凛と別れた後、真一は再び部屋に戻った。布団に寝転んで、先ほど起こった色々なことを咀嚼そしゃくしようと考えた。しかし、呆気なく眠気に誘われた。
 十時半ごろに、携帯電話の振動で目を覚ました。寝ぼけ眼でディスプレイを見ると、フィアスからメッセージが入っていた。「14時 アジトに行く。同行願う」簡潔な文章へ、反射的にOKの絵文字を送り、再びとろけるような眠りに落ちた。
 アラームをセットしなきゃ、という考えが脳裏をよぎったがすぐ忘れた。お好み焼きの夢を見ることもなくぐうぐうと眠り続け、再び携帯電話の振動で起こされた。はっとしてディスプレイを見ると、約束の時間から十五分が過ぎていた。
 寝過ごした! と焦りながら電話に出る。発信先はフィアスだったが、電話からは凛の声が聞こえた。
――真一ちゃーん。朝よぉ。起きなさーい。早くしないと、アジトに遅刻しちゃうわよぉ。
 間延びした猫撫で声が、途中からクスクス笑いに変わる。
 あーこれは例のやつか、と真一がひらめくと同時に凛は答えた。
――モーニングコール その2。お母さん風。真一ちゃーん。早く準備しなさぁい!
 軍隊風とは大違いだ。変に甘ったるくて優しい声。凛の考えるお母さんのイメージ像ってこんな感じなのか、と思いながら遅刻をび、身支度を整える。
 十五分後、駐車場に到着すると既に二人は待機していた。三十分の遅刻をとがめられるかと思いきや、そうでもない。後部座席の凛は上機嫌に手を振ってくるし、運転席のフィアスもいつも通りの平坦さだ。
 真一が助手席に乗り込むと、すぐに車が発車した。
「新しいアジトってどんなところ?」
後部座席から凛が尋ねてくる。
 真一は前回の訪問で目にしたものを雑談程度に伝える。
 科学館、と聞いて、凛は目をキラキラさせる。科学館なんて行ったことない。すごく楽しそう! と遠足気分だ。
 フロントミラーで後部座席を伺うと、凛は明け方の軍隊風の衣装から着替えていた。今度は水兵風……というより、セーラー襟のついた丈の長いワンピース姿。可憐なファッションに合わせて、メイクも青を基調とした落ち着きのあるトーンに変わっている。
 紺色のプリーツスカートの上に乗っているのは、小さな段ボール箱。
 何が入っているのかを尋ねると「使用済み下着」と答えが返ってきた。
「一人寂しくアジトで暮らしているシドへのプレゼント……うらやましい?」
最後の言葉はフィアスに向けられている。運転席から、はいはい、と適当な返事が返ってくる。
 おそらく、箱の中身は凛の言う通りだろう。下着でなくとも、彼女のにおいがついたなんらかの衣類。ドイツの研究所へ送るサンプル品だ。
 早朝の話し合いで、凛は言っていた。
「フィアスが起きたら、アジトに連れて行ってもらう。善は急げって言うでしょ。輸送はシドに手配してもらいましょう」
 指先で段ボール箱を叩きながら、凛は鼻歌を歌っている。
 街中で耳にするラブソングのメロディーを、ふんふんふーん、となぞっている。
 通話した時に気づいていたが、明け方と変わって上機嫌だ。深夜の赤目退治についてはどう転んだんだろう。戦争は? 冷戦は? 修羅場は? ……自分が寝入っている間に起こったであろう、様々な出来事を予想しながら、運転するフィアスを見る。
 こちらの視線に気づくのは彼の鋭利な五感のおかげだ。目から様々な情報を読み取るのは、学者肌の知性の賜物たまもの。真一が何を語らずとも、言いたいことの大半を理解してフィアスは頷いた。それから凛に聞こえない小さな声で「怖かった」と答えた。
「怖かった。リンをなだめるのに二時間かかった。詳しい話はしたくない……トラウマだ」
「そ、そうだな。この話はやめよう」
「深夜の行動もやめざるを得ない。別の方法を考える」
「凛も納得する、危なくない方法で」
 難題だな、と暗い返事が返ってくる。
 昼の現場観察は警察に怪しまれる。深夜の銃撃戦は凛に咎められる。
 他にどんなやり方があるというのか。
 出現する赤目はフィオリーナが一掃してくれるが、現場を押さえられないのはかなりの痛手だ。
 ただ、凛の気持ちもよく分かる。戦場に相棒を送り出すとき、真一の心も不安だらけだ。女神の守護に包まれているとは言え、運悪く流れ弾に当たらないとも限らない。今夜こそ今生の別れになるのでは、といつも心配していた。
 凛が止めに入ってくれて、良かったのだ。
「においのことは知ってる?」と真一は尋ねる。
「その話か……」とフィアスはうなだれる。
 ポーカーフェイスが揺らいで、スーツの袖で口と鼻を隠す。衣服についた香水がふわりと真一の鼻を掠める。柑橘系ではない、アーモンドと樹木が混ざった男ものの香水の香り。体臭のように染みついた自分の匂いを嗅いで、羞恥しゅうちの波が鎮まるのを待っているようだ。
 彼を横目に見ながら、そんなに恥ずかしいことかな、と真一は思う。理屈で説明のつかない変な行動をすることが。
 酒に弱い真一は、普段は飲酒をしない。ごくたまに地元連中の強烈なすすめで飲むくらいだ。
 すると一、二杯ですぐ記憶が飛び、正気に戻った翌日に妙なことをやらかしている。周囲の証言では、居酒屋の軒先で踊り始めたり、ゴミ捨て場で眠り始めたり、野良犬や野良猫と会話しているらしい。
 今までに何度か経験して、その行為をたしなめられたこともある。しかし、だいたいの仲間は真一の性質を理解して許してくれる。むしろその行動を期待して、同窓会や地元の集まりに呼ばれるくらいだ。
 優しい女の子が同席していると介抱してくれるし、度を越さないように古馴染みが目を光らせてくれるので大事には至っていない。事件性がなく、周囲が面白がってくれるならそれでいいかと真一は思っている。性質の一つだと捉えているので恥ずかしさも感じない。
 しらふの方向音痴も理屈で説明のつかない変な行動の一種だ。治そうとしても治らない。これもあははははーっと笑って済ませてきた。困っているとだいたい周囲の人たちが助けてくれる。結果オーライ、最後に上手くいくならOK、というのが真一の持論だ。
 フィアスのように理性優位の人間は大変そうだ。行動の一つ一つを細分化し、把握しなければ気が済まない。行動と思考が矛盾する行いは、耐えがたいものがあるのだろう。悶絶もんぜつしそうになったときは、あははははーって笑い流しておくと楽だよ、と教えたくなる。教えたところで実践してくれるとは思えないが。
 しばらくして、フィアスは聞いた。
「マイチはどこまで知ってる?」
「言いづらいけど、全部かな……」
「そうか。もういい。開き直ることにする」
 開き直って、フィアスは言った。無自覚の行動のすべてを凛に聞かされた、と。
 深夜、彼女の部屋に行き、身体のにおいを嗅いでいる。自由奔放じゆうほんぽうな犬みたいに、好きなにおいを好きなだけ嗅いだあとその場で眠り込む。それが夢遊病に近い行動のすべて。
 凛の怒りを鎮めた後で、今度は自分の中で火が燃えた。怒りじゃなくて、羞恥の炎が。
 夢遊病について、凛が調査していることも聞いた。アジトに向かっているのは、今後の方向性についてシドと相談するためだが、彼女の実験に力を貸すためでもある。
 事情を聞いた真一は、ふう、と安堵の息を吐いた。
 全員に情報が行き渡っているのなら、心置きなく話ができる。
 凛のにおいがフィアスに影響を与える。二人の何かがにおいを通じて反応している……ただし、凛の仮説についてフィアスは懐疑的だ。彼女の怒りを鎮めたあとで、謝罪の意味も含めてアジトに連れて行くことにしたが、果たしてその実験がドイツにいる科学者にとって有益なものとなるのか疑わしい、というようなことを小声で告げた。
「まあ、リンの好きなようにすればいい……逆らうと、怖いし」
 何か言った? と⁠⁠背後から明るく尋ねる声。
 二人は肩を震わせた。


「今日は凛も一緒なんだな」とシドは明るい声で言った。
「久しく顔を見なかったが、元気そうで何よりだ」
「シドは疲れてそうね」
ははは、と疲れた笑いで答えるシド。それもそのはずだ。朝も夜も横浜市内を見張り、深夜の銃撃戦では空の目からフィアスに指示を出している。彼は桃太郎の雉役なのだが、龍頭軍曹の怒りに巻き込むのは気の毒だ。
 真一はいつもの優しさで黙っていることにする。
 凛は感嘆の声をあげて実験装置を見て回る。
 小学生の頃、真一はこの科学館に来たことがある。社会科見学の一環として、授業の最中にやってきた。横浜市内の小学生のほとんどは、この建物を見学したことがあるのではないだろうか。学校教育を受けずに育った凛を除いて。
「ちょっと待ってろ」と言い置いて、シドは地下へ潜った。
 しばらくして、一階の実験装置に電力が走った。黒く沈んだ空間が、豆電球やネオンライトの明るさに彩られる。きゃっきゃとはしゃぎながら、凛はスイッチを押す。透明なケージの中にある赤い玉が浮き上がった。その仕組みは分かっていないが、楽しそうだ。遊園地にきた子供のようにはしゃいでいる。
 彼女の新鮮な反応は、見ている者の心を和ませる。
 不思議なものや楽しいものをもっと見せてあげたくなる。
「女の子は笑顔が一番だな」とシドはオヤジくさいことを言う。
 確かにそうだな、と真一も頷く。彼女の場合は特にそうだ。
 シドの隣で遠巻きに凛を見ていたフィアスが、両手をポケットに入れた。
 それで、とフィアスは言った。
「何かあったんだろ、シド?」
「よく分かったな」と大男も唇だけを動かして答える。
その会話を聞いて、真一は思わず二人を振り返りそうになったが、「そのままでいろ」と制された。
「この部屋に漂うにおいの中に妙なものが混じっていた。揮発性きはつせいのつんとするにおい。ガソリンとは少し違う」
「テレピン油だ。昼に一枚の絵が送られてきた」
 見てこい。応接室にある、と静かに伝え、凛の元へ歩き出す。二人を隠すように、大男は装置の説明を始める。真一とフィアスは階段を降り、一層下の応接室へ向かった。
 入ったことのないその部屋は、二脚のソファが差し向かいに置いてあるシンプルな一間だった。応接室を絵に描いたような応接室。椅子と椅子の間にある長机の上には応接室の絵ではない絵が置いてある。
 かなり大きい。ちょっとしたデスクトップパソコンくらいの大きさだ。一枚目の風景画と同じように布張りはしていない。プレートに似た形状のキャンバス地。絵を拾い上げたフィアスの背後で真一も絵を見た。
 キャンバスには何も描かれていなかった。少なくとも物体のようなものは。記号や抽象的な図形も描かれていない。
 そこに描かれていたのは、赤――血のように真っ赤で、ムラのある赤色が一面に塗り込まれていた。血溜まりの一部を切り取ったかのように。
 見る者に「血」と「死」を連想させる、そのモチーフは的確だった。フィアスは絵を仔細に眺めた後、顔を近づけてにおいを嗅いだ。
「血液は混ざっていない。油と絵具に使われる化合物のにおいだけだ」
そう言って、真一に絵を渡す。細かく観察する必要もないほど真っ赤な絵だったが、一応隅々を見回した。使用画材は前回とは違う。油彩画のようだ。黒ずんだ真紅のムラ。
 この絵から感じ取れる情報は少ない。
「今度も眠くなんないな」と真一は言った。
「これもあの婆さんが描いたのか? 婆さんというか、女子高生というか」
「おそらく。警告、報告……あるいは、救助信号。フィオリーナ側に進展があった」
「それも、良くない進展だな」
フィアスは重々しく頷く。思考を始めようと顎に当てかけた手を止めて、上階を見上げる。
 ひとまず一階に戻ろう、と促されて真一は部屋を後にする。不穏な絵は元の場所へ、元の置き方に近い形で置いてきた。
 一階に戻ると、凛は興味津々にプラズマ発生装置へ手を近づけているところだった。楽しげにシドと会話を続けている。
「お前も遊んでこい」
先ほどと同じ場所に立ち、フィアスは言った。懐の煙草をまさぐりながら、一階が禁煙かどうかを確かめている。天井に取り外されていない煙探知機を発見すると、渋々懐から手を出してポケットに突っ込んだ。
「赤一色の不穏な絵画を見つけましたって、顔に書いてある。科学実験でもして、適当に気を紛らわせて来い。その間に、俺とリンで用事を済ませてくる」
真一は黒い壁を鏡代わりに、自分の頬を引き延ばしたり引き下げたりする。頑張って表情筋をいじくりまわし、元に戻った顔は「赤一色の不穏な絵画を見つけました」と訴えている。
 どうやら、友人のアドバイスに従った方が良さそうだ。
 シドとわずかな視線のやりとりで、簡単な会話を済ませたフィアスは装置の一つを指差した。
「行け、マイチ。テスラコイル、好きだろ?」