頭の中で声が聞こえた。何を言っているのか分からない。
 その声は自分のものであって、自分のものではない。
 事件現場を目にしたのは自分。思考をするのも自分。
 しかし、脳内を駆け巡る声は、別の場所から聞こえてくる。
 声ではないのかもしれない。
 言葉ですらないのかもしれない。
 幾重にも重なり合い、静聴せいちょうするそばから意味をにじませる。
 さながら、出口のないピンボール。頭蓋骨の壁にぶつかって反響を起こす。
 それは、求めているのだ。
 話術として言語化され、明瞭めいりょうな意味を持つ一瞬を。

「構築する」声に向かって宣言した。
 刑事たちの視線が一斉に二人を向いた。
 彼らを一瞥しながら、フィアスは言った。
「橋の上には三人いた」
 ビニールシートをめくり、目下に映る橋を差す。
「大きな血溜まり、欄干についた血の手形、柵についた血の手形、持ち主はそれぞれ違う。手前順にA,B,Cと名付ける。
いちばん手前、橋の袂にいるAはビルに背を向けている。B、CはAと対峙して立っている。そう考える理由は、Bが不意を突かれたこと。欄干についた手形は、撃たれたBが咄嗟に掴んだものだ。Bは自分が銃弾の餌食になるとは思っていなかった。
Aはビルを背にして立ち、屋上にいる仲間を隠した。橋の上の二箇所の血溜まりを見るに、AとBの距離は五メートル。AとCの距離も同程度に離れている。欄干の手形はBのものだが、大きな血溜まりはAのものだ。
Aは背後に隠した仲間――狙撃手に自分を撃たせた」
フィアスは橋を見下ろしたまま、低い声でつぶやいた。
「……致命的な一撃だったはずだ」
屋上はしんと静まり返っている。
 私情の絡んだつぶやきが、違和となって刑事たちに伝播する前に真一は聞いた。
「そのあとで、狙撃手はBも撃ったってこと?」
「撃っていない。狙撃手が放った弾丸は一発だけだ。Aの身体を貫通した弾丸は跳ね返って、Bに当たった。それが狙撃手の真の狙いだった。Aの身体を貫通させ、跳弾ちょうだんでBを仕留める。あるいは……」
フィアスは微かに考え、言葉を発した。
「あるいは、Cを撃とうとしたのかもしれない。それを咄嗟の判断で、Bが阻止した。その辺りの事情は分からない。とにかくBは被弾した。
跳弾はエネルギーが削げているので、直接的な銃撃に比べてスピードも威力も落ちる。弾痕が見つかっていないことから、弾丸はBの体内に残留している。Aは倒れた。Cはすぐさま屋上の狙撃手に向かって反撃した。狙撃手はA、Bを狙撃後、Cに撃たれた。こちらも弾痕が見つかっていないので、弾丸が体内に留まっている。
Bに残留した弾丸は跳弾による威力半減が原因、狙撃手に残留した弾丸は遠方射撃による威力半減が原因だ」
「おい」と太い声がして、刑事の一人が言った。
「歩道橋の現場からここまで80メートルはある。Cも狙撃手だったってことか?」
「違う」とフィアスは答える。
「橋の上にロングガンを扱った痕跡はなかった。Cの武器はハンドガン。それも即応性そくおうせいに優れた、小型でシンプルな種類だ。護身銃に近いものだろう」
「小型の拳銃で80メートル先の的を撃ったと?」
「確かに信じ難いことだ。ハンドガンの有効射程距離は50メートルほど。さらに遠方の的を狙えば、射撃精度が落ちる。命中率はとても低い。しかし、Cはそれを行った。弾道のブレを瞬時に計算して、狙撃手が身を隠す前に痛恨の一撃をお見舞いした」
うんざりしたように刑事がぐるりと目を回した。
「そんな漫画みたいなことが出来るはずないだろ。俺は二十年方刑事をやっているが、小型拳銃での狙撃なんざ一度も見たことねぇよ」
「しかし、証拠は語っている。AとBが倒れた後、反撃できたのはCだけだ。Cの仲間にやり手の狙撃手が潜んでいたとすれば、誰もが納得する理論が組み上がっていたかも知れない。屋上にはライフル弾もなければ、弾痕も発見されていない。狙撃手の血痕は滴下していて、飛沫は上がっていない。ライフルで狙撃されたのなら、高速飛沫血痕が飛散しているはずだからな。
小型拳銃から発砲された弾丸が、狙撃手の体内に残留したと考える方が理に適っている」
ちっと刑事は舌打ちしながら引っ込んだ。嫌味な態度をもろともせず、フィアスは橋の片側を指さした。
 欄干についた手形と反対側、柵を握りしめている手形だ。
「最後に、柵の血について。檻を握る猿のようについた小さな手形。あれはCのものだ。全員が負傷した橋の上で、自由に動き回れたのはCだけだ。Cの手が血に塗れていたのは、倒れたAに触れたからだ。Aに触れた後、Cは元いた場所まで引き返して柵を握りしめた。そして道路を見下ろした。
そこにあるべきはずのものを確認するために……それは、Bの死体だ」
「えっ、Bは死んだの?」と真一は言った。
「死んだかどうか分からない」とフィアスは答えた。
「被弾した衝撃で、Bは橋の上から落ちた。欄干に手をつき、辛うじてバランスを保っていた身体が体勢を崩してひっくり返った。橋の上に倒れたなら、別の形で血痕が残っているはずだが、そういった痕跡は見つからなかった。Bは橋の上から落ちたが、道路に落下しなかった。交差点には血溜まりも、人が落ちた痕跡も残っていない。ぎりぎりのところで、Bは墜落をまぬがれた」
「どうやって?」
「走行車の上に落ちたんだ。テロの影響で、街では乗用車を見かけなくなった。しかし、運送トラックや配送車など、運転席と荷台が分割された大型車は走っている。
Bは運良く荷台に落下し、現場からいなくなった。
Cが見たのは、死体ではなく運送車に運ばれてゆくBだった。最終的に、CはAを連れさった。
階段についた滴下血痕はAのものだ。柵についた手形と、滴下血痕の高さから推察するに、Cは小柄な人物。中学生か高校生くらいの子供かも知れない。AとBが存命かは分からない。狙撃手は生命からがら逃げ出した。
こうしてすべての人間が現場を後にし、証拠だけが残された」
フィアスはポケットに手を突っ込むと、刑事たちを一瞥した。
「俺が刑事だったら、まずは運送会社に当たる。四日前に雨が降っていたから、事件が起きたのは三日以内だ。その間に道路を通った運送車で、荷台に不審な汚れのある車を探す。そして、向かいの道沿いにあるアパートや飲み屋を回って、怪我人を抱えた小柄な人物を見かけなかったかと聞き込み調査をする。このビルの周りも調べて、血痕をはじめとする狙撃手の手掛かりが残っていないか捜査する……かな」

 話し終えるや、刑事たちは一斉に電話を掛け始めた。
 部下へ上司へ部外の知り合いのつてへ、捜査に手を貸してほしいとお願いする。
 通話を終えると、役割分担を決める井戸端会議を始めた。
 運送会社を調べる係、周囲に聞き込みを行う係、雑居ビルの周辺で手がかりを探す係。迅速に役割が割り振られる。途端に慌ただしくなった現場を、フィアスと真一は黙って見つめた。
 刑事たちは火をつけた火薬庫のように発火した。対岸の二人には見向きもしない。
 ただ一人、荻野刑事だけは二人の手を握ってぶんぶんと上下に振り回した。
「お手柄だぜ、二人とも! これで捜査が捗る。サンキューな!」
「進展があったら教えてください。微力ながらお力添えします」
「もちろん、もちろん! これからも頼りにしてるぜ、兄チャン!」
刑事は手を離すと、現場班の輪の中へのっしのっしと歩き始めた。
 熊に似た大きな背中を眺めながら、真一は頭の後ろで腕を組む。不満顔だ。
「謎を解いたのは俺たちなのに、他のやつらは礼もなしかよ」
「正確に言うと、謎を解いたのは俺だけどな」
「分かってるって。さすが横浜のホームズ。刑事に代わって褒めてやるよ。まあ俺としては、横浜のモリアーティ教授の方がしっくりくるけどな。それとも、横浜のモラン大佐って呼んだ方が良い?」
「どうでも良いことを熱心に考えるなよ」
フィアスは歩道橋に目を移す。
 橋の上の真っ赤な血液。事件の瞬間がまざまざと目に浮かぶようだ。
 ネオの説得と心中は失敗に終わった。
 彼女たちでは立ち行かなかった。
 ちらりと横目に真一を見る。
 事件は進展した……進展した事件に合わせて、動かなくてはならない。
 事件現場の謎解きよりも難しい、人の心の問題を解決する時が迫っていた。