真紅の絵画が届いて二時間の間に、シドはアメリカの科学捜査班とフランスの絵画鑑定士にコンタクトを取っていた。オンラインで絵を見てもらい、使用したと見られる画材をピックアップした。
 それから横浜市内にある画材屋の流通経路を割り出した。発注先のデータベースに進入して、ピックアップした画材を取り扱っている店舗を抽出した。
 市内の地図に×印でマークされた該当店舗は十箇所以上ある。
「付け焼き刃のデータだから、あまり信用しないでくれ。心の慰みに作った精神療法に近いデータだ」
「専門家の回答に信頼性は? 彼女がECサイトを使っていたら? 画材を国外から持ちこんだ可能性は?」
「俺は二時間のカウンセリング料を浮かせることができて満足だよ」
「浮いた金でこちらのリサーチ代を払ってくれ」
地図を見ながらフィアスは唸る。
 信頼性の低いデータだ。シドの博打ばくちが当たっていることを願うしかない。
 つまり、画材屋の近辺で五感を開き・・・・・、彼女たちの痕跡を発見する可能性に賭ける。雑音と異臭と埃にまみれた大都会に隠滅されていなければ、万分の一の確率で手掛かりを掴めるかも知れない。
 警察に怪しまれず、凛や真一に心配されない、これが最も安全なやり方。途方もないしらみつぶしだ。
 赤目も昼間に出現し、再びテロを巻き起こす。
 フィアスは溜息を吐いた。事態は悪化する一方だ。
 そして、片耳を隠すようにがしがしと頭を掻く。
 嫌でも二人の声が耳に入る。彼らは入り口近くにある実験装置を触りながらひそひそと話をしている。
 真一が独断専行どくだんせんこうしていた「俺たち三人が、どうやったらこの問題を乗り越えられるか考えよう」の会に凛もくわわって、作戦会議をしているらしい。話の内容が丸聞こえだ。
「狙撃手からの連絡に期待したいところだな」とフィアスは締めくくり、腕時計を見た。
 四時四十五分。そろそろ社会科見学も、切り上げるべき時分だろう。
 応接室にある絵画をもう一度確認して、科学館を出た。


 その夜、凛の部屋の前で鉢合わせした。
 足音で部屋を出る動きは分かっていたが、彼女も恋人が近くにいると感じ取ったようだ。鉢合わせしたにも関わらず、驚きもしない。嬉しそうに微笑んでこちらを見上げる。
 彼女の目元や頬や髪にさっと目を走らせ、フィアスは安堵した。泣いていない。
 凛は昼の顔と夜の顔を合わせ持つ。昼間にこやかに話をしていたと思ったら、夜中に一人で泣いている。
 受け入れた傷が、今ごろざわめき出すのではないかと気がかりだった。
 安堵したことを悟られないうちに、どこへ行くんだ? と尋ねる。
「見せたいものがあって」と凛は言った。
 フィアスの手を取り、長い廊下を歩き始める。
 彼女は寝支度をとっくに済ませていて、燕児色のカーディガンに膝丈までの白いワンピースを身につけていた。いつだったか冷え性をいさめたときと同じ格好をしている。ただし、今日は細い足にレッグウォーマーをつけて、毛糸の靴下を履いている。
 厚着しろ、という生活感にまみれたアドバイスが届いたようだ……足と足首には。
 ワンピースの薄いすそが歩くたびにひらりと舞う。薄い生地の下で白い太ももがぼんやりと透けて見える。
 青い海、とフィアスは連想する。
 青い海、白い砂浜……ここがオーストラリアなら、季節に準じているのだが。
 チェスターコートを脱いで、前方を行く小さな肩にかけた。
 あったかい! と凛は長い袖をひらひらさせながら喜んだ。
 確かに冬物のコートは温かいだろう、夏物のワンピースに比べたら。
 可愛いからずっと着ていてほしいとお願いすると、男物だしいらないと遠慮がちな答えが返ってきた。そして、可愛いならたまに着てあげる! と無邪気に照れながら丈の長いコートの袖を振った。
 可愛いのに残念だと返事をしながら、「北風と太陽」の逆を行くアイデアを考えるのは難しいな、とフィアスは思った。
 凛は女の子だ。女の子に厚着をさせようとする時点でとても難しい。特殊部隊なみの交渉術が必要かも知れない。
 彼女は外に出たいらしく、玄関に向かって歩を進めていた。
 改めて行き先を尋ねるも「見てからのお楽しみ」と秘密めいた笑いを立てる。
 凛のサプライズは喜びより恐怖が勝る。
 イメージとしてはプレゼントボックスのショートケーキより、錆びついた扉の奥のゾンビの大群に近い。
 情報を収集しておかないと、立ち直れないほどサプライズしてしまう恐れがある。
 ヒントをくれないかな? と尋ねると、あっさりした答えが帰ってきた。
「みんな知ってるし、隠す必要もないかしら」
「なんだろう?」
皆既月食かいきげっしょく。一緒に見ようと思って」
 なんだ、天体か。フィアスは胸を撫で下ろす。落下してこない限り、素敵なサプライズだ。
 数日前からあちこちのニュースで「皆既月食」の文字を目にしていた。
 もともと天文学には興味がないし、追っている情報と無関係なので遮断していた。
 その皆既月食が、今夜の十九時から起こるという。
 凛は庭園のど真ん中に立つと、天空を見渡して月を探す。
 そんな彼女を奇異きいの目で見つめるヤクザたちに会釈しながら、隣に立つ。
「曇っていて見えづらいな」
「この方角で合っているわよね?」
「ええっと……全然違う。北東は真逆」
 ニュースサイトの情報を手掛かりにして、月の位置を探し出す。すぐに見つかった。
 笹川邸の瓦屋根の上に小さな月がぼんやりと浮かんでいるのが見えた。月食はもう始まっていて、白い月の端がわずかにかけている。夜雲に覆われ、薄ぼんやりした月光が滲むように輝いた。
 背伸びという無駄な抵抗を試みて、凛は月をよく見ようとする。赤い口から吐き出された息が、白い霧となって頬に流れる。それなりに頑張ったところで地面に着地する。
 彼女はきょとんとした顔で、首を捻っている。
 想像していたものより大分地味な宇宙の神秘に納得がいかない様子だ。フィアスから携帯電話を借りて写真や動画を撮ってみるも、仄かな光しか映らない。
 大きな目でじっと月を見上げる。
 あまりの理不尽さに、怒りを通り越して疑問を感じている。
「テレビに映ってたのと違う。前回は、もっと大きかったのよ」
 両腕を振り回して、大きな円を描き出す。玉乗りが出来そうな大きさだ。
 肉眼でそのサイズの月が見えたら地球は滅亡する。

 ……ライニー、君が見たのは天体望遠鏡で撮影した月だよ。
 山の上にある天文台で、人間の視力の数万倍も高い倍率の望遠鏡を使って撮影する。だから、あんなに綺麗に映るんだよ。
 本来、僕たちの目では、はっきりと見えないものなんだ。

 かつて、凛と同じ疑問をルディガーに投げかけたことがあった。そのとき父親に聞かされた説明を、今度は彼女に話して聞かせる。
 凛は少し不満顔で、その説明を聞いていた。
「きれいなものを見せてあげようと思ったのにな」とふてくされたようにつぶやく。
 子供の自分も同じことを考えていた――「父さんに、きれいなものを見せてあげようと思ったのにな」。
 性別や年齢が違っても、人間が考えることはそんなに変わらない。
 頭上の月は肉眼で観測できないスピードで月食を続けている。三時間程度で、地球の影に完全に覆われ、赤い月に変身する。
 月が赤く見えるのは、太陽光線が屈折して、赤い光に照らされるからだ。
 ここからではあくまで薄ぼんやりした光と、薄ぼんやりした灰色の影しか見えないが、理屈の上ではそういうことらしい。
「サプライズにならなかったわね……」
「いや、きれいだよ。きれいなものを見せてもらった」
「ほんと?」
「ああ。君の気持ちも含めて、ありがとう」
 ふと、あの絵を思い出した。
 ヨンが送りつけてきた一枚目の絵画。
 あの幻想的な作品も、惑星の重なりが描かれていた。
 日食か月食かは分からないが、星と星が混ざり合い、それを見上げる者たちがいた。
 ……ここにいる、俺たちのように。
 何かを掴んだ気がする。
 あの絵が告げる意味について。
 おそらく、ヨンは意図的に絵画を送ってきた。そう思えるほど、はっきりとした意味を感じ取れた。
 しかし、上手く言語化できない。煙に似た抽象的な……いや、観念的なものが目の前に立ち現れただけで、知性を使って絡めとることができない。ロジックは意味をなさない。芸術を論理立てて説明することができないように。
 だから、彼女は絵画という芸術手法を使って、こちらに情報を伝えてきたのかも知れない。
 それを言語に置き換えること自体が間違っているのかも知れない。
 凛の手が触れた。細い指先を絡めて、右手をぎゅっと握ってくる。冷たい手だ。透明な体温が外気に侵食されている。
 包むようにその手を握り返す。
 自分の体温が時期に小さな手を染め変えるだろう。

「貴方と見れて良かった」
 白い息を吐きながら、凛は言った。