凛の話を興味深げにシドは聞いた。二人がにおいで繋がっているという、あの仮説。
 凛は「くんくん仮説」と可愛らしい名前をつけて、計六回の夢遊病の内容を仔細に語った。
 笹川邸でそんなに面白いことが起こっていたなんて知らなかったぞ、とにやにやした視線に当てられる。開き直っているので、もはや何とも思わない。そうだな。面白いな、とフィアスは淡々と返事をした。
 シドは並々ならぬ関心を持った。
 先天遺伝子や後天遺伝子を持つ者の五感の鋭さを、間近でいちばん目にしてきたのはシドだ。
 先天遺伝子の子孫を残せる凛の特殊な遺伝子についても、フィオリーナから話を聞いている。特殊遺伝子と後天遺伝子の繋がりについては不明だが、協力できることはなんでもすると請け負った。
 凛は持参した段ボール箱を開ける。中には様々な衣服や小物が入っていた。透明なパウチに入っている黒い房は髪の毛だろうか。もう一つのパウチには切った爪も入っている。
 考えつく限り身体を検査できるものを詰め込んできたらしい。多岐にわたる私物でごちゃごちゃしているが、段ボールから香る凛のにおいは強烈だ。その体臭は生々しいくらいだ。
 これらにくわえて血液のサンプルも送る、と凛は言った。
「あたしの遺伝子を研究するのにいちばん必要なものだと思うの。採血してほしい」
 血液サンプルは既に送付済だ、とシドは答えた。
 フィオリーナは早い段階で凛の特殊遺伝子に気づいていた。先天遺伝子や後天遺伝子の研究素材として、何かしらのルートを使って血液を入手し、とうの昔にドイツへ送った。
 自分と同じく凛の身体も調べ尽くされている。
 <サイコ・ブレイン>にいた頃よりも、倫理道徳に則った形で。
 フィアスが凛の仮説に懐疑的なのもそれが理由だ。遺伝子研究にいちばん有力な血液の分析は既に終わり、重大な発見はなかった。先天遺伝子はともかく、後天遺伝子に対する科学反応は見られなかった。
 それでも良いの、と凛は言った。
「もう一回送る。ピチピチした、生きの良いやつ。新しい発見があるかも知れないでしょ」
「凛が魚に見えてきたぞ」とシド。
 ふふふっ、と笑って凛は答える。
「魚もあたしも、鮮度が大事」
 そしてフィアスの腕を掴む。ついでに貴方の血液もとる。もう一度調べてもらいましょう、と提案する。
 使えるものは何でも使う。彼女の作る料理の材料になった⁠⁠気分だが、抵抗する気はない。血液なら今までの戦いで無駄遣いしている。ここへきて、けちる理由はない。
 アジトの中層に仮初の救護室がある。前の拠点から引き上げるときに、大量の医薬品や医療器具をまとめて詰め込んだようだ。その中に採血用のキットもあるという。
 手を貸すというシドの親切を断って、凛はフィアスの腕を引いた。鉄階段を下って、救護室にたどり着く。白い倉庫に大量に敷き詰められた段ボールの中から苦労して採血セットを見つけ出し、凛をソファに座らせた。
 ワンピースの袖をたくしあげる。細い腕はシミも産毛もなく、関節も小さい。
 できる? と不安な顔で尋ねられ、フィアスは頷いた。戦いの過程で大半の医療処置は覚えた。採血は初めてだが、過去に輸血用血液を使って他人に輸血を施したことがある。うるさい銃声があちこちで轟いていたアフリカ傭兵ようへい時の出来事だ。採血の方法も知識として頭の中に入っている。
 白い腕に浮かび上がる血管をなぞりながらフィアスは言った。
「わざわざ二人きりになったのは、理由があるんだろ?」
 凛は何も言わない。腕から目を逸らして、小さな歯を食いしばっている。話しが出来る状態ではなさそうだ。
 フィアスは腕に視線を⁠戻す。彼女の血脈は全体的に細く、採血に適した一本が見つからない。腕をきつく縛っても血管は太くならず、針を刺すのに苦労した。
 凛は緊張に身を固くしながら挿入の瞬間を待っていたが、いざ採血を始めると目を開いた。
 凝視の眼で管を流れる自分の血を見ている。刺す瞬間は見られないが、傷つけられない形で流している血を見るのは興味深いらしい。科学館の実験装置で遊んでいたときより、少しだけ真面目な観察眼を向けている。
 同時にこわばっていた身体が安堵に弛緩するのを、握っていた腕を通してフィアスは感じた。
「ホルダーを変える。……30ml程度で良いかな」
「ねぇ、身体の方はどんな感じ?」
「顔色は良好。刺し傷は内出血を起こす可能性があるけれど、一週間程度で消えると思う。気分は?」
あたしの気分は順調、と凛は答える。好調と言ってもいいくらい。
「貴方はどうなの?」
「俺?」
「あたしの血を見て、何か感じない?」
長い管と血液を溜めるためのホルダー。どちらとも凛の血で真紅に染まっている。フィアスは凛の顔を見て、管を見て、ホルダーを見た。
 血だ、と感じた。
 それ以上でもそれ以下でもない。
「他には?」
「特に何も……」
「身体的な変化はない? 何かこう……興奮するとか。居ても立っても居られなくなるとか」
「ご期待に沿えずすまないが、俺はそういうタイプの殺人鬼じゃない。バンパイアでもないから、腹も減らないし」
凛は少しだけ笑った。
 駆血帯くけつたいを解いて針を抜き、採血後の処置をする。
 具合を尋ねると、特にとる前と変わらないとの答えだ。
 患部を押さえつけては白い綿を取り外し、止血が完了したかを確かめている。
 次は俺の番か、とフィアスは思う。新しい採血キットが机に乗っている。これを使って自分で自分の血を取る……というのは、かなり難易度の高い器用さが求められる。
 シドを呼ぶために携帯電話を取り上げると、凛は言った。
「あたしが取ってあげる」
「いいよ。出来ないだろ」
「失礼だけど、貴方より上手よ。彩と二人で練習したもん」
話を聞くと、二人でいたときに様々な医療措置を試してみたようだ。採血から医薬注入、応急処置まで。
 何でそんな練習をしたのかと尋ねると、答えは少し悲壮だった。
「他人に刺されたくなかったから」と凛は言った。<サイコ・ブレイン>にいたとき、身体検査が度々行われた。彼女たちは科学者のシステマティックなやり方に嫌気が差し、自分たちで出来ることは可能な限り自分たちで行った。採血もその一つだったと言う。
 科学者の監視の前で、姉妹の二人はお互いの血を抜き取って差し出した。
 自信ありげに断言した通り、凛は手際が良かった。駆血帯でフィアスの腕をしばると、アルコールを塗った皮膚の下から目立った血管の一つを見つけ出して針を刺した。あっという間に細い管を血液が流れ始めた。
 彩がいなくなった後は一人で出来るようになったのよ、と血を採りながら凛は言った。太い注射針を自分に向けて、淡々と血を抜くの。久しぶりに針を刺されて怖がってしまったけれど、本当は一人でも出来るのよ。
「あたし、血を見るの好き。生命が流れてるのを感じる」
「君は看護師に向いてる」
「そうかも。弾丸を取り出すのも得意だし」
ふふふと笑いながら、ホルダーを付け替える。
「このまま三リットルくらい採っちゃおうか」
「そんな死に方は嫌だ」
 くすくす笑いながら、凛は針を引き抜いた。お医者さんごっこはおしまい、と告げて脱脂綿を押し当てる。血を見るのが好き、と言った通り、フィアスが止血をしている間も、採取した血液を光にかざして眺めていた。まるで発掘したての宝石を眺めるように。
 性格のサディスティックさが眼差しに表れている。血の名がついた我が組織の称号を譲ってあげたいくらいだ。
 げんなりした視線に気づき、「失礼なこと考えてるでしょ」と凛は静かな声で茶化す。
 それから間を置いて、思い切ったように切り出した。
「後天遺伝子が、この中に入っているんだなって思っただけ」
 後天遺伝子。彼女の口からその名前を聞くのは初めてだ。フィアスは微かな抵抗を覚えた。
 凛が二人きりになりたがった理由がふっと頭に浮かんだが、その考えを否定した。
 いつも通りの平坦さで「そうだな」と答える。
 凛はフィアスの血液を手にしたまま、ソファに腰かける。テーブルの上には採取した血液が三本、細いボトルに詰められて置いてある。二人で二本ずつ。フィアスはめくっていた袖を元に戻した。向かいのソファに座る彼女を見つめる。
 言葉を選ぶように、慎重に凛は言った。
「あたしの血液も普通の人とは違う。そして貴方の血液も一般人とは一線を画している」
ホルダーに入った赤い血を見つめる。
「だいたいの人間は四種類。あたしたちは五種類目と六種類目」
「そうでもない。遺伝子が特殊なだけで、輸血は出来ると思う」
「貴方は何型?」
「AB型」
「あたしA型。真一くんはO型だって。これじゃ輸血できないわね」
凛はくすりと笑う。その笑いがこそばゆく感じる。本題という円の中心を雑談がなぞっている。
 後天遺伝子、とフィアスは頭の中でその言葉を反芻する。先ほど聞いた彼女の声で。
 胸がさわめく。上階から誰かが割り込んでくれば良いと思うが、真一は実験装置で気を紛らわせているし、シドは断りを入れた手前、採血の間はやって来ないだろう。
 かつて凛は言っていた。
 貴方が困ると、あたしはもっと困るのよ。
 彼女は、この不自然な会話が恋人を追い詰め、困らせていると感じたらしい。
 単刀直入に聞くわね、と断って彼女は言った。
「この血液の中に入っている、後天遺伝子のことを知りたいの」
「後天遺伝子のことを?」
「そう。あたしのために黙ってくれていた秘密。その秘密を、⁠フィアスの口から聞かせてほしい」
 続け様に凛は言った。
 あたしの覚悟は出来ている、と。