後天遺伝子を使うと、五感が鋭利になり、戦闘力が高まる。
 この遺伝子は父親に注入され、ネオに覚醒させられた。
 使用後は神経系の回復のため、三時間の深い眠りにつく。
 ドイツにいる科学者が研究しているそうだが、彼らについては俺も詳しくない。

 淡々とした説明を受け、凛は唇を噛んだ。膝に乗せた手がプリーツスカートの裾をぎゅっと握る。
 フィアスは二人の前に転がった赤いホルダーの一つをつまんで、元に戻した。扇状の軌跡きせきを描いて、ホルダーがわずかに転がった。それはチェスの駒に見えた。何の変哲もないポーンの駒に。
 そう、と凛は言った。その声は静かに震えていた。
「貴方の知っていることはそれだけ?」
「そうだ」
「その優しさは、あたしのため?」
心臓を突くような痛みが走った。フィアスは顔色を変えなかった。その痛みは幻想か精神的なものだと感じたからだ。
 したがって、痛みが走った場所も心臓ではない。
 膝の前で手を組んだ。その質問に答える気はない。これ以上の愚問はない。しかし、凛は唇を噛み締め、答えを待っていた。三分の沈黙で折れて、仕方なく答えた。
 君のためだ。
 そして、動くはずのない血液ホルダーを見つめた。
 採取した血液を適する形で保存しなければならない。遠心隔離器に掛ける必要があるだろうし、四日以内にドイツに届かなければ血小板は劣化する。
 フィアスは血液ホルダーに伸ばしかけた手を、考え直して引っ込めた。指を組み合わせ、膝の前に置く。祈るように。あるいは守りを固めるように。
「あたしの覚悟は、傷を受ける覚悟よ」と凛は言った。
「あたしを信じて。あたしを傷つけて」
 フィアスは灰青色の目を見上げた。目前には光の宿った黒い瞳。その顔は笑みさえ浮かべている。
 彼女は今、優しさではなく真実を欲している。科学館の実験装置についた淡々とした音声案内ではなく、生の言葉を欲しているのだ。
 ……仕方ない。
 組んだ両手を解いて息を吐く。
 目を閉じて、ゆっくりと告げた。
「後天遺伝子を発動させると赤い目になる。真一の事務所で起こった、テロ事件の犯人と同じく。最初は、トランス状態に陥って精神的高揚を感じる。しかし、使い続けると反動が起こる。恐怖が心を支配し、錯乱状態に陥る。恐ろしい幻覚を見るようだ。そうなると、人間の言葉は届かない。獣の本能にしたがって、動くものを殺しながら、死ぬまで生きる」
 赤目たちとの戦いの中、観察した結果を凛に伝える。
 この一ヶ月で、様々な段階の獣たちと戦った。楽しげな笑い声を立てる獣、泣きながら銃を乱射する獣、喜怒哀楽を失ってヒトの動きを追うだけの獣。
 段階症状の全てを見て、全てを殺した。
 話をやめて、凛の顔を伺う。黒い瞳に灯っていた光は少しずつ輝きを失い、暗闇に吸い込まれてしまった。光を失う過程を見ていたら、途中で話をやめざるを得なくなっていた。
 とてもじゃないが、こんなに深く傷つけられなかった。
 受け止めた内容を咀嚼し、反芻し、感情を伴わせる時間が必要だ。フィアスは机に散らばっていた血液を集める。二人で二本ずつ採った赤色の保存瓶。フィアスの一本は、凛が握っていた。差し出した手に、彼女は気づかなかった。手を開いて、微かに温かい保存瓶を取り出した。
 少し待ってろ、と言いおいて鉄階段を登る。
 シドと真一は対戦要素のある実験装置を使って、科学的なバトルを繰り広げていた。大の大人が子供用のハンドルをぐるぐる回して盛り上がっている。ネオ抹殺の前祝まえいわいか? と皮肉を告げると、シドは大声で笑った。やけくそだ、と笑って言った。
 フィアスは保存瓶をシドに渡して、採取後の処理を任せた。
 部屋に戻ると、凛は胸に手を当てて、大丈夫大丈夫、という言葉を呪文のように繰り返していた。再びソファに腰かけると、黒い目でフィアスを見つめた。
「後天遺伝子を、使うとそうなる」
「ああ」
「使わなければ良いだけ」
「使わなければ、赤い目のやつらに殺される」
「守りを固めて、ドイツの科学者が、謎を解明するまで待ちましょう」
凛がすがるようにフィアスを見た。
「ねえ、そうしましょう?」
「残念だが、時間がないんだ」とフィアスは答えた。
「赤目たちの集団テロがいつ巻き起こるか分からない。赤目を食止めていたフィオリーナも窮地きゅうちに追い込まれてしまった」
「フィオリーナが?」
「謎めいた連絡だから、詳細は分からないが」
「フィオリーナが……窮地……」
凛は掠れた声で、その言葉を反芻した。受けた心の傷が、付け足した情報によってどんどん広がってゆく。
 ショックとともに傷口が広がり、新たな現実認識とともに定着する。
 自分たちはとても不利な状況にあるのだと。そして、恋人は死の方向へ爪先を向けているのだと。
 しかし、凛は質問を止めなかった。
「ネオはあたしが必要なんでしょ。あたしが表に出て、ネオと交渉するのはどう?」
「それも難しい。あいつは後天遺伝子の複製方法を見つけてしまった。赤い目の兵隊たちを作り、テロを起こすという戦略をとった時点で、先天遺伝子の子孫を残すという本来の目的は、優先度の低いものになっているはずだ」
「簡単に、乗り換えるんじゃないわよ……」
ぐっ、と凛は唇を噛んだ。すぐさま黒い目に光が灯り、両拳を握りしめて意気込む。
「後天遺伝子を使わなくて良い方法を考えましょう。きっと何かあるはずよ」
そうだな、と言いかけた言葉を飲み込む。
 今まで話した問題のすべては氷山の一角。本質はそこじゃない。
 あたしを信じて。あたしを傷つけて……その言葉を信じるなら、さらなる傷も受け止めてもらわなくてはならない。
「生き残るつもりはない」
えっ、と凛は聞き返した。
 何を言われたのか分からない顔で。あるいは聞き違いを正すような顔で。
「この戦いで俺は死ぬ」
「ちょっと待って……」
「体感的に、あと一回。あと一回使えば、理性を失って獣化する……俺は、恋人や友達を殺したくない。君を手にかけたことも分からずに、のうのうと生きる獣になんてなりたくない。俺の仕事はネオを殺すこと。そしてネオを殺した後、人生最後の仕事として、人間性を保った俺を殺す」
 心の内の静けさとともに自身の計画を伝えながら、フィアスは考えた。
〝後天遺伝子は先天遺伝子を駆逐する〟。
 それがルディガーの後天遺伝子の定義。
 ……それなら俺は、父親のさだめたこの定義に、一文をつけくわえる。

 後天遺伝子は先天遺伝子を駆逐する。
 そして、後天遺伝子をも。

 凛を傷つけた。慰めの余地もなく。
 強がりな態度と裏腹の、繊細な心に深い傷を入れた。
 信じることは傷つくことだ。
 打ちひしがれた彼女を見て、フィアスは思った。
 信じなければ傷つかない。彼女の猜疑心は自己保身のために育まれ、弱い心をくるんでいた。それをわざわざき出しにして、深い痛手を受ける覚悟を決めた。蒼白した顔は、心に受けたダメージがどれだけ大きいかを示している。小さな手が胸の前でぎゅっと握り合わされた。
 悲鳴や泣き声は、放たれそうで放たれなかった。
「それは、駄目……」掠れた声が聞こえた。
「絶対に、駄目よ」
「もう十分だよ」とフィアスは言った。
「君は取り戻させてくれた。恐怖心や、喪失感、冗談や、ぶつかり合い。面倒なことも、楽しいことも……アヤとともに死んでいた人間らしさが、リンと触れ合うことで戻ってきた。とても価値のある半年間だった。俺は、人を傷つけたり、傷つけられたりする生き方しかできなかったけれど、これだけは言える。間違いなく、この人生は歩む価値のあるものだった。それは、最後の最後で、君に出会えたからだ」
「勝手なこと言わないで!」凛はぴしゃりと言った。
「あたしも貴方もここにいる。ここにいて、まだ生きてる!」
「そうだな。遺言には早かったな」
フィアスは懐から煙草を取り出そうとしたが、震える手がポケットの中でライターを取り落とした。たとえ取り出すことが出来ても、この部屋は禁煙だ。煙探知機がある。
 仕方なく、膝の前で両手を組み合わせた。
 恐怖は後からやってくる、とフィアスは思った。
 恋人を傷つけてしまった恐怖。その傷がどこまで深く届いているか、確かめることが怖かった。
 彼女が受けた傷は自分が生き続ける限りずっとうずく。「恋人がいつかいなくなる」という恐怖によって疼き続けるだろう。
 癒されることもなく古びることもなく、心の傷は生き生きとした血を流し続ける。
 生傷を持ち続けることが、どれほどの痛みを伴うのか忘れてしまった。
 後天遺伝子が覚醒してから傷口はすぐに塞がる。数秒から数時間で完治する。初めから、そこに傷などなかったかのように。
 心どころか現実的な痛みとして、感じ取ることが出来ない。既に人間の身体ではないのだ。
 フィアスはソファに腰掛けながら、黙した恋人から発せられる言葉を待つ。
 今の自分にできることは何もない。
 その傷を受け入れてもらうまで、静かに待つことしか。

 当初の計画では、後天遺伝子の秘密を知らせることなく戦地へ赴くつもりだった。無事に帰ってくるからと、彼女をなだめすかして計画を実行する予定でいた。
 「戦死」という訃報が届けば、彼女はそれなりのショックを受ける。しかし、その後の人生を、どうにかうまく立て直す。彩を失った自分が――生き方はどうであれ――ここまで生き延びることが出来たように。
 おそらく彼女も、なんとかその事実を乗り越えて、新しい日常へと馴染むことができるはずだ。
 ネオのいなくなった、平々凡々たる日常を。
 凛はあちら側・・・・に行き、平穏な暮らしをスタートする。
 出だしは遅くとも、普通の女の子として、万人の一部として、生きることができる。
 過去の傷は別の恋人に癒してもらえば良い。
 たとえ誰かに癒されなくても、古傷として時間の流れとともに薄まっていく。
 この別れ方が、凛の今後の人生において最良の選択だとフィアスは考えていた。
 それも、真実をつまびらかにした今となっては、想定した通りの人生がもたらされるか怪しい。
 自分がつけた傷痕は、果たして古傷となり得るのだろうか……。

 長い時間が経った。
 凛は同じ体勢を取ったまま、一言も喋らない。
 何かを真剣に考えているようでもあり、放心状態が続いているようでもある。
 仕方なく、声をかけた。
「大丈夫か?」
 うん、と凛は頷いた。背後の白い壁に埋れてしまうような小さな声で。
 それからさらに長い時間が経ち、凛は言った。
「貴方の気持ちはよく分かった……すごい傷つけ方ね」
「ごめん。謝ることしかできない」
「謝らないで。これは、あたしが望んだこと」
この傷はあたしの問題、と自身に言い含めるように凛は言った。
「戦いに行くのはいつ?」
「まだ決まってない。敵の拠点も分かっていないんだ。早く見つけ出さないと……」
 あるいは、とフィアスは言いかけて、顎に手を当てる。
 あるいは、フィオリーナの仲間が連絡してくるかも知れない。
 コンとヨン。表裏一体の不思議な二人組。
 彼女たちは生き延びて、不穏な知らせを送りつけてきた。しかるべき時に、続報が届くかも知れない。
「まだ、残り時間があるということね」
「そうだな……変なことを考えないで欲しいんだが」
「全然、思いつかない」と凛は正直に打ち明けた。
「悔しいけれど、思いつかない。出掛ける寸前のフィアスを殴って気絶させちゃうくらいしか思いつかないわ」
「それは難しいな。俺は普通の女の子より、少しだけ強いから」
「そうね。少しだけね」
凛は微かに笑んだ。
 ソファから立ち上がると、フィアスの前に小指を差し出す。貴方の前から黙っていなくなった、あたしが言える立場じゃないけれど……と前置きして言った。
「黙っていなくならないで」
「分かった」
「ちゃんと知らせて」
「約束する」
 小指と小指を絡める。指切りげんまん、と微かに手を振る。
 一滴の涙が瞳から溢れ、二人の指先を滑った。彼女が流した涙はその一滴だけだった。
 悲しむ顔も苦しむ顔も見せず、凛は手の甲を拭った。