つられて「よぅ」と挨拶しかけた。
 その返事はあまりにも気さくで、あまりにもさりげなかったからだ。
 言葉を発しない代わりに、冷めた眼差しを正宗に送る。目は口ほどに物を言う。
 このままトランクを閉めて、記憶から消してしまいたい。
 見なかったことにして、先を急ぎたい。
 残念なことに、そうは問屋が卸さない。正宗からは香水のにおいが強く香った。
 よっこらせ、と声をあげて、男はトランクから飛び降りた。ライダースジャケットから四角い瓶を取り出して投げてくる。
 返す、と言って。
 フィアスは受け取る。銘柄と、表面についた細かな傷を見る。間違いない。自分の香水瓶だ。知らぬ間に盗難被害に遭っていた。
 縁側でぼうっとしていた明け方あたりだろう。正宗は部屋に忍び込んで香水を盗んだ。そして全身に振りかけたあと、トランクに忍び込んだ。自身の体臭を嗅ぎつけられないために。
「どうして嗅覚のことを知っているんだ?」
真っ先に口を突いたのは、この言葉だった。
 自分の五感が発達していることを正宗は知らないはずだ。それなのに、彼は自身のにおいを消した。「くんくん仮説」を凛が話したのだろうか? ……いや、彼女は父親と違ってデリカシーがある。
「勘」と正宗は答えた。
「絵画を見ているときにな、ふっと思い浮かんだ。お前は鼻がいい」
「ここまで来ると超能力だな。戦況がどう転ぶか教えてくれ」
「知らねーよ。俺は占い師じゃない」
そうだったな。占い師じゃなくて、15人殺しの〈ドラゴン〉だったな、と皮肉が思い浮かぶ。
 軽口を叩いている場合ではない。
 乗れよ、とフィアスは車を親指で指した。
「笹川組まで送っていく」
「なんでそうなる」と正宗。トランクにしまっていたガンケースを持ち上げて、地面に置く。
 留め具を開いてアサルト・ライフルを確認し始めた。マガジンを取り付けながら、話を続ける。
「ずっとこの時を待っていたんだ。十七年間ずっとな。こんなところでおめおめと連れ戻されてたまるか。俺はネオに一発ぶちこむ。葵のかたきだ。お前は二発ぶちこめ。彩と凛の仇だ。最後に俺様が一発いただく。今までの憂さを晴らさせてくれ。龍頭一家の楽しい復讐劇はこれでおしまい。念のため、首を持って帰るか? 耳とか塩漬けにする? 戦国武将がよくやるじゃん。あ、フィアスはアメリカ育ちだから知らねーよな」
 相変わらずぺらぺらとよく喋る。マシンガントークだ。割り込めない。
 ストップ! と語調を強くして呼びかけると、ようやく正宗は話を止めた。
 その間に、HK416が組み上がっている。
「連れて行かない」とフィアスは言った。
「大人しく笹川の屋敷に戻れ」
「やだね」と正宗は軽々しく言った。あろうことか、装填したライフルをこちらに向けてくる。
 脅迫の姿勢を取っているが、毛頭そのつもりはない……と思いたい。
 意にそぐわない行動を取れば、普通に撃ってくるかも知れない。この男の内面はよく分からない。
 フィアスは溜息を吐いた。
「こんなところで揉めている時間はないんだよ」
「それなら俺を同行させろ」
「ヤクザの抗争とはわけが違うんだ……マサムネはきっと死ぬ。マサムネが死んだらリンが悲しむ」
「凛? ここで凛を出すか? まったく純情だよな。目と脳みそ、ちゃんとついてんのか?」
「何を言っているんだ?」
「ガキくさいと言っているんだ」
遠目に狙いを感じて、フィアスと正宗は同時に身をかがめた。車のボンネット、フロントガラス、ルーフへと穿つように穴が開く。
 防弾仕様車のフロントガラスは簡単に壊れない。それが相手には気に入らないらしく、しつこくガラスへ向けて撃ってくる。その隙にフィアスと正宗は、車の死角へと回り込んだ。
 敵は前方左、高所にいる。
 銃を貸せ、という声を無視して正宗は車の前面に進み出る。おらぁ! という、うるさい咆哮。銃身を振り上げて発砲する。弧を描いた数発の弾丸が空に散らばる。
 そのうち数発は車に被弾し、サイドガラスを割った。
 その撃ち方、なんなんだよ。銃声の飛び交う中、思わずつぶやきが漏れた。
 もちろん、誰の耳にも届かない。前方からの銃撃も止まない。
 しかし、民家の軒先から人間が落ちてきた。引き金を握ったまま落下したらしく、地面へ衝突すると同時に銃声が止んだ。フィアスは車の後部からわずかに顔を覗かせて、敵の頭部へ銃弾を放った。強い衝撃に相手の身体がバウンドした。
 五感を開き・・・・・、周囲の気配を探る。こちらのお祭り騒ぎに気づいた赤目はいない。
 正宗の元へ駆け寄り、安否を確かめた。
 確かめることもなく、正宗は無事でいた。
 こいつは反動がきついとか、ハジキと全然違うな、とかひとりごとをぶつぶつと言っている。
 話の最後に車を指差す。
「おい、ガラスが割れたぞ。防弾仕様じゃないのか」
「防弾車にもランクがあるんだ。跳弾しなかっただけ感謝だな……というか、ちゃんと狙えよ。無鉄砲に撃つな」
「ライフルは二回しか使ったことねーんだよ。ヤクザの相棒は中国製のハジキだ」
 それなら返せ、と手を伸ばしたが、正宗は再び距離をとって銃を向けてきた。
「やだね」と軽々しい返事。
 こいつは俺様がいただく。今日の服装に似合っている感じがする、とのことだ。
「それ、高いんだぞ。カスタマイズしてあるし、アクセサリーも最高品質だ」
「男が金のことでガタガタ言うな」
「反動も強いから素人に向かない。日本人の体格にも合ってない」
「そんなもん慣れだ。慣れ」
フィアスは段々と疲れてきた。苛立ちよりも疲労感。この男と話していると、場を支配される。コントロールされている感じが否めない。
 真一と違って論理的な説得は通用する。ただし、お気に入りは手放さない。正宗がライフルを使うと言ったら、そのライフルは正宗のものだ。
 どうして特殊部隊の秘密兵器を、ヤクザ上がりの素人に持たせなければならないのか。
 理不尽を感じながら、トランクへ引き返す。
 アジトから持ってきた武器は、多種多様な種類が揃っている。最新のものから一昔前のものまで。アタッシュケースの一つから、ハンドガンとヒップホルスターを取り出した。正宗好みの1911系統の銃だ。サイドアームとして渡しておく。現役時代を思い出したのか、正宗はハンドガンを隅々まで眺めてホルスターにしまった。そうそう、これよ。ニヤリとした笑みを向けてくる。
「分かってんじゃん、お前」
「中国製じゃないけどな。装弾数は八発。大事に使えよ」
改めてトランクを覗き込む。
 ライフルは一丁しか積んでいない。迷惑な追従者がトランクに隠れていることを想定していなかった。軒先から落ちてきた敵を確認すると、粗雑なAKライフルを使用していた。取り上げてみるが右利きだ。アンビ仕様になっていないし、戦闘中に動作不良を起こされてはひとたまりもない。
 ライフルはもういい。正宗にくれてやる。高火力だ。使いこなせれば、身の助けになるかもしれない。フィアスはSIG MPXをしまったケースをトランクから引き上げて運転席に回った。
 新品同様のモダンな愛車が、今やボロボロだ。辛うじて運転ができる程度にフロントガラスの銃痕は浅いが、警察に見つかったら言い逃れができない。
 仕方ない、乗り捨てていくか。待ち合わせ場所まで何キロだ? ダッシュボードに置いてあった携帯電話を見てフィアスは凍りついた。
 銃弾が命中し、ディスプレイが損壊している。
 電源を入れ直しても、画面はブラックアウトしたままだ。
 おい、と暗い面持ちで、正宗に声を掛けた。
「お前が馬鹿みたいに撃った弾が携帯に当たった」
「俺のせいじゃねーよ」
「マサムネのせいだろっ! 敵はフロントガラスを割れなかった! お前の撃った一発がサイドガラスを割って、俺の携帯を壊したんだ!」
 腹いせに運転席のドアを蹴って閉める。枠に残っていたガラス片がぱらぱらと散った。
「どうしてくれる! 仲間にも、笹川組にも、連絡が取れない!」
「カリカリすんなよ。落ち着けって。壊れちまったもんはしょうがねーだろ」
 正宗は悠長だ。don’t mind に近いニュアンスで、しょうがないしょうがないと言ってくる。
 確かに壊れてしまったものはしょうがない。過去のことをあれこれ言ってもしょうがない。
 合理的判断には同意見だ。しかし、他人の携帯を破壊した張本人から、謝罪の言葉が一つも出ないのはおかしい。
 念のため、お前は携帯を持っているか? と聞いてみる。
 持っていない、と正宗は答えた。
 すまほ、というのは難しい。俺の時代の携帯電話は、二つ折りで押しボタンがついていた。テレビも見られなかったし、財布代わりにもならなかったし、えすえぬえす、という妙なコミュニティも存在していなかった。すまほは電話のくせに複雑すぎる。電話は連絡手段だろ。
「その連絡手段が潰えたんだ。お前のせいで……」
「まだぐちぐち言ってんのかよ。立ち直れよ。最近の若いやつは携帯に依存しすぎなんだよ」
 自分のことを棚に上げて説教をしてくる。
 この男に何を言っても無駄だとフィアスは悟る。
 モラルや常識に期待をかけるのも無駄だ。それこそ、しょうがないことだ。
 一縷の望みにすがって、赤目退治に使っていた通信機に呼びかけてみる。
 シドからの応答はない。おそらく電源が入っていない。戦闘時の簡素な会話に便利な衛生通信機だが、双方に電源が入っていないと使えない。先ほどまで携帯電話でやりとりをしていたのだから、何かあれば電話に着信が入ると思っている。
 連絡手段が完全に絶たれた。
 地面に置いたガンケースの隣にしゃがむ。煙草に火をつけた。
 吸いながら「JUNK&LACK」のケースを覗く。
 ストレス解消手段は、残り十五本。
 目的地にたどり着く前に、吸い尽くしているかもしれない。