コンが立っていた。
 フィアスは縁側から飛び降りると、彼女に駆け寄った。
 裸足の裏側に硬い芝生が食い込んだが、気にならなかった。
 仄かな月明かりを背後にしたコンは、黒いパーカーに黒いジーンズを履いていた。ピアスも鎖もつけていない。いつもよりシンプルな格好だ。
 首元の鷹は斜めに切り込みが入っていた。傷口に肉が盛り上がって、残酷な傷痕になっている。
 彼女は頬や耳にも怪我を負っていた。特に左耳は銃弾によって軟骨の半分が吹き飛んでいた。
 見るも痛々しい負軍ふぐんの痕。
 しかし、本人はいつもの無表情で、機械的に澄んだ目をしている。武器を携帯している様子もない。
「その傷は誰にやられた? ネオか? 赤目か? ……痛みは感じないのか?」
彼女の心に響かないと分かっていながら質問を重ねた。もちろん、答えはない。
 傷口には一応の手当てが施されていた。かなり大雑把だ。応急処置とも言えない。
 右肩が奇妙な痙攣を起こしているのを見て、パーカーの襟を裏返した。
 そこにも傷痕がついていた。銃創だ。
 歩道橋の銃撃事件。ネオの放った銃弾はコンの右肩に被弾していた。本来なら盲管銃創もうかんじゅうそうになっているその傷は、弾丸が取り出された痕跡があり、縫合ほうごうもされていた。ただし、死なない程度の適当な処置だ。縫い目はぶかぶかで、糸と糸の間から内側の肉がはみ出している。まさに綿の飛び出た人形。
「手当てする」
「必要ない」首元から声が聞こえた。ヨンの電子音声だ。
「動けばいい」
「彼女の生命だ」
鈴の音が聞こえて、コンはフィアスから距離を取った。身のこなしは軽やかだった。五メートルほど退き、パーカーのポケットに手を突っ込んだ。
 フィアスは言及を諦め、続く観測手の言葉を待った。
 俺にも聞かせろ、と背後で声が聞こえた。
 正宗がやってきた。玄関を通ったらしく、靴を履いていた。
「フィオリーナがやられた」単刀直入にヨンは言った。
「私たちの作戦は失敗した」
 作戦は失敗した、という割りにヨンの声色はいつもと変わりなかった。落ち込んでいる様子も、動揺している様子もない。
 むしろ、こちらの反応を伺う大仰おおぎょうな間を置いている。潜めた息は好奇心に満ちている。
 感情的な反発を覚えないでもなかったが、ひとまずフィアスは聞いた。
「フィオリーナは生きているのか?」
「死んだ」
「そうか」
「死んだ……本来なら、死ぬはずだった。私の暗示のおかげで生き延びた」
 拳を握りしめる。
 ヨンの言葉は淡々としているが周りくどい。意図的にまわりくどくしているのか判断がつきかねる。
「その言葉を信じていいんだな?」
「嘘を吐く理由があるかい?」
 それはそうだ。ヨンには嘘を吐く理由がない。
 短く息を吐き出した。強張こわばった肩先を軽く回して、緊張をほぐした。
 その様子を嗅覚で察知されない遠距離から、ヨンが面白く眺めていることは、なんとなく察した。
 綱渡りの現状を、間違いなくこの老婆は楽しんでいる。性格が悪い。悪趣味だ。
 皮肉の一つも言いたいところをこらえて、フィアスは続きを待った。ヨンは場を支配することを好む。
「私たちの失敗談を聞かせてあげる」
 ヨンが語った事実は、昼に「マフィアの勘」を使って刑事たちに語った推理とほぼ一緒だった。
 フィオリーナが撃たれ、小麗が撃たれ、コンが撃たれた。
 そして、ネオはフィオリーナをさらった。
「もう一つ、悪い知らせを話しても良いかな? いや……君には良い知らせかも知れない」
「早く言え」
「私はフィオリーナに三つの暗示をかけた。一つ、肉体を強化し、戦闘力を高める暗示……この暗示のおかげで、彼女は一命を取り留めた。二つ、暗示をかけてから三日以内に死ぬ暗示……これは作戦が失敗した時の保険用。あと八時間で、安らかに彼女の心臓は止まる」
ヨンはそこで言葉を切った。灰色の目がじっとこちらを見つめた。
 両拳に大量の汗が湧いて、フィアスは掌を見た。
 それは汗ではなく、爪が皮膚に食い込んで流れた血液だった。
 両手でこすり合わせると、薄く伸びた血の下で傷口がきれいに塞がった。
「八時間後にフィオリーナは死ぬ」とフィアスは繰り返した。
「助かる方法は?」
「あ・る・よ!」チリンと鈴の音が鳴り、コンから言葉が発せられた。科学館にいた時の、天真爛漫な笑顔が貼りつく。
 ふうん、と隣で正宗が微かに感心した。
 フィアスはちらりと横目に彼を見て、狙撃手に視線を戻す。
「どうすればいい?」
「狼くんが死ねばいい」ヨンが答えた。
「密かに掛けた最後の暗示――が死ぬと、フィオリーナにかかったすべての暗示が解除される。鼓動と鼓動を紐づけるのはとても難しい。骨の折れる仕事だったが、寿命を削ってやり遂げた」
「公平に希望を奪い合うために」
「ルールを設定し直した。私はフィオリーナと同じくらい、良い奴なんだ」
フィアスはコンの目を見つめた。感情を切り離すことはできない。
「了解した」

 私たちはネオの居場所を知っている。そこにフィオリーナもいる。
 しかし、アジトは教えられない。コンの調整が必要だ。
 三時間後に連絡をよこす。準備を整えておけ。
 魔術師は淡々と今後の行動について伝えた。
 その場から退こうとするコンを、腕を掴んで引き留めた。
 ひとまず、怪我の手当てをさせろ。彼女を戦力に使うなら、深い傷を治癒する必要がある。
「狼くん、そんな暇ないだろ」面倒くさそうにヨンは言った。
「私たちのことは、私たちでやる」
「それはあんたの意見だろ。コンは同意しているのか?」
逃さないように、腕を掴む手に力を込める。力比べになろうと論理戦になろうと構わない。
 コンには手当てが必要だ。
 意外なほどヨンはあっさりと折れた。
 チリン、と鈴の音が鳴り、着ていたパーカーが地面に落ちた。
 極寒の深夜に、タンクトップ一枚。彼女が身につけているものは、それだけだった。
 肩とタトゥーについた傷の他、両腕のあちこちに打撲痕や切り傷がついている。タンクトップの裾をめくると、腹部に小型ナイフの刺し傷も見つかった。何者かに追撃されている。赤目か、赤目ではない戦闘員。これだけの傷を負って、よく動けるものだ。
 彼女を抱き上げて縁側に運ぶと、自室から医療器具を持ってきた。
「マサムネ、携帯電話のライトで傷口を照らせ」
 はいはい、と気怠げに返事が聞こえ、肩先に強い照明が当てられる。
 うみは出ていないので、粗雑な縫合糸を抜糸して、歪んだ傷口を縫い合わせた。
 腹部の刺し傷も腫れや膿は出ていない。こちらも数針の縫合をしたあと、抗菌薬を塗った。
 タトゥーについた切り傷は塞がっている。痕は残るかもしれないが、消毒と包帯を巻いて、自然治癒に任せる。
「脚を見せてくれ」
 鈴の音がしてコンは履いていたジーンズを脱いだ。黒いボクサーパンツから突き出た二本の脚。それなりに筋肉がついた、スマートな脚に噛み跡があった。歯型が青紫色に内出血している。まさに獣の所業だ。
 右太腿についた噛み跡を消毒して、抗菌薬を塗る。
 消毒液をかけても、針を刺しても、コンは無表情だった。
 着々と傷の手当が進み、一時間で一通りの処置が終わった。
 フィアスは慣れたものだったが、正宗はリアクションのない彼女を例の眼差しで観察していた。
「この女は不感症か?」
手にした携帯電話で気まぐれにコンの写真を撮る。
「凛だったら、ぎゃあぎゃあ泣きわめいてるぞ」
「自我が崩壊しているから、痛みを感じないんだ」
「意識はあるのか?」
「分からない」
「お前とどういう関係なんだ?」
「知人。姉貴あねきの学生時代の友達」
彼女にパーカーを着せながらフィアスは言った。
 夜空は白みがかっていた。星々の光が薄くなり、夜明け前の澄んだ空気が地上に降りはじめた。
 あと二時間。眠る間もないな、とフィアスは思った。
 昨日から今日にかけて、怒涛の事件が巻き起こった。
 フィオリーナの銃撃、真一との約束、凛との秘め事、狙撃手の出現……一つ一つの対応に明け暮れ、感情を揺さぶられた。それは傷つけられた痛みに似ていたが、すべてが過ぎ去ると、傷つけられたわけではないと感じる。その認識は間違いだ。
 凛の部屋で泥のように眠ったせいか、肉体的な疲れは感じない。むしろ、コンディションは整っている。身体のだるさは、コンの治療に集中している間に取れた。
 動ける。戦える。
 後天遺伝子の力を使って、先天遺伝子ネオを駆逐する。
「最後に聞かせてほしい」
フィアスは医療器具の隣に置いた絵画を手に取ってコンに見せた。彼女の目は何の言葉も語らなかった。
 絵画が目に入らないのだろう。戦闘時における動きや感覚はインプットされているが、絵画鑑賞に必要な情緒や感性は設定されていない。
 偽人格のコンも芸術に疎いと言っていたが、それ以上にロボットのコンは情緒的なものに疎そうだ。
 コンの目を通して、ヨンは絵画を認識できるのだろうか。
「森と動物と人間、そして惑星が描かれた絵。以前、あんたがくれたものだ」
一応、フィアスは説明した。
「この絵はどういう意味なんだ?」
 ヨンは答えなかった。いつものだんまりか。フィアスも口を開かずにいたが、どうやらそうでないらしいことが数十秒の沈黙の間に感じられた。
 ヨンは本当に考え込んでいるようだった。
 その数十秒は、演技的な沈黙に短く、思案に十分な時間だった。
「私が描いたものではない」とヨンは答えた。
 チリン、と鈴の音がして、コンは縁側から飛び降りた。
 狙撃手は振り返ることなく庭先へ駆け出し、あっという間に姿を消した。