三人の切り抜け方


 事件の進展、そう呼べるものがこんなに早くやってくるとは思わなかった。
 赤い絵が届いて二日後、真一は荻野刑事に呼び出された。早朝、電話が掛かってきたのだ。
――よぅ、ワトソン! ホームズは復活したか? 見せたいものがあるんだよ!
 詳しく事情を聞こうとしたが、とにかく来い、と一蹴いっしゅうされた。待ち合わせに荻野刑事は奇妙な場所を選んだ。横浜駅から北上したところにある歩道橋。いつもと変わらず溌剌はつらつとした物言いだが、会話の隙間にわずかな焦りが感じ取れる。
 九時までに行くと、約束を取り付けて真一は電話を切った。
 続け様、フィアスに電話を掛けて、部屋まで迎えにきてもらった。これで迷子にならず、笹川邸の駐車場までたどり着ける。
 今日は日曜日。邸内は穏やかな静寂が満ちている。茜も凛も眠っている。
 そして曜日に関係なく、一之瀬を含む数名のヤクザは、庭園の警備にあたっている。のどかな日本庭園の緑彩りょくさいが窓に反射し、すぐ消えた。
 思った通り、約束の歩道橋は事件現場だった。
 歩道橋にビニールシートが張られている。
 人気ひとけのない場所のためか、野次馬は少ない。せいぜい、報道陣が三塊になって遠巻きに事件を中継しているくらいだ。
 路肩にまったパトカーの後ろに車をつける。
 警察関係者に会釈して通り過ぎると、真一は規制線をくぐり抜けようとした。
 そこで相棒の姿が見えないことに気づいた。
 フィアスはまだ車の前にいた。ボンネットに手をついて、周囲に注意を払っている。何らかの異変を感じ取ったようだ。
 車まで引き返すと、彼はあちこちに向けていた視線を真一に向けた。
 その目は射抜くように強烈だった。
「フィオリーナがやられた」
「どうして分かる?」
「血のにおいがする」
「血?」
「彼女の血だ」
真一はくんくんと周囲のにおいを嗅ぎ取る。埃っぽいアスファルトと下水の嫌なにおいしかしない。
 しかし、彼の鋭利な五感がそう告げるのだから、信じないわけにいかない。青い目が橋を見上げる。
 歩道橋は水色のビニールシートで覆われている
「行こう」
フィアスは大きく息を吐き出すと、コートに両手を突っ込んで歩き始めた。

「よぉ、真一と兄チャン! 久しぶりだな!」
規制線を持ち上げてくれたのは荻野刑事だった。当たり障りのない挨拶を交わして、階段を登る。
「またマジックだよ」背後で刑事がぼやいた。
やれやれとため息を吐き、うんざりした声で続ける。
「人体消失イリュージョンってやつだな。争いの痕跡があるのに、死体だけが見つからねぇ。事件にマル被がいないとなりゃ、俺たちは誰のために働いてんだ? まったく商売上がったりだよ。だからこそ、藁をもつかむ思いでお前たちを呼んだわけ。今回は現場班で満場一致まんじょういっちの決断だ。解決といかないまでも、糸口が欲しい。探偵さんたち、思う存分調査してくれ」
荻野刑事は捜査状況より、二人を呼びつけた事情を説明した。現場は目の前にある。説明するより先に見ろ、という考えのようだ。
 歩道橋に登って、真一は目を凝らした。
 鑑識検分が終わった橋は、狭い横幅にも関わらず、鑑識用標識があちこちに置いてある。中でも一際目立つ証拠は、橋のたもと――目の前に、大きな血溜まりができている。
 フィアスの背後からおっかなびっくり目下を覗くと、血溜まりは完全に乾き切って黒ずんでいた。
 前を行く相棒は、コートの襟元で鼻と口を塞ぎ、何かを我慢していた。
 目が合うと、小さな声でぼそりと告げる。
「苛々する。先天遺伝子の血のせいだ」
「ということは、この血痕はフィオリーナのものか?」
「ああ」とフィアスは苛立たしげに頷いた。
「先に進もう」
 二人は血溜まりを踏まないよう慎重にまたぎ越す。
 五メートルほど進んだ橋の欄干に血飛沫ちしぶきがついていた。
 鋭く飛び散った血の痕、高速飛沫血痕こうそくひまつけっこんというやつだ。
 現場めぐりをするに連れ、真一にも鑑識や刑事が使う専門用語が理解できるようになっていた。
 高速飛沫血痕とは、銃弾などの衝撃の強い凶器で傷つけられたときに飛び散る血のことを言うそうだ。警察が調査している一連の事件は、すべてライフルによる銃撃なので、他の速度の飛沫血痕は目にしていない。
 欄干の上には、後ろ背に掴むように指先の指紋が付着していた。
 欄干の下にも血溜まりができていて、橋の上で多くの血が流れたことを物語っている。
「これもフィオリーナの血?」手形を指さして真一は聞いた。
 この血溜まりがフィオリーナのものだとすると、彼女は橋の手前で攻撃を受けた後、なんとか五メートル先まで辿り着いた。そして、欄干に手をついてバランスを取った。だから欄干の上と下に血痕が残っているのだ。
 真一の推論を聞いて、フィアスは首を振った。
「たとえフィオリーナでも、あの量の血を流してここまで動けるはずがない。その証拠に、袂の血溜まりと欄干の血溜まりの間に血痕はついていない。これは別の人間の血と手形だ」
 何かに気づいてフィアスは身をかがめた。
 灰青色の視線は、欄干の手前の、地面についた引っ掻き傷を捉えている。
「跳弾している」とフィアスはつぶやいた。
 橋を渡って、反対側の階段に到着する。
 階段に滴下血痕てきかけっこん。これは垂直方向にぽたぽたと垂れた血痕のパターンだ。円周が尖っておらず、どの血痕もきれいな円を描いている。
 落下後の跳ね返りが少ないということは、かなり低い位置から滴っている証拠。赤い水玉は段の途中で切れていた。
 手すりに触れないよう注意しながら階段を下り、向かいの道路に降り立つ。
 フィアスは腕を持ち上げて、歩道橋の背後にある雑居ビルを指さした。目分で角度を測っているようだ。
 彼が指差すビルの屋上は、事件現場と同じようにビニールシートに覆われている。
 気づかなかった、もう一つ現場があるなんて。
「あそこに狙撃手がいたのか?」と真一は聞いた。
「あのパンク女が?」
「たぶんな」とフィアスは頷いた。
 荻野刑事のところへ引き返す途中、小さな手形を発見した。
 欄干の上に付着した手形と反対側。
 檻のように連なる手すりの一つに、べったりと柵を握った痕がついている。
 二人は橋からわずかに身を乗り出して道路を見下ろした。封鎖された道路上に鑑識用標識が点在している。しかし、橋の上ほど派手ではない。血痕も見えない。
「歩道橋で気になるのはこんなところか」とフィアスはつぶやいた。
 荻野刑事が待つ橋の袂へ戻る。
「事件発生からかなりの時間が経っていますね。俺の見立てだと一日……いや、二日ってところかな」
「テロ事件の影響で発見が遅れたんだ。最近じゃ誰も外を歩こうとしないだろ。増して、事件が発生したのは歩道橋の上。馬車道のテロ事件を彷彿ほうふつさせる場所を避けたがるのが大衆心理だ。通報は一般市民で、久しぶりに歩道橋を歩いてくれた貴重な人間。初動捜査しょどうそうさが遅れちまったことは事実だが、それはこっちの都合だしな」
鷹揚おうようとした答えだが、焦燥に駆られているのだろう。荻野刑事はいつもより早口だ。
 幸いだったのはここ三日、雨が降らなかったことくらいだな、と付け足した。
「弾丸や薬莢やっきょうは見つかりましたか?」
「見つからなかった」
「血液鑑定、指紋照合の結果はいつ出ますか?」
「一時間前に鑑識が引き上げたばかりだ。結果が出るのは明日以降だろうな」
「歩道橋の下に目立った証拠はなかった?」
「そうだな。専ら犯行は歩道橋の上で行われたみたいだ」
 フィアスは頷き、第二の事件現場である雑居ビルを指さした。
「ビルの屋上を見ても良いですか?」
「ああ、もちろんだ」
 フィアスと真一は、雑居ビルの屋上に昇る。
 屋上の縁に沿って目張りしたビニールシート。その中で、数名の刑事たちが捜査に勤しんでいる。ほとんどが顔見知りの刑事だ。こちらを目の上のたんこぶだと思っているに違いないが、捜査に呼んだ手前、邪険に扱えない。いつもの聞こえよがしな嫌味はなりを潜めている。ただし、嫌味な視線を容赦なく投げかけてくる。
 満場一致の判断で助っ人を呼んだにしては、まったく歓迎されていない。そんな刑事たちを無視して、フィアスと真一は屋上のふちへと足を向ける。鉄柵に囲まれた屋上の縁はわずかな段差が作られている。その段差の一つにかすれた痕が見つかった。狙撃銃を銃座にしたときにできた傷だ。
 そして、ここにも大量の血痕……橋上きょうじょうの血痕と同じような色の濃さで干からびている。フィアスは辺りを見回す。弾痕を探したが見つからなかった。
 荻野刑事に尋ねると、屋上でも弾丸を発見できなかったとのことだ。
「どういうこと?」と真一が聞いた時、現場にいた刑事の動きが一斉に止まった。
 空へのぼりを立てるように、静まり返った屋上へ無数の聞き耳が立つ。
「弾丸が体内に残留している可能性がある」とフィアスは答えた。
「遠距離から撃たれた。あるいは、威力の弱い銃や変形弾で撃たれた。弾丸が体外へ排出されず、骨や脂肪に食い込んだままになっていれば、弾痕も見つからない」
「聞いているだけで痛そう……」
「痛いだろうな。鉛中毒や感染症を引き起こせば生命に関わる」
 刑事たちの捜査が再開する。弾丸の体内残留の可能性は警察側も気づいているようだ。特ダネを期待した数名の、ちっという舌打ちが短く響いた。
 発見が遅れたこともあって、今日の現場はいつも以上にピリピリしている。狭い空間に期待と苛立ちが入り混じって片身が狭い。
 真一は刑事たちを視界に入れないように、足下の血溜まりに注意を向けた。狙撃手のコンとヨン。彼女たちがここにいたのなら、どちらかが深傷ふかでを負ったことになる。ヨンは赤い絵を描いてメッセージを伝えてきたので、負傷したのはコンの方か。当たりどころによっては、死亡した可能性もなくはない。
 それは橋上の血溜まりの主――フィオリーナにも当てはまる。
 真一は眉を潜めた顔で、ビニールシートを少しめくり、屋上から現場を眺望した。
 この場所から歩道橋がよく見えた。標的を狙撃するのにぴったりだ。

 橋上の大きな血溜まり。
 橋上に着いた跳弾の痕。
 欄干の飛沫血痕と身体バランスを取るように付着した手形。
 向かいの階段についていた滴下血痕。
 柵を握りしめた手の跡。
 しかし、橋の下には何もない。
 そして、雑居ビルの屋上にできた血溜まり。
 どちらの現場からも見つからなかった弾痕。

「分かった?」刑事に聞きつけられないよう、小さな声で真一は聞いた。
「必要なものは見た」とフィアスは答えた。
「あとは構築する」
「えっ、名推理やるの?」
 意外だった。警察側の捜査を促進するからという理由で、「横浜のホームズ」は名推理を封印していたはずだ。
 あの技術を使うには、考えたことを口述して、文字通り推理を披露しなくてはならない。
 フィオリーナや狙撃手たちが不利な状況に追い込まれたこの局面で、警察側の捜査を進展させて大丈夫なのか?
 思ったことを口にすると、
「光をって闇を照らす」
婉曲えんきょくした答えが返ってきた。
 この現場においてのみ、フィオリーナは容疑者ではなく被害者だ。
 当時の状況を再現することで、捜査を促進させ、警察に動いてもらう。
 大々的な捜査網を敷けば、彼女を見つけ出せるかもしれない。
 荻野刑事が「毒を以って毒を制す」つもりで自分たちをここへ呼んだなら、「警察を以ってフィオリーナを照らす」という作戦らしい。
「シドが作ったデータより頼り甲斐がある」
「確かに……」と苦笑しながら、真一は昨日のほとんどを画材屋で過ごしたことを思い出した。地図に載っていたすべての画材屋を回ったが、手掛かりは見つからなかった。一人用の小さなタモより、警察の地引き網を使った方が、大きな魚を引っ掛けられそうだ。
 フィアスは立ち上がると、コートの襟を正した。
「細かいことかも知れないが」と前置きして彼は言った。
「〝探偵の推理〟ではなく〝マフィアの勘〟だ」