フィアスは縁側に座っていた。
 喫煙所と化している縁側だが、今は煙草に手を伸ばしていない。壮大な日本庭園を、ぼんやりと見つめている。
 紅葉こうようも落ちつつある紅葉もみじの樹や美しく剪定せんていされたまきの樹。それらの背後にある池泉けせんに澄み渡った空が鏡写しになっている。
 池泉には朱色の太鼓橋が掛かっており、橋の先には大きな石碑せきひが苔むしている。
 ただでさえ広い庭が、奥行きを考えた樹木の配置によって、より遠近を感じさせる。
 どこまでも、果てがないような。
 先ほど、笹川毅一に会った。早朝に足を運ぶ習慣があるらしく、江戸小紋の着流し姿で、片手に煙管きせるを携えていた。今日は一段と冷えるな。一声かけて縁側に腰をおろす。
 フィアスは笹川に改まると、頭を下げた。
「ササガワさん、今までお世話になりました。俺はここを出ていきます。リンやマサムネのことで、引き続きご面倒をお掛けすると思いますが、どうぞよろしくお願いします」
笹川は、見定めるようにフィアスをじっと見つめた。
 そして、庭先へと視線を移した。
 煙管から漂う井草に似た香りが、ふわりと老人にまとった。
「兄さんは、この庭が好きかい?」
「庭ですか? ……きれいだと思います」
意図せぬ質問を浴びて、庭園を見る。初めて笹川邸に来たとき、見事な庭だな、と思ったことを覚えている。ここで銃撃戦になっても、庭先は傷つけないようにしようと思ったことも。
 うむ、と頷いて笹川は続けた。
「この庭は池泉庭園と呼ばれていてな。日本庭園の中では一番多い様式のそのなんだ。仏教思想や神仙しんせん思想など庭園によって基づく考えは様々だが、わしはこの庭を構えるときに一つの思いを託した。あの橋を見なさい」
笹川の指差す先に太鼓橋が見える。水面に反射した虚像の橋と合わせて円の形を描き出している。
 小さい頃、真一はあの橋の上で遊んでいて池に落ちたらしい。浅い池の底で頭を打って脳震盪のうしんとうを起こした。仰向けに浮かんで来なかったら間違いなく死んでたな! ラッキー! と九死に一生を得た経験を、自虐ネタとして披露していた。
 庭先に見える橋には、その情報しか付随していない。
 幼い真一が、ふざけて死にかけた橋。少しだけ、縁起が悪い。
「あの橋は、常世とこよ現世うつしよを結ぶ橋なんだ。わしの人生の折々で失くした者たちをしのんで作った。死者も生者も自由に往来できるようにと思いを込めてな」
「恐ろしいですね」
「なに、あの橋を渡っても死にはせんよ。わしは幽霊さんも見たことがない。……ただ、橋を架けたことを少し後悔しておる。わざわざ区切る必要もなかったのだと、人生の灯火ともしびが短くなった今では分かる。生と死は区切る必要がない。重なり合って共存しておる。わしらには不理解の形で、確かにそこにあるのだよ」
 笹川は煙管を吸い終わると、灰色の眼差しでフィアスを見た。
 皺だらけの顔を緩めて微笑んだ。
「魂は不滅だ」

 笹川がいなくなって間もなく、真一が縁側にやってきた。
「早朝七時 この場所を出ていく」。六時に送信したメッセージに返信はなかった。電話を掛けようか迷っていたところへ、ドタバタとやってきた。
 寝巻で飛び出してきたのかジャージ姿だ。青白い顔でぜいぜいと息を切らしている。
「こらっ!」と真一は言った。
「メッセージだけ入れて、出て行こうとしただろ!」
「いや、電話を掛けようとしたぞ」
「掛けてないじゃん! 履歴ついてない!」
「今、掛けようと思ったんだよ」
「嘘つけ……相棒を、ほったらかしにしやがって」
真一は両目に溜まった涙をジャージの袖で拭った。そのまま隣へあぐらをかく。袖は目元に当てられたままだ。うっと喉を詰まらせて、悲哀に耐えている。
 言葉の詰まった真一を見ながら、凛を呼ばなければと考える。
 科学館で指切りをした。出ていく時は知らせる、と。
「マイチ」
「なんだよ」
「泣くなよ。男だろ?」
「そんなルール、知らないってば」
「凛に見られたら恥ずかしいぞ」
「恥ずかしくないし」
「十五分やるから、どうにかしろよ」
フィアスは立ち上がる。長い廊下を渡って、凛の部屋に向かう。
 彼女は未だに眠っていた。そっと声を掛けると、裸のまま起き上がりフィアスを見上げた。目と目が合っただけで、伝えたいことの意味を感じ取った。メイクする時間はなさそうね、と目蓋をこする。寝起きを引きずった涙にしては、次々と溢れ出る。
 ごしごしと目を擦りながら、凛は箪笥の前にしゃがんで衣類を選び始めた。
 ここにいてもいいかな? と聞くと、おすわりしてなさい、と笑った。忠犬ハチ公、そこにおすわり。
 凛は淡々と下着や靴下を身につけ始めた。その一つ一つの仕草が、とても美しかった。
 彼女のことが好きだな、と再確認できるほど、好ましい仕草だった。
 そういう、近い関係にならないと見えないものを、色々な場面でもっと見ていたかった。
 凛は白色と黒色のワンピースを取り出した。
 どちらともシンプルな意匠で、初冬の装いに適した生地だ。
「どっちがいい?」
「ええっと……白かな」
「男の子って白が好きよね」
「そうか?」
凛はにっこりと微笑んで、白いワンピースに袖を通した。
 着替えを終えた彼女を連れて縁側に戻る。
 真一はどうにかしろと言ったものをどうにかしていた。
 瞼は微かに腫れていたが、いつもと変わらない笑顔で凛に挨拶した。
「おはよ!」
「おはよ!」
同じ掛け声で凛も挨拶を返す。三人、その場に腰を下ろした。
 フィアスはスーツの懐から煙草を取り出して火をつけた。
 紫煙を吸いこんで、一つの区切りをつけようとした。
 三人でいた時間のすべてに。
 友達と、恋人に。
 しかし、火種がフィルターに届いても、上手くいかなかった。
 本当は誰にも知られずに出て行きたかった。死期を悟った潔い動物のように。
 しかし、二人に出ていく時は知らせると約束した。
 人間は約束をする。
 動物と違う。
「俺たち三人が、この問題を切り抜けられるか考えた」
 真一が言った。
 フィアスと凛に向き直り、ふうっと息を吐く。
「この問題は、俺たち三人が約束を守ることで解決できる」
 一つ目。
 真一は自らを指差した。
「俺の約束、それは凛を守ること。ダチとして、フィアスとの約束を守るよ。誰にも凛を傷つけさせないと誓う」
「あたし、お姫様みたいだね」
「女王様の方が近いかも」
その違いは何かしら? と鋭い目つきに当てられ、真一はたじろぐ。慌てて、お姫様です、と訂正する。
 二つ目。
 凛を指差した。
「凛の約束は、信じること。凛は疑り深いから、ここで約束しちゃいなよ。フィアスを信じる。ついでに俺のことも信じてくれたら嬉しい」
「あたし、これでも成長したのよ」
「それなら信じてくれるよな?」
フィアスを見て、真一を見て、凛は大きく頷いた。
「信じる」と凛は言った。
 三つ目。
「フィアスの約束」
 真一はフィアスを見た。
「俺の答えを、希望の一つにくわえてくれ」
「その内容は?」
「なんだと思う?」
 こんなときに面倒くさいな、と思う内心を、にやにや笑顔に見透かされている。
 クイズです、と補足された。回答しないと、次へ進めないらしい。
 無理難題、と心の中で前置きしながらフィアスは答えた。
「死なないこと」
「惜しいけど、不正解」
「不正解か……正解は?」
「帰ってくること」と真一は答えた。
「仕事を終えて、帰ってくる。赤い目になっても、帰ってくる。それがフィアスの約束」
 いいじゃん、と真一はつけくわえた。
「いいじゃん。赤い目になっても。俺は気にしないよ。どんな風になってもお前はお前だし、普通の暮らしができなくなるなら、俺が面倒を見てやるよ」
 あたしも、と凛が言った。
「赤い瞳に見つめられたら、ますます好きになっちゃいそう。貴方の手懐け方を知っているのはあたしだけ。きちんと躾けて、可愛いワンちゃんにしてあげる」
 うんうん、と顔を見合わせて同意する二人。それでいいよね、と確認を取っているようだ。
 呆気にとられた相棒を笑いながら、真一は続ける。
「フィアスは赤い目になっても帰ってくる。フィアスが帰ってくるまで、俺は凛を守る。フィアスが帰ってくることを、凛は信じる。これが俺たち三人の切り抜け方だよ」
 真一と凛はにっこり笑う。大丈夫だよ、と彼らは言った。
 泣くなよ。
 先ほど、真一に掛けた言葉をフィアスは思い出した。
 泣くなよ。男だろ?
 それは厳格なルールだ。誰かの約束より先に、自分と交わした約束だ。
「分かった。約束する」
「三人で指切りするのは難しいよなぁ」
「それなら、あたしが抱きしめてあげるね」
 凛は二人の肩を抱いた。両腕を広げて、ぎゅっと抱きしめた。
 やくそくね、とつぶやく。
 美しい花の香りが鼻先をかすめた。
 凛に抱きしめられた真一は、頬を赤くして照れていた。
 恋人と友達、とフィアスは思った。
 恋人と友達。余計な感情を抱かない。認識だけで十分だ。
「それじゃ、またな」
淡々と挨拶して立ち上がる。戦いに必要な武器は既に車に積んである。
 携帯電話も大事な煙草もポケットの中だ。玄関から庭先に出る。縁側を振り返らなかった。
 鮮やかな日本庭園、その池にかけられた真っ赤な橋を見て、車庫へ向かった。
 狙撃手からの連絡はない。最後の会話から三時間、通達があって良いはずだ。
 ポケットから携帯電話を取り出した。
 シドの番号を押す途中、まさにシドから着信が来た。
 ショッピングモールだ! シドは怒鳴った。
――歩道橋の向こう側。ショッピングモールがネオのアジトだ。やばいぞ!
「狙撃手から連絡があったのか?」
――違う。全然違う。観測だ、観測!
怒鳴りに近い声は、耳から頭へがんがんと響く。ハンズフリーにした電話の先で、ばたばたと慌ただしい音がする。おい、と呼び掛けても返事がない。銃の金属音が響き、着替えをする布ずれの音が聞こえてくる。
 アグレッシブな大男は、お出掛けの準備に忙しい。
 ひとまず車を発進させる。横浜駅方面へハンドルを切りながら呼び続ける。
「シド、シド。おい、ギーク野郎……無視するなよ。何か言えよ」
――赤目だよ!
「赤目?」
――大量出現だ!
「なんだと?」
思わず電話を取り上げる。ハンズフリーの通話口からうるさいくらい大声で、シドが怒鳴った。
――映像を送る!
カーナビに俯瞰映像が映し出された。ショッピングモールの駐車場だろうか。音声のつかない戦争映画を見ているようだ。かなり出来の悪い戦争映画。ライフルを抱えた少年少女が銃を乱射しまくっている。
 閃光が飛沫を上げ、車が炎上し、アスファルトの地面が傷ついている。
 集団テロにも関わらず、仲間の流れ弾に当たって、早くも倒れた人間がいる。
「もっと遠巻きに映せないか?」
 俯瞰映像が建物と駐車場を含めてズームアウトすると、点になった赤目たちが場外へ飛び出すのが見えた。その動きは素早く、正確な数を見積もる前に画面外に消えてしまった。五十人以上いたはずだ。それぞれがアサルトライフルを手に、「ぶっ放す」という表現にぴったりの撃ち方をしていた。
 敵もいない。思想もない。戦争やテロリズムでさえもない。
 銃撃という自己表現に近い。
――衛星映像よりテレビ中継、SNS動画の方が分かりやすいぞ。バズってるな。
「ついに世界規模か。どこで待ち合わせる? ……いや、先に行く」
――こら、抜け駆けはしない約束だろう。四十分後にショッピングモール。十分待って会えなかったら、天国で会おう。
「地獄の間違いだろ」
 ははは、とシドは笑って電話を切った。
 ショッピングモールを出た赤目は、横浜市内を荒らしたあとで都内や近県に向かうだろう。自衛隊はこの騒動を堰き止め切れるだろうか。いきなり首都圏が戦場と化すなど前代未聞だ。どういった規模と速度で、日本のテロ鎮圧が行われるのか。当の防衛部隊でさえ予測がつかないかも知れない。
 雑魚は日本の軍人たちでなんとかしてもらうしかない。獣の銃はいずれ弾切れを起こす。思想も利潤も絡まない戦いは、時間の問題で収集がつく。
 その間に、こちらは根を叩かせてもらう。
 既にテレビを見ているかも知れないが、この騒動を真一や凛に伝えなければ。
 一之瀬とも連絡を取り合い、笹川邸の警護を強化してもらわなければ。
 ボタンを押しかけ、異変に気づいた。自分の香水のにおいがいつもより濃い。
 無人の路端に車を停車させる。
 外に出て、後部に回る。
 香水のにおいはトランクから香っている。コンフォート・アクセスでロックを解除する。
 嫌な予感はしているが、敵意は感じない。銃を構える必要はないだろう。
 フィアスはトランクを開ける。
 「よぅ」と正宗が手を挙げた。