警察に語った内容をシドにも伝えた。
 シドは喉を詰まらせて現状報告に耐えていた。
 警察にはA、B、Cと伏字をしたが、Aはフィオリーナ、Cはネオだ。
 Bがネオの腹心……李小麗だとするなら、彼女は生身の人間にも関わらず、半年間で二回も撃たれたことになる。一つ目はシーサイド・タワーで自分に、二つ目は歩道橋で狙撃手に。おまけに橋から落ち、運送車につれさらわれた。
 裏社会の人間とはいえ、なんとも不運な星の生まれだ。
 フィオリーナは生きていると思うか? とシドは聞いた。
 分からない、とフィアスは正直に答えた。
「残された血は致死量に近かった。しかし、ネオはフィオリーナを連れ去った。助けようとしているのかも知れない」
――あるいは、解剖しようとしているのかもな。あいつはマッド・サイエンティストだ。
 電話先でシドの怒りは燃えに燃えていた。みしみしとディスプレイにヒビの入る音が聞こえる。
――彼女への冒涜は許さん。俺も武装してお前と合流する。
 ヒビの入る音にくわえて、短銃身のショットガンを装填する不穏な音も聞こえた。
 シドは本気だ。敵味方の誰よりも火力の高い武器を使って、周辺一帯を蜂の巣にしようとしている。
 凄まじい意気込みだが、ゴングが鳴るにはまだ早い。
「落ち着けよ。頼みたい仕事があるんだ」
 真一を車に戻し、ノートパソコンを持って出た。遊歩道の手すりにもたれ、USBメモリを取り出す。
 これは荻野刑事に手配してもらったものだ。鑑識が撮った数百枚の写真が入っている。流出厳禁、SNSに転載禁止、と厳しく約束させられた極秘データだ。
 この写真に重要な証拠が写っていないか再検分してほしい。とりわけアジトに繋がるヒントを見つけてくれたら大手柄だ。
 不承不承、シドは引き受けた。
――本来の俺は血の気の多い武闘派だ。組織に入る前は、大抵の問題を腕っぷしで解決してきた。フィオリーナのサポートをするうちに、ギークなデータ野郎になってしまっただけだ。
「新たな才能に目覚めて良かったな」
――ああ。彼女のおかげだ。だから恩返しをしたい。襲撃するときは教えろ。
 言われなくとも教える。抜け駆けはしないよ。怒れる大男をなだめながら、写真の入ったフォルダをサーバーへドロップした。アジトが見つかるまでは、ギークなデータ野郎でいてもらわなくては困る。
 空の目からも観測を続ける、とシドは言った。
 フィオリーナは何らかの手掛かりを見つけてこの場所へやってきた。意図せずネオと鉢合わせたとすれば、彼らの拠点はこの近くにあるはずだ。
 警察の捜査網、シドのネット探査、そして五感を使った自分の捜索。そのうちのどれかが引っ掛かる。
 数日も待たず、事件は急展開を迎える。
 これは直感だ。エビデンスはない。
 しかし、何よりも頼りになる第六感が、そう告げた。
 フィアスは車に乗りこんだ。エンジンを掛けて発進させる。
 助手席で真一が、両手を頭の後ろで組んだ体勢で座っていた。気楽な態度とは裏腹に不安顔だ。
「フィオリーナ、生きてると思う?」
シドと同じ質問をされ、同じ答えを返す。
 希望と失望は比例する。過度に抱けば抱くほど、裏切られたときの失望は大きい。だから期待するな、という助言は真一に通用しない。意見を押し付ける気もない。
 片手で煙草を吸いながら、ハンドルを操作する。来た道を引き返し、笹川邸に戻る。
 吸殻を灰皿に捨て、フィアスは言った。
「寄り道したいところがある」
「寄り道?」
真一は意外そうな顔をする。
「どこ?」
「寄り道する時間はあるか?」
「俺に聞いてるの?」
「そうだ。マイチに聞いてる」
 眉を潜める真一。いつもとは違う問いに、ただならぬ気配を感じ取ったらしい。
 彼の第六感は人並み程度に優れている。
 時間ならあるよ、いくらでも。真一は大きく頷いた。
 フィアスはカーブを切って、笹川邸に戻るためのルートから外れた。そのまま十分ほど、桜木町方面に向かい、ある地点で再びカーブを切った。見慣れた街の風景が窓の外を通り過ぎる。
 走り続けた三十分間、真一は黙っていた。フィアスも黙したまま運転を続けた。

 目的地に近づくにつれ、真一は周囲を見回し始めた。
 見覚えのある光景。しかし、どこで目にしたのか思い出せないらしい。窓に手をついて、首を捻っている。
 車が停車し、ようやく思い出したようだ。
 ドアを開けて、真っ先に外に飛び出す。赤いスニーカーが、海を埋め立てて作られたアスファルトの地面を踏む。
 ここは海沿いの倉庫群。建物も地面も一面が白い。太陽の照り返しで眩しいくらいだ。
 倉庫から伸びる薄青色の影が、白い地面に淡い色彩を添えている。
「懐かしい!」
 真一は笑った。
「ここは、俺たちが初めて会った場所だ!」
 そうだ、とフィアスは頷く。
 一年半前、抗争鎮圧の仕事をした。銃を使うなと先方から指示があったので、ナイフを使用した。
 敵は二十人以上。少ない報酬の割に骨の折れる仕事だった。
 倉庫の壁にもたれて一服していると、若い男に声を掛けられた。
 ――あんた、あの組織の人間?
 それが本郷真一だった。
 真一は仕事でヘマをして、国外逃亡を計画していた。
 ボディガードを依頼したのは、正体を隠したシドの手引き。仕組まれた依頼だった。三年間、姿をくらましていた自分を、おびき寄せるための罠。
 罠にかかり、逃亡先でフィオリーナと再会を果たした。しびれを切らした彼女から、五年前の決着をつけなさい、と現在の仕事を任された。本郷真一とともに、過去に決着をつけろと。
 海に面した倉庫は寒く、潮風が途切れることなく吹いていた。
 真一は懐かしそうに周囲を見回した後、躊躇いがちにフィアスに尋ねた。
「ここに連れてきたのはどうして?」
「静かに話しをするためだ。場所にこだわったわけじゃない」
「めちゃくちゃこだわっているように感じるけど」
「そうか? ……そうかもな」
 フィアスは煙草に火をつけ、一度吸ったあとで、地面にすり潰した。真一は静かにその仕草を眺めながら、友人が話し始めるのを待っていた。車に揺られた時と同じ、場を取り巻く不穏な空気に物怖じしながら。
 フィアスは吸殻から目を離して、真一を見据えた。
 海と空の境目の灰青色が、黒曜石の輝きを帯びた黒い眼差しと交差した。
「ダチとして助けてほしい」とフィアスは切り出した。
「助けるよ」と真一は答えた。その返答は素早かった。
「約束しただろ。助けるよ」
「ありがとう」
「で、何をすればいい?」
「リンを守ってほしい」
えっ、と真一は聞き返した。フィアスは続けた。
「俺の代わりに、リンを守ってほしい。この戦いが終わった後も側にいて、彼女が普通の人生を歩めるように手を貸してくれないか。リンが困っていたら、相談に乗ってほしい。リンが泣いていたら、慰めてほしい。その後の人生が上手く行くように、金銭的なサポートもお願いしたい。金は俺が払う。それから」
「ちょ、ちょっとストップ!」真一が慌てて両手を挙げる。
 言いたいことは他にもあったが、フィアスはひとまず口をつぐんだ。
 切実な頼みではあるものの、かなり要求が多いし細かい。自覚している。
 しかし、他の人間に託せない。とても大事な頼み事だ。
 ネオと自分が消滅した世界で、凛は生きていく。先の長い人生を生き続けるには、友達が必要だ。恋人でもいい。立場は何でもいい。とにかく彼女と感情を共有し、心の傷を癒す人間が要る。
 それは、同じ死線を潜り抜けてきた、真一にしかできないことだ。
「これは、遺言?」暗い面持ちで真一は尋ねる。
「遺言だ」とフィアスは答える。
「俺に託すのか? 凛を? 説明書みたいな遺言つきで?」
「そうだ」
真一は倉庫を蹴飛ばした。
 倉庫のシャッターはアルミ素材で出来ていたが、運悪く蹴った場所はコンクリートが塗り固められていた。
 痛っ、と悲鳴をあげて足を振る。大きな目よりも大きい涙がぼろぼろと溢れ出した。
 痛みに呻きながら、止め処ない涙をリストバンドで拭う。それだけでは事足りず、あぐらをかいて真一は泣き始めた。
 勘違いしているみたいだから教えるけど、凛は家電じゃねーんだよ。唸りに似た声で皮肉を言った。馬鹿野郎、と罵りをつけて。
「相変わらず、システマティックな考え方をするよな。恋人に、物みたいに扱われた人生が、順調に進むはずないだろ。俺がフォローできるならまだいい。心に深刻なダメージを負って、病気になったり、自殺したらどうするのさ?」
 ぐっ、とフィアスは言いよどんだ。感情に重きを置いた真一の発言は核心をついていた。それは想定した問題の一つだった。そして解決することのできない問題でもあった。
 すべてが終わった世界で、彼女の心がどのように移ろってゆくか分からない。
 そして、その世界に自分は存在できない。
 だから、真一にフォローを頼んだ。
 説明しようと口を開きかけ、再び口を閉じた。
 真一に論理的な説得は通用しない。彼の信念は仁義に基づく。義理人情の世界に生まれ落ち、義理人情の世界に生きている。説得方法を誤ったが、同じ土俵に上がるべきではないと感じる。小手先のテクニックを使う必要はない。
 内容をすり合わせるために、後回しにしていた感情が戻ってきた。
 観念するしかない。
「きついならきついと言えば良い……そう言ったな」
 真一は涙に濡れた顔を上げた。その眼差しから逃れるように海を見つめる。
 こんなときにも邪魔をする、プライドというやつは面倒だ。
 フィアスは真一に向き直ると、スーツのポケットに突っ込んでいた手を外に出した。
「フィオリーナはおそらく死んだ。そして俺も死ぬ。後にはリンが残される。その一つ一つに感情を注いでいたら、頭がおかしくなる。ここで俺が潰れたら、チームは全滅だ。俺も、お前も、リンも死ぬ。その他にも大勢の人間が死ぬ。だから切り離す。すべての感情から距離をとって、システマティックにやるしかない」
懐から煙草を取り出して火をつける。
 いつもより長く紫煙を吸い込んで、肺に充満させた。
 恋人に、物みたいに扱われた人生。深刻なダメージ。病気。自殺。
 脳裏をよぎる痛切な言葉を、紫煙に乗せて霧散させた。
「ごめん」と真一は言った。零れ落ちる涙を拭わず、ぐずっと鼻水をすすった。同じ言葉を繰り返した。ごめん。
「いつもの調子で怒っちまった。悪かったよ」
「いや……」
 謝る必要なんてない。フィアスは思った。
 真一の気持ちは分かる。むしろ、分かりすぎるくらいだ。
 その怒りや悲しみは、本来は自分から発せられるはずだった。
 真一は我がことのように、切り離した感情を代弁してくれる。今までもそうだった。
 むしろ、感謝すべきなんだろう。彼が怒ったり、泣いたりするおかげで、いつでも冷静に立ち返ることができた。そして、俯瞰的に状況を見定め、窮地を切り抜けることができた。
 それでも……
「泣くなよ」フィアスは言った。
「お前、男だろ。男なら簡単に泣くな」
「なんだよ、それ」
「ルールだよ。とても厳格な」
「そんなルール、知らないよ」
口答えしながら、ごしごしと真一は涙を拭う。
「これが泣かずにいられるか。なんで凛が一人ぼっちになるわけ? なんでフィアスが死ぬわけ? なんで俺が自殺の手助けみたいな、頼み事を引き受けなきゃいけないわけ? 悲しいよ、そんなの。悲しくて、理不尽だ。俺が助けたいのはお前で、お前が死んだ後の未来じゃない」
「そう言われると、元も子もないな」
「そう。遺言なんか無意味だ。話すだけ時間の無駄なんだ」
 フィアスは溜息を吐いた……お前はそういうやつだったな。
 最終目的が自分と真一とでは違う。
 自滅を選ぶ自分と、自滅を阻止しようとする真一。
 ネオを殺した後の信念は真逆。交渉が成立しなくて当たり前だ。
 どう言えば分かってくれるのか。互いに考えあぐねること五分。先に折れたのは真一だった。
 分かった、と重々しく真一は言った。
「ダチの頼みは絶対だ。引き受けるよ……ところで、ダチが窮地に陥った、俺もまさに窮地なんだよね」
「交換条件を出すのか?」
「人聞きが悪いな。俺は取引相手じゃないし、倉庫は取引所じゃないよ」
 しゃがんだ体勢から、真一は手を差し出す。その手を掴んで引っ張り上げる。
 結果的にがっちり交わした握手は、交渉の成立を強めている。
「初めて会ったとき、ここで取引したよな」
離した手をポケットに突っ込んで、フィアスは言った。
「ここは取引所で、お前は取引相手だった」
「そ、そうだっけ?」
「高額の報酬と引き換えに、ボディガードを引き受けた。握手はしなかったな。確か」
 あー、そう言えばそうだったかも。投げやりにつぶやいて、真一は頭を掻く。
 友情の勢いを削ぐビジネスの話をされて面倒くさそうだ。
「シドが割り込んで、取引はおじゃんになっただろ。ビジネスが成立しなかったってことは、俺たちは最初から友達同士だったんだよ」
うんうん、と納得顔で頷く真一。そうだろ? と同意を求めてくる。
 ビジネスが成立しなかった。
 それだけのことなのに、なんで友達になってるんだよ。
 そもそも友達だとか友達じゃないとか、その定義付けは必要なのか?
 「昨日の敵は今日の友」という諺もあれば、「昨日の友は今日の仇」という諺もある。
 つまり、友達かどうかのカテゴライズは無意味ということだろ。
 「ダチとして助けてほしい」と切り出しておきながら、いつもの癖で、真一の妙な友情論をつつきたくなる……が、余計なことを言って、ヘソを曲げられると面倒だ。
「そうだな」とフィアスも同意する。

 そうだな。
 俺たちは最初から友達だった。
 この場所で出会い、友達になった。
 それでいい。

「ダチとして助けてくれるなら」真一は言った。
「俺の答えを、希望の一つにくわえてくれ」