ダチとして助けてくれるなら。
俺の答えを、希望の一つにくわえてくれ。
それは一ヶ月以上前、埠頭から帰る車の中で、真一が言っていたことだった。
俺たち三人が、どうやったらこの問題を乗り越えられるか考えよう。
俺はずーっと考えているんだ。
希望はたくさんあった方がいいだろ。
その答えが、今になって降ってきたらしい。本人も言っていた通り、土壇場も良いところだ。
ダチとして助けたいが、希望の一つにくわえられるか分からない。
とりあえず話を聞こうとすると、「今はまだ教えられない」と言われた。
戦いに行く直前に教えると言う。今日明日にでもアジトが見つかる可能性があるのに、大した余裕ぶりだ。
俺が戦うことは決まっている。引き止めるなよ。腕力に訴えたら返り討ちにする……凛のときより強く念を押すと、ものぐさげに真一は頷いた。すべて
「言う間でもないが、戦地には一人で行く。同行者はゼロだ。尾行しても無駄だからな」
答えを知らないと、あらゆる可能性を想定して釘を刺したくなる。
自分を引き止める可能性。
跡を
後天遺伝子を使わせない可能性……他に引き受け困難な頼み事はあるだろうか。
笹川邸への道すがら、思いついた可能性に片っ端から釘を刺した。
死の危険を感じたら逃げると約束させられる可能性。
フィオリーナの代わりにネオと講和を結ばされる可能性。
フィオリーナや狙撃手たちが存命の証拠を探して彼女たちに仕事を遂げさせろと頼まれるかも知れない……もちろん、どれも不可能だ。
真一は呑気にあくびをしながら、IFの話を聞いていた。
突飛な可能性については驚きながら耳を傾け、感嘆の声をあげた。
「フィアスはすごいな! 傷ついた女の子を無理やり戦わせるなんて、可哀想すぎて俺には思いつかないよ。ネガティブかつサディズムなアイデアに芸術性を感じる!」
純真な畏敬に当てられる。
……そう言われると、ネガティブかつサディズムなアイデアを思いついた、俺が悪人みたいだろ。
釘を刺せば刺すほど、妄想に近づいている感覚は否めない。
仕方なく追及を諦めた。
引き受けられる頼みは引き受ける。
引き受けられない頼みは引き受けない。
それだけだ。
夕方、自室に凛を呼んで話をした。
今日の現場はフィオリーナが銃撃された場所だった。彼女は死亡している可能性が高い。敵の拠点が近くにある。拠点を突き止めたらここを出ていく、と説明した。
真一にダチとして頼んだこと以外を包み隠すことなく話して、息を吐いた。
凛の反応は恐れていたものと違い、冷静だった。
フィオリーナのところでは息を呑んだが、それ以外は物言わず真剣な顔で聞いていた。
ただ、胸の前で重ね合わせた手が、話が深まるごとにどんどん白さを増して、血のめぐりが悪くなっていた。
つまり、と凛は端的に要約した。
「もう少しで、貴方は死ぬ」
「そうだ」とフィアスはシステマティックに告げた。
「〝くんくん仮説〟を発見したばかりなのに?」
白い額を肩先に押しつけて、凛は言った。
香水の匂いはしない。ドイツに血液とにおいのサンプルを送ってから、凛は香水をつけなくなった。
熱を帯びた首筋からは、やわらかな皮膚のにおいがする。
ワイシャツの左胸に温かな水が染みる。
声を立てずに凛は泣き、感情を殺した声でつぶやいた。
「〝くんくん仮説〟の謎を解明せずに、いなくなるつもり?」
「俺は科学者じゃないんだ」
「殺すか、殺されるかの人?」
「そう。どちらともだ」
彼女を抱きしめ、髪を撫でる。
ワイシャツの染みが大きくなってゆく。
堪えきれない嗚咽が、胸の中でくぐもった。
彼女は悲しみを抑えている。
でも、上手くいかない。
距離をとるのではなく、殺しているから。
殺しきれなかった感情が、断末魔をあげている。
そのやり方は、とても苦しいし、疲れるものだ。
一緒にいられるうちに、別の方法を教えてあげたかった。
ただ、そのやり方を覚えた後は普通に生きていけなくなるから、このままで良いのかも知れないな、とフィアスは思った。
上腕を握る指に、力がこもった。シャツのシワが渦巻くように、赤いマニキュアが塗られた小さな掌に集中する。
冷え性の手にしては、いつになく温かい。
ずっと触れられていると熱いくらいだ。
彼女は顔を上げて、フィアスの唇に口づけた。口の中も熱い。
水の膜が張った眼球も熱ければ、こちらを見据える視線も熱い。
熱い手が頬に触れた。
「貴方の目は氷みたい」押し殺した声で凛は言った。
「冷たい答えを見つけて、納得してる顔」
「それが君には納得行かない」
「そう。この部屋の冷たさもね」
凛は部屋一面を見回す。
部屋を借り始めたときから代わり映えがない。整頓されたごくわずかな私物と、ここへ来て急に種類が増えたガンケース。
戦いに備えられた空間は、鋼鉄の霜が降りたように静寂が満ちている。
白い両手が伸びて金の髪をぐしゃぐしゃと撫でた。台風みたいな愛撫だ。
ワンちゃん、と凛は言った。
「あたしの可愛いワンちゃん」
涙を拭って、にっこりと微笑む。
「名前を呼んだら傍にきてくれる。この約束は死ぬまで有効?」
「飼い主を守るための、例外はある」
「例外になる前に……今晩、耳を澄ませていて」
乱れた金髪を掻きあげると、熱い唇を押し当てた。
その呼び出しは、今日が終わる少し前の暗闇の中から聞こえた。
空白が続く眠りから呼び戻され、すぐに眠気は霧散した。
フィアスは状態を起こして、片膝をついた。
膝頭に額を押しつけ、少し考え事をした。
思案は名案にたどり着かず、まとまりなく頭の中を流れた。
距離をとればいいの、と記憶の中でフィオリーナが言った。
――貴方の場合は、氷越しに見るようにしましょう。
そうだな、とフィアスは記憶に向かって答える。簡単だ。何年も前からそうやってきたんだ。
眩い携帯電話の光の中で、デジタル数字は二十三時四十五分を示していた。光が消えると同時に、感情を切り離した。
距離をとった感情へ、思考もおまけにつけてやる。
冷たい廊下を裸足で歩くが、冷たさを感じない。目に写るものすべてに隣人感がある。
本当に、水の中から外の世界を眺めているみたいだ。その水はずいぶん昔に凍りついて、分厚い
透明な壁が、外界と自分とを隔てている。
部屋にたどり着く直前に吐いた息が、白い霧になって頬を掠めた。
リン、という名前は合言葉だ。
横開きの扉が開くと、熱気に近い温風が吹きつけた。
橙の照明が、くまなく彼女を照らし出した。
太腿のあたりで裁断された、薄い黒のキャミソール。透ける素材で、身につけていても下着が見える。
ぎゅっと抱きつかれた部分に、彼女の温かさが染みた。
フィアスも抱擁に応えて、むき出しの白い肩先に口づけた。
その香りを嗅げば、迷うこともなくなる。
後ろ背に障子を閉めた。布団の上に膝をついて、エロティックなキャミソールを脱がせた。
キャミソールと対になった、黒いブラジャーとショーツ。左胸の印を久しぶりに目にした。いつ見ても見事な刺青だ。白い胸が
布団の上に彼女を組み伏せて、黒い蝶にキスをした。その瞬間、彼女のにおいが濃くなった。興奮に掻き立てられた花の香りが、細い身体から立ち上った。
口づけたり、指で触れたりしているうちに、凛の好きな場所が分かった。
蝶に巣食われた左胸と、小さな下腹部。
どちらとも、生命に近い場所だ。
柔らかな肉に繰り返し触れると、秘めやかな笑いが溶け出して、上ずった猫の鳴き声に変わった。甘いよがりが廊下に響く前にキスで塞いだ。
彼女は純粋に喜んでいて、とても幸せそうだった。
シャツを脱がせてくれたものの、降り注ぐ愛情を余すところなく受け止めるだけで精一杯だった。
感情から距離をとっても、その幸福の色は目に映った。
彼女が幸せなら、自分も幸せだ。限りなく死に近い場所にいるけれど、恋人の幸せは感じられる。細く熱い身体が機敏に反応するたびに、欲望とは別種の幸福が伝播した。切っても切れない罪悪感とともに。
生命をなぞる行為は、いちゃついていた時と同じく謝罪の延長上にあった。
ことあるごとに泣かせてしまった謝罪。恋人らしいことができなかった謝罪。
そして、彼女を孤独にさせてしまう未来への謝罪。
今までに抱いた女たちとは違い、その身体に触れるのは感情を取り戻すためではない。むしろこうしている間も、あらゆる感情とは距離を保っている。凛には申し訳ないが、システマティックにやっている。
頭は氷のように冷め切っていてとても冷静だ。
汗ばんだ掌の下で、彼女は二度痙攣に身を震わせた。
目を開いて、甘い吐息を吐き出す。
においの濃くなった赤い爪が、灰青色の瞳の周りをなぞった。
「あたしの中で、氷を溶かしてあげる」
「それはできない。ごめん」
「子供ができないようにすればいい」
「
つとめて優しく告げたものの、彼女はショックを受けた顔をした。それが互いの遺伝子にまつわる事情だと分かっていても、恋人に肉体関係を拒まれた衝撃を少なからず受けたようだ。
数秒の間、凛は目を閉じた。
そして、汗ばんだ裸体を起こした。
分かった、と決心して言った。
「セックスなしの条件つき。任せて」
「何」
「何を、なんて聞かないで」
彼女はフィアスの膝の上に乗ると、唇に口づけた。焦燥とは違う、強引なキス。
有無を言わさない口づけは、頬へ、首筋へ、無数の傷痕が残る裸の半身に届いた。
「今までは恋人の顔。普通の女の子として、貴方を楽しませてもらった」
尖った爪が検分するように、脇腹の古い傷痕をなぞった。それは何年も前にナイフで刺されたときにできた傷だ。自分でも気づかないうちに、ケロイド状の痕になっていたらしい。
引っ掻かれるとこそばゆい。
「ここから先は仕事の顔。専門家に任せておいて」
「せ、専門家?」
困惑した問いへ、投げキッスをするように凛は答えた――男殺し。
「貴方と同業ってこと」
彼女はフィアスの腕を掴むと、布団の上に引き倒した。拒否の意を唱えようとする側から、口づけが言葉を塞いだ。黒い猫の目が、深夜の冷たい空気の中で熱く発火する。
拒否権はなし。貴方に殺された人の大半も、拒否権なかったでしょ。
それは傷つく隙もないシステマティックな物言いだった。
彼女の手がズボンの中へのびる。
反論という理論が構築される前に、感覚という現象がにわかに押し寄せた。
距離をとった感情が、暴力に近い形で身体の中に呼び戻される。
ただし、がむしゃらに女を抱いているからじゃない。むしろ抱かれている。殺されるような勢いで。
過去に抱いた女たちは、こんな恐怖を感じていたのか、とフィアスは思った。
同業者に顔を変えた恋人が、舌を
「あたしが、感じさせてあげる」