勝手に希望を植え付けられた、という絶望感。
 戻ってきた感情の中で、もっとも強烈な感情――絶望がフィアスを打ちのめした。
 打ちのめして、突き落とした。
 形而上けいじじょうにあった何かが、形而下けいじかにくだる前に消滅した。
 この時点で考えていたあらゆる計画が、現実味を持たなくなった。
 わずかな残滓ざんしは残っているものの、形骸化けいがいかしている。
 なんとか生み出した理想、緻密に構築した理論、そのどれもが白骨化して頭の砂漠に散らばる。
 一瞬で、砂上さじょう楼閣ろうかくは崩れ去った。
 途中で考えることを放棄した。
 特にこの瞬間、思考はいちばん役に立たないものだった。
 儀式を行うのに、個人的な考えは必要ない。
 距離をとった感情を、自分の中へ引き戻す。
 儀式行為に必要なものは、振り子の動きに乗るための意識だけだ。

 その意識さえも胡乱うろんに溶けた丑三つどき。
 絶望の溜息をついて胸元を見ると、凛が眠っていた。
 折り重なって倒れたことは知っていたが、重圧な眠気に潰されて、どうにかする気力も沸かないまま一緒に眠り込んでしまった。
 彼女の後頭部に手を乗せたところで、続く眠気の波になぎ倒された。
 その後も、十分間隔の断続的な眠りが続いた。
 凛はうつぶせの状態で完全に熟睡していた。
 規則正しい寝息が、鎖骨にあたってこそばゆい。
 三回目の半覚醒。
 フィアスは恋人の身体を抱えると、寝返りを打って隣に寝かせた。
 鉄でできているのかと思うほど、全身が重くてぎこちなかった。
 布団からむせ返るにおいがした。ロマンスもクソもない、冷え切った精液と汗のにおいだ。
 反面、隣で眠る彼女からは、今まで以上の濃い花の香りが漂っている。
 まるで泥の中で咲いている水蓮みたいに……希望に加えて、らしくない情緒まで植えつけられたらしい。
 温かな胸に顔を埋めて、目を閉じた。
 絶望を感じる前に、意識を失った。
 次に目覚めたのは、深夜三時だった。意を決して起き上がった。
 冷え切った深夜の空気が容赦なく身体を掠めた。凛とした空気だ。
 身体のだるさは続いていたが、動けないほどではなくなっている。
 夢見心地な頭を抱えながら、とにかく布団から抜け出した。裸のまま、布団の周りに散乱したゴミをゴミ箱に捨てた。汚れた下着や避妊具も布団の中ら引っ張り出してゴミ箱に捨てた。
 淡々と情事の残骸ざんがいを片付けたあと、シャツを着てショートパンツを履いた。
 下着は身につけていないし、洋服からも生々しいにおいが漂っていたが、素っ裸で自室に戻るわけに行かない。
 簡単な身支度を終えると、布団の前にあぐらをかいて、恋人の寝顔をしばらく見つめた。
 凛は一度熟睡すると起きない性質らしく、布団の周りを動き回っても寝返り一つ打たなかった。
 白い肌。艶やかな黒髪。長い睫毛。形の良い小さな鼻と唇。
 精巧に作られた人形のような、美しい寝顔。
 ただし、なんの表情も浮かんでいない。
 あくまでその顔はニュートラルだ。
 希望も絶望もない。
 あるいは、どちらもあわせ持っている。
「あれは、俺なりの精一杯の優しさだった……それなのに、君はひどいことをする」
 思わず、恨み言が漏れた。泣き言に近い恨み言だ。
 手を伸ばして、もちもちした彼女の頬を軽くつねった。それでも凛は起きなかった。
 頬から手を離し、掛け布団を少しだけめくった。
 薄暗闇の中で、白い裸体がぼんやりと光っていた。それは希望そのものだった。
 この子とはセックスできない。
 文字通り、一生できない。
 植え付けられた希望から発芽した、新鮮な絶望。
 欲望にまみれた感情から、距離をとろうとしても上手くいかない。
 前回とは大違いだ。時藤小百合の家で過ごした最後の夜、凛から抱いてほしいと懇願された。
 あのときは感情から距離をとって、冷静さを保てていた。
 その欲望は過去に存在したのだと、懐かしさすら感じられたのに。
 新たに芽生えた欲望を、封じることは不可能だった。

 行為の途中で、フィアスは訴えた。
 なんでこんなことをするんだ。
 取り戻した感情は、恨みと怒りが募っていた。
 吐き気がするほどではないが、一夜の恋人と寝ていたときと同様、ネガティブな気持ちが込み上げた。
 俺は望んでいない。やめてくれ。終わりにしたい。
 言葉と裏腹に、身体のすべてが凛を求めてあえいでいた。
 飢えと渇きは抑えが効かずに、彼女を求めて勢いを増した。
 焦燥に焼けたキスを受け止めて、凛は言った。

「望んでいなくても、必要なことってあるでしょう」

 ふらつく身体を支えながらフィアスは廊下に出た。
 冬に差し掛かった早朝は、夜半と言って良いくらいの暗さで、よく磨かれたひのきの廊下は裸足の裏に冷たく刺さった。凛の部屋に向かう時には感じなかった寒さが、じんじんと身を貫いた。
 久しぶりにセックスまがいのことをしたせいか、時間が経ってもだるさは抜けない。
 ふらふらと歩き続け、縁側にたどり着いた。
 自室へ向かおうと、屋敷の間取り図を思い出すがうまく行かない。
 熱を帯びた身体と、希望と、絶望。
 それらが混ざり合って、頭も身体も混乱している。
 縁側の柱にもたれて座った。額に当てた掌から、凛のにおいがした。
 彼女によって取り戻された感情は、フィオリーナの死と、自分の死と、凛の将来のことで、三つどもえになっている。多要因的な怒りや恐怖や悲しみの感情は混線せず、きちんと対象に紐づけられて冷静さを保っている。ある意味で、均衡きんこうを保っているというか。
 そのひとつひとつに思いを馳せても精神的なきつさを感じない。
 どの問題も解決が難しく、絶望的な状態であるのに、感情を切り離す必要性を感じない……というか、できない。
 凛と俺の罪深さのせいだ……フィアスは溜息を吐いた。
 これからの計画をシステマティックにやり遂げることはできそうにない。氷壁は瓦解した。嫌でも私情が心をうずかす。戦いの最中に彼女が恋しくなるだろう。
 そのにおいを思い出す、一瞬の隙を突かれたら終わりだ。
 そうでなくとも、獣化した女の子を撃つときに、躊躇いが生じるかも知れない。
 今までの殺しは感情から距離をとっていたからこそ、難なく成し遂げることができたのだ。
 これでは赤目どころか、普通の人間さえ殺せない。プロとしては致命的だ。
 冷えた木柱に額を押し付けながら、フィアスは目を閉じた。
 そこで、さらに別の問題を思い出した。

 後天遺伝子の「キラーエイプ仮説」。
 後天遺伝子が覚醒したことで、生殖本能が、殺人本能に切り替わっているとしたら?
 以前、科学館へ向かう途中で考えていた仮説は、的外れもいいところだった。
 つい二時間前まで凛に抱いていたのは、殺人欲求ではない。
 感情から距離をとったために気づかなかった、好きな女に対する欲望だ。
 健全な身体反応。健全な性的欲求。
 つまり、後天遺伝子が覚醒しただけでは、猟奇殺人犯にはなれない。
 猟奇殺人犯になるためには、もっと根深い部分で歪んだ素質がいる。
 俺に、その素質はない。
「良かった……」
安堵の溜息が白く変化して頬を流れた。
 切り離しが不可能な感情の中から喜びが湧いた。
 死に向かう身体で、こんなことに安堵するのは滑稽の極みに違いないのだが、湧き起こる感情を止められない。
 これで獣化する前に恋人を殺すことはない。
 理性のあるうちは、殺しに快楽を覚えることはない。
 ぎりぎりのところで人間の形を保てている。
 フィアスは柱にもたれた。全身から力が抜けた。

「おい」
声を掛けられて、飛び上がった。
 声の聞こえたところ――縁側の反対側に目を向けると、正宗がいた。
 いつもの鋭い目つきで、こちらを見ている。彼がくわえている煙草の先端に火が灯っていない。
 左手にジッポライターを握りしめたまま、着火の瞬間を見定められずにいる。
「俺が言うのも何だが――頭、大丈夫か?」
気の毒そうな顔で、自らのこめかみをつんつんとつつく。
「ふらふらと縁側に来て、深刻な顔で考えだしたと思いきや、急ににやにやしやがって……俺に劣らず、相当キてるな」
ここへ来てからの行動をすべて観察されていたらしい。気配が消えていたわけではないのに、まるで気づかなかった。
 主観が客観に切り替わると、羞恥的な気まずさを感じた。
「ま、一服しろよ」
正宗はくわえていた煙草に火をつけた後で、「JUNK&LACK」の箱の上にライターを置いて滑らせた。
 甘んじて箱の中から一本取り出す。一口でぼんやりとした倦怠感が思考を覆った。真一が見たら、「またヤニクラ起こしてる!」と笑われそうだ。柱にもたれて、甘い重圧が通り過ぎるのを待った。
 それは通り雨のようにすぐ過ぎ去った。
 煙草を吸っている間、スキャナーに似た正宗の視線に当てられた。
 彼の洞察力と勘の鋭さはぴかいちだ。大体のことを見透かされたと感じたが、生まれ持った資質を非難できない。煙草代には高すぎる身払いだが、されるがままにさせておいた。
 今は体内に紫煙を取り入れることに集中したい。
 気持ちに区切りをつける必要がある。
 二本目に火をつけた後、同じように床を滑らせて、煙草とライターを返却した。
 正宗も二本目を吸い始めた。
 縁側の両端で二本の細い煙が立ち上る。
 正宗は何も言わなかった。
 しんとした深夜の静寂が場を支配したが、それは心地良い静けさだった。
 甘い紫煙を吸いながら、部屋に残してきた恋人を思った。
 彼女に対する欲望と恋しさを一通り思い返して、区切りをつけた。
 淡い青色に沈む日本庭園の上に月が出ていた。

 宵を照らす力のない、小さな月だ。

 ぼんやりとその月を見ているうちに、思い出したことがあった。
 マサムネ、とフィアスは声を掛けた。
「まだいるか?」
「ああ……なんだよ?」
「見てもらいたいものがある」
「お前らのハメ撮りなんか見ねーよ」
フィアスは失笑した。正宗のデリカシーにはもう慣れた。感じたことの片鱗でも言わないと気が済まない、幼稚な大人の典型だ。
 神経に障るどころか、むしろ強烈な冗談が腑抜ふぬけた頭をくすぐった。
 自室に戻り、備え付けのシンクで手を洗う。煙草と情事のにおいを落とす。
 清潔な私服に着替え、香水を軽く振って、コートを羽織った。
 皮鞄にしまいこまれていた、キャンバスを持って縁側に戻った。
 正宗の隣に腰を下ろし、ヨンの描いた森の風景画を渡した。
「なんだこれ?」
「とにかく見ろ」
正宗はくわえ煙草のまま、絵画へ目を落とす。
 森と動物と惑星と人型。メランコリックなグラデーションの幻想風景。
 暇を見つけては、笹川邸内にいるヤクザたちにも絵画を見せて回った。
 十人十色だが、誰もが一般論にくくられた感想を述べた。
 神出鬼没な正宗だけはタイミングが合わず、この絵を見せるきっかけを失っていた。
 彼に芸術的センスや絵心があるのか分からない。とにかく、これで笹川邸にいる全員に絵を見せたことになる。ピンとくる答えが出なかったら、調査を打ち切ろうと考えていた。
「若様はいないんだな」
 絵画を眺めながら、正宗はひとりごちた。
 フィアスは眉を潜める。
 若様?
 フィアスの顔をちらと見て、頭をがしがしと掻きながら記憶を辿る。
「笹川組の任侠王子にんきょうおうじだよ。名前なんだっけ……ああ、真一くんか。この絵にはいないんだな」
「マイチがいるのか?」
「いないと言ってるだろ。日本語分かる?」
軽口には耳を貸さず、フィアスは尋ねる。
「マイチがいないと、どうして分かる?」
「描いてない」
正宗は持っていた絵をフィアスにも見せる。真一がえがかれていないことは一目瞭然だ。可愛らしい幻想的な絵に、ヤンキーまがいの何でも屋が出てきたら雰囲気が台無しだ。
「あの女子高生もいない。ええっと……」
「オギノアカネ」
「描いてない」
正宗は絵の表面に指を滑らせる。
 男にしては細い指先が、絵の全体をなぞって白い人型に留まる。
 色を塗らないことで描き出した無色の人間だ。
「凛は描いてある」
「リン? これが?」
「どう見ても凛だろ」
指先が人型から離れ、隣の動物の一匹を指差す。
 人型の手が添えられた、一匹の獣。
「お前も描いてある」
「俺?」
「そっくりじゃないか」
「???」
「俺もけーいちも描いてない。笹川の兄貴も描いてない」
 描いてない。描いてある。
 正宗は絵をなぞりながら不思議な判断を下した。
 知り合いは少ないな、とつぶやく姿は、あたかも集合写真を目にしているかのようだ。
 不可思議な感想に畏怖を感じながら、フィアスは尋ねた。
 なぜ白い人型は凛で、その隣にいる動物は俺なんだ?
 正宗は苛立たしげに「描いてあるだろ」と繰り返した。
 分かって当然という口振りだ。説明を欲することが愚問であるというように。
「どうしてそんな風に見えるのか分からないな。他の連中は、可愛い絵だとか眠くなる絵だとか、もっと抽象的なことを言っていたぞ」
「そんなの俺のせいじゃないだろ」
「それは、そうだが……」
フィアスは頭を掻く。見えているものが違う。
 認識の相違というよりも次元の相違という感じがする。なんともオカルティックな感性だ。
 しかし、正宗の言葉には不思議な説得力がある。
 彼が断言すると、凛や自分がこの絵に「描いてある」登場人物に見えてくる。
 もしかしたらこの男が、謎だらけの絵画の翻訳機になるかも知れない。
 フィアスは、森の中にいる動物たちを指差した。
「こいつらは誰だ?」
「決まってるだろ。お前が夜な夜なぶっ殺してるやつらだよ」
 赤目か、とつぶやく。
 微塵も素振りを見せなかったが、正宗は深夜の赤目退治を知っていたらしい。
 昼夜問わず屋敷内を浮浪しているのだから、今さら驚くこともない。
「森は?」
「森だよ」
「どこの森だ?」
「俺が知るかよ」
 森については一般的な感覚と同じなのか。
 シリアルキラーの精神鑑定をしている気持ちになりながら、絵画のメインモチーフを指差す。
「この惑星は?」
「太陽と月」
「人物ではないのか」
「太陽は知らん」
「これも誰かの比喩なのか?」
「比喩っていうか」
「描いてある」
「そう」
「月は誰だ?」
正宗は一瞬、言葉を飲み込んだ。そして、暗い声で言った。
「ネオ」
「ネオ?」
正宗を見ると、真剣に月の部分を直視していた。冗談ではなさそうだ。
 月がネオ。
 ということは、太陽は対照……フィオリーナだろうか。
 フィオリーナのことを正宗に伝える。
 フィオリーナ・ディヴァー。金髪碧眼の女性。外見は二十代中盤から後半くらい。俺の上司で、ネオの妹。少し前に行方不明になった。
 月がネオなら、太陽はフィオリーナかも知れない。
 正宗は無関心な態度で、フィアスの話に相槌も打たなかった。
 黙ったまま、絵画を見ている。
「描かれた人物は分かった。重要なのは、この絵が何を伝えたいのか」
 聞いているのかいないのか、絵画から目を逸らさない。
「おい、マサムネ」
聞こえてるよ、と正宗は面倒くさそうに言った。
「こいつが何を言いたいかだろ。そんなもん簡単だ。この絵の通りになるってことを伝えているのさ。あるいは、この通りになってほしい。予言と願望の中間って感じだろうな。良いか悪いかと言われたら、良い絵だな。祈っている感じがする。一体、誰が描いたんだ? 頭のおかしなやつだと思うが、お前の知り合いか?」
「その前に、この絵の通りになるってなんだ?」
「だから、この絵の通りだよ」
「もう少し詳しく」
「詳しく言えるわけないだろ。白がどのくらい白いかを説明できるか? この絵の通りといえば、この絵の通りってこと。お前も俺にばかり聞いていないで、ちょっとは自分で考えろよ」
正宗は絵画を戻すと、新しく煙草に火をつけた。
 その隣でフィアスはまじまじと絵画を観察する。
 正宗が指摘した人物以外、何一つ読み取れない。

 凛と自分は寄り添っている。
 ネオとフィオリーナは混ざっている。
 その周りを赤目の大群が取り巻いている。

 この通りになる? 予言? 願望? 祈り?
「まったく分からない……」
絵画から顔を上げて、正宗を見る。
 黒い目は庭先を見つめている。指に挟んだ煙草の灰は伸び切って、振り落とすことを忘れている。
 正宗の視線の先を追う。

 美しい日本庭園にコンが立っていた。