜は悲鳴をあげた。
「学校の周り、荒らされとる! サバゲーみたいやって、友達が言うとる!」
女子高生は二人の側に腰を下ろすと、SNSや動画を検索し始めた。なんやこれ! なんやこれ! と叫びながらスワイプしまくる。半泣きだ。画面がおかしくなると、半狂乱になりながらアプリの開閉を繰り返した。
「繋がらん! 電話も掛けられへん!」
「落ち着け。回線が混雑してるんだ」と言いつつ、真一も慌てる。先ほどまで見ていたSNSが更新できないからだ。
 玄関扉が開いた。黒服の男たちがぞろぞろと出てくる。幹部から若衆まで全員が武装している。彼らはアサルト・ライフルやサブ・マシンガンといった、ロングタイプの銃器を手にしていた。普段、屋敷を護衛しているヤクザたちは、秘匿性ひとくせいの高いハンドガンを携帯している。ヤクザというよりボディーガードといった佇まいだ。それが今や、戦場へ向かう兵士のような格好だ。
 重装備の彼らを見て、いよいよ大変な事態になったのだと感じる。
 荘厳な正面門が少しだけ開くと、黒服の何人かは表に出て見張りに立った。
 若、と落ち着いた声が聞こえた。動揺する三人の元へ一之瀬がやってきた。両手にAR-15を抱えている。
 呆然と一之瀬を見ていた茜が、「サバゲーやん」とつぶやいた。
「若、外は危険です。邸内へお入りください。皆様もどうぞ中へ」
「慶兄ちゃん、これはどういうこと?」
「俺も状況を把握しきれていませんが、横浜を中心に銃撃事件が起きているようです。町田にいる若衆や他組織からの情報によりますと、少なくとも十箇所以上で暴乱が起きたとか。ここからそう遠くない場所でも事件が発生したようなので、我々は非常線を張り屋敷を守ります」
淡々と告げた後、どうぞ中へ、と繰り返して三人を奥の間へと招いた。そこは茜が間借りした部屋の近くだった。
 警護に戻るという一之瀬を見送った後、ひとまず三人は茜の部屋へと移動した。茜の部屋にはパソコンやテレビがある。真一もノートパソコンを持ってきて、大きな唐木座卓とうぼくざたくの上に開き情報収集を始めた。その間も、絶えず携帯電話を片手に友人や知人へ安否確認を試みる。
 茜も同じようにメッセージを打ちまくり、クラスメイトや他校の友達へ電話をかける。
「おう、健吾、無事か?」
「庵奈、生きとるかっ?」
「沢村先輩が撃たれた? マジかよ、大丈夫かな……」
「優香? 梨沙? りっちゃん? みんな無事で安心したわー」
「美香ちゃんはお店にいんの? 恵子ママは? ……いやいや、臨時休業しろよ。緊急事態だろ」
「村田、動画撮りに行くのだけはやめてや。再生回数より生命いのちやで」
テレビのニュースが流れていた。
 電話を掛け続ける二人の前に座って、各チャンネルをザッピングする。どの番組も臨時ニュースを流していて、ヘリによる現場中継や市民が撮った動画などが放送されている。彼の姿が映っていないか目を凝らしたが、映像は火を吹く建物や藍色のジャンパーを羽織った警官隊の姿ばかりで一般人は見当たらなかった。
 視聴者への配慮か「この中継には過激な映像が含まれています」とテロップが流れる。死体は映っていないが、きっと多くの死傷者が出ているはずだ。その中に大切な人が含まれているかも知れない。だから、真一や茜は必死に呼び続ける。
 誰もいない、と凛は思った。
 あたしには無事を確かめたい友人も知人もいない。継続的な繋がりを知らずに生きてきた。これまでに出会った人は、だいたい死んだか行方不明者。安否を確かめる間でもない。
 凛は立ち上がると、忙しない二人を残して部屋を出た。廊下を何度か曲がって、黒電話のある場所へたどり着く。
 フィアスの携帯へ電話をかけよう。そろそろと受話器へ伸びる右手を、左手が取り押さえた。
 彼は戦いの最中にいる。電話を掛けてどうするの。
 その着信がきっかけで、死んでしまったらどうするの。
 黒電話から離れる。目に毒だ。連絡手段を目前にすると、三人で交わした約束を破ってしまいそうになる。寄るべなさを感じながら引き返す途中で思い出す。
 友人でも知人でもない、家族の存在を。
「正宗……」
 その名を呼び、眉を潜める。
 命名する暇もないほど、たくさんの感情が心の中を錯綜する。
 彼もまた客間の一室を仮住まいとして与えられていた。
 初めて入る父親の部屋は様々な私物で散らかっている。凛の自室と同じように、整理整頓ができていない。
 お父さん? と声を掛けて布団をめくるがもぬけの殻だ。三十分の時間をかけて、邸内を回るも発見できない。
 正宗、どこ行ったんだろう?
 玄関に回って靴を履く。注意深く一之瀬の元へ駆け寄る。
一之瀬は隻眼せきがんを見開いた。
「凛さん、表に出られては危険です」
「あの……父を見かけませんでしたか?」
「正宗? 屋内におりませんか?」
「いないんです。どこを探しても。一之瀬さんなら知っているかと思って」
一之瀬の顔が曇った。さっと庭園を見回すと、益々その顔が曇った。部下の一人を呼びつけて、庭内をぐるりと一周させた。
 報告を待つ間、不安がじわりとした汗になって掌に浮いた。
 どこにもいません、と部下が一之瀬に告げる。
 一之瀬は冷静な目で凛を見下ろした。
「正宗のことはお任せください。凛さんはひとまず中へ」
「父は出て行ったのでしょうか?」
「なんとも言えません。もう一度屋敷の中を見回った後、近辺を捜索してみます」
 そのとき、がらりと玄関扉が開いて真一と茜が顔を出した。
 見つけた! と二人の声がハモる。
「姉ちゃん、びっくりさせんといて。かくれんぼしとる場合ちゃうで」
「フィアスとの約束、破らせないでくれよな。凛は俺に守られてないと駄目」
「えぇっ! なにそれ!?」と茜がショックを受ける。
「なに、その少女漫画みたいなやつ? あんた、凛姉ちゃんのこと好きなん?」
「大人には入り組んだ事情があるんだよ。とりあえず、凛は家に……」
真一の声を遮って、悲鳴が聞こえた。正門の外からだ。
 若衆の叫びが途絶えた後、群青色の衣服が正門を超えてひらりと舞った。それは民族衣装。太ももまで大きなスリットが入ったチャイナドレスだ。
 しなやかな飛躍は、水面から飛び立つ白鳥のようだった。
 その鳥は門を超えて力尽きた。
 着地に失敗し、どさりと芝の上に墜落した。
 一之瀬がライフルを構える。部下たちも臨戦態勢に身を固くし、ロングガンの銃口を侵入者に向けた。
 侵入者は気を失っていた。意識を取り戻すまでに一分ほど掛かった。
 震える腕で体勢を立て直し、よろよろと立ち上がる。
 長い黒髪の女性。色の白い瓜実顔うりざねがおに涼しげな黒い瞳。滑らかな鼻先がおちょぼ口に続いている。
 東洋的な見目麗しい顔立ちが、完全に血色を失っている。顔色は白と青と紫。ひどく具合が悪そうだ。
「小麗」と凛はつぶやく。
李小麗は震える手で銃を構えた。