初めは夜這いにきたのかなって思った。いちゃいちゃしたいのかなって。
 彼がぎゅっと抱きしめてくるから、こっちも嬉しくなっちゃって、貴方がしたいことなんでもしてあげるって言ったの。
 それで「色々」したあとで、倒れちゃって。名前を呼んでも、体を揺すっても、無反応。まったく起きなくなっちゃったの。呼吸もしてるし、身体もあったかい。
 熟睡しているように見えるんだけど、何をしても起きない。
 彼が目覚めるときは、いつも夜明け。びっくりして飛び起きる。〝なんで俺はここにいるんだ〟〝意味がわからない〟って混乱して、ごめんって謝りながら部屋を出ていく。それ以前の記憶がまるでないのよ。倒れる前にあたしを抱きしめて「色々」していることも知らない。
 最近はもう慣れっこになっちゃって、〝あ、また来た〟ってこっちは対処しているんだけど。

 そこまで話して、凛は息をついた。
 部屋を出た後、二人は縁側へ向かった。仄明るい光が差し始めた縁側で膝をつき合わせ、事情を伺った。
 話によると、これまでに六回、同じ騒動が起こっているようだ。
 凛はフィアスが部屋に来た日をメモしていた。照らし合わせたところ、すべてが深夜行動の日付と合致していた。
 つまりフィアスは赤目を殺した後で一旦は自室で眠りにつき、その後無自覚の状態で彼女の部屋に侵入している。そして、彼女と「色々」したあとで眠り込む。
「あ、あのさ……色々ってなに?」
おずおずと真一は聞いた。凛は「色々」したとあっさり打ち明け、事情説明に重きを置いている。聞いて良いことか判断がつきかねるが、「色々」の内容がとても気になる。
「色々」というのは、その名の通り「色事」なのか。
 うーん、と凛は腕を組んだ。当事者であるにも関わらず、煮えきらない様子だ。
 辛うじて「いちゃいちゃしていないと思う」と答える。
「思うってなんだよ。はっきりしないなぁ……まあ、深くは聞かないけど」
「いいえ。これは、大事なことだから話す」と凛。
「色々の内容はね……くんくんするの」
「くんくん?」
「そう。くんくん。においを嗅ぐの。こんな風に」
凛は真一を両手で抱きしめ、首筋に顔をあてる。
 そしてくんくんとにおいを嗅ぐ。首と、肩先と、顔の周りと、胸の周り。
 きれいな女の子に密着されて、真一の心臓は飛び上がる。
 凛は深く考えずに昨晩の再現を行なっているに過ぎないのだが、こんなところを誰かに見られたら大問題だ。横目に辺りを見回すと、笹川邸を背後に立つ黒服が遠くに見えるだけだった。
 分かった、分かったから。もういいよ。真一がストップを掛けて、ようやく凛は身体を離した。
 柑橘系の香水が鼻先をふわりと掠める。良い匂いだ。確かに部屋に侵入してくんくんしたくなる香りではある。
 凛は不安そうに真一を見上げる。
「分かった?」
「分かった。十分に分かった。それをアイツがやるわけね」
「そう」
「匂いフェチだ」
「もう、違うのよ! 可愛いフェチズムの話じゃないの。なんというか、もっと必死な感じなの。例えるなら、あたしのにおいが酸素になって、くんくんしないと呼吸が出来ないっていう息苦しさを感じる。そうしないと居ても立っても居られないような」
「ただの変態だ」
「もー! 違うってば!」
凛はムキになりながら「ちゃんと検証したのよ、あたし!」と訴えるように腕を振りまわす。
「香水とか石鹸の匂いに惹かれているのかなって思ったから、茜ちゃんにも同じ石鹸を使って寝てもらったの。彼女の部屋にも、あたしの香水を振りまいてね。コスメティックスに惹かれているのなら、同じ匂いのする茜ちゃんに襲いかかってもいいはずでしょ」
「そんな実験したのかよ。未成年淫行罪で逮捕されるぞ。茜に」
「でも、そうならなかったでしょ。彼はあたしの部屋にだけ来るのよ。ふらふらと迷い犬みたいにやってきて、身体についているなんらかのにおいを警察犬みたいに嗅ぎ取るの。で、満足したら眠っちゃう。名前を呼んでもビンタしても起きなくなっちゃう。きっと、何かが反応しているのよ。あたしの中の何かと、彼の中の何かが」
うーん、と真一は頭を掻く。においで反応。そうなのかなぁ。
 仮に凛のにおいがフィアスの何かに反応しているとして、どうなる? 何がもたらされるというのか? リラックス効果? 安眠効果? お好み焼きの匂いを嗅いだときのように、腹が減ったりするとか?
 凛の仮説はなんとも言えない。しかし、彼女の部屋に来る日付が、深夜行動と合致していることは興味深い。赤目と戦った後のフィアスは凛の部屋にきて、彼女の匂いを嗅ぐ。そして寝入る。無反応の入眠状態に陥ってしまう。
 そう、無反応の眠り。
 あの眠りは、かつて目にしたことがある。

 ――もう少しで、俺は倒れる。
 ――詳しいことは、目覚めてから話す……三時間後だ。

 フォックスとの戦いの後、フィアスは赤い目で真一に告げた。そして深い眠りに落ち、三時間目を覚まさなかった。
 あれは「意識の断絶」とフィアスが呼んでいた睡眠だ。後天遺伝子を使うと各神経器官が過敏になるらしい。極度のトランス状態に陥り、戦闘力が倍加する。その極限状態を元に戻すために、三時間の休眠を要すると言う。
 「意識の断絶」が、凛のにおいとともにもたらされている。赤い目になっていないにも関わらず。
 そう、深夜の赤目退治でフィアスは赤い目になっていない。帰りの車内で目にする瞳は灰青色のままだ。真一はフィアスが赤い目にならないかと逐一気を配っているが、フォックス戦以降、一度も後天遺伝子の力を発動させていない。これは絶対だ。赤目と戦っている最中も、獣化のリスクをともなう諸刃の剣を安易に使用するとは思えない。もし使用すれば、三時間の「意識の断絶」がやってきて動けなくなる。今のところ、そんなイレギュラーな事態は発生していない。
 銃撃戦はせいぜい二時間程度で、行きも帰りもフィアスは起きている。帰りは疲れ切っているが、それでもぽつぽつと会話はできる。赤目たちとはノーマルな状態で戦闘を行なっていると見て間違いないだろう。
 それなのに、なぜ?
 茜の部屋に香水を吹きかけたり、フィアスの部屋に行って添い寝をしたりと、様々な検証を行ったらしい凛は、彼が眠りに就いてから覚醒するまでの時間も測っていた。
 その時間は、一時間半だった。
 後天遺伝子が発動し、「意識の断絶」から目覚めるまでの半分の時間だ。
「ぴったり一時間半よ」と凛は確信を持った口ぶりで言った。
 ううーん、真一は益々深く首を捻る。
 アイツの中で何が起こっているんだ? 皆目見当がつかない。
 しかし、この奇妙な謎を謎のままに残しておくわけにいかない。
「餅は餅屋だ」と真一は言った。
「ドイツの遺伝子学者に連絡して、この謎を解明してもらおう」
ちょっと待って! と猫の目が鋭く光る。ドイツの遺伝子学者って何!? とまた詰問が始まりそうな雰囲気だ。
 さらさらと聞き知ったことを説明すると、凛は怒りを通り越して溜息をついた。
「共有していない情報が多すぎ。あたしばかり置いてけぼり……いつも仲間外れ」
うっ、と真一は言葉に詰まる。猫を捕える構えをとって、感情的になった彼女の逃亡に備える。
 真一の心中を察したらしい。
 冗談よ、と凛は言った。
「あの頃のあたしとは違うの。仲間外れにされているんじゃなくて、気遣ってくれた。あたしに心配をかけないようにって、貴方たちは黙っていた。そういう優しさもあるんでしょ」
 不器用よね、と言われて真一は頭を掻く。
 同じようなことを、一ヶ月前の埠頭で自分もやっていた。ヨンに言い当てられてしまったが、フィアスの自殺願望を知りながら黙っていた。
 それは無関心からでも、引き気味の距離感でもなく、優しさからだ。
 その秘密に気づいていることを打ち明けると、友達を傷つけてしまう恐れがあるので黙っていた。
 本当はもっと良い方法があったのかも知れないが、嘘が顔に出やすい自分は黙っていることしかできなかった。不器用だから、状況に適する形の優しさを、表現できなかったのだ。
「真一くんは、優しいね」と埠頭でパンク女に言われたことを思い出す。
 ヨンはフィアス以外に、自分の内面も見切っていた。もう一声掛けられたとしたら「真一くんは、優しいね。優しいけれど、不器用だよね」と言われていたかも知れない。
 なんとなくの距離感で作ったあらゆる人脈の中で器用に立ち回れていると感じていたが、本当は自分も不器用の一人だったんだな、と気づく。
「優しさを分かった上で、聞きたいことがあるんだけど」と凛は言った。
「後天遺伝子……っていうの? フィアスの中に入っている特殊な遺伝子。あたしはそれを戦いの強化剤だと思っていた。軍人専用の特別な薬があるのかなって。ところが、そんなに単純な話ではないようね。ドイツにいる科学者たちが、研究するくらいだもん。何か裏があるんでしょ」
 現時点で分かっていることを教えて。
 黒い目が真一を捉える。その目は不安に揺れているが、強い芯を持っている。ちょっとやそっとで折れないような。
 凛は後天遺伝子の「生き延びる反動」のことを知らない。赤い目になって、敵味方の区別がつかなくなり、人を殺しまくる末路が待っているなどと露ほども考えていない。凛には絶対教えるな、とフィアスから何度も釘を刺された。
 父親との関係や、生い立ちのトラウマ、<サイコ・ブレイン>で行われた人体実験の恐怖……彼女の人生は傷だらけだ。そこへさらなる傷を刻みたくない、というのがその理由だ。
 彼自身としては、獣化する前に自滅してこの世からいなくなる、という憂鬱なプランを立てている。
 しかし凛は、後天遺伝子がメリットの高いものではない、ということに気づいてしまった。
 「後天遺伝子=赤い目になる」という方程式にたどり着いたら、先の結論は素早く出る。
 それでも……
「ごめん」と真一は言った。
 言うだけでなく、実際に頭を下げた。
「言えない。ごめん」
「それは、とても怖いこと?」
「ノーコメントだ。俺の口からは言えない」
「どうしてもダメ? 彼には秘密にするからって言ってもダメ?」
「ダメ。本人が言いたくないことを、俺の口から話すのは筋違いだよ。俺は笹川毅一の孫だから、筋の通らないことはしたくない」
 それに、と真一は思う。
 それに、今の凛は覚悟を決めていない。心の準備が出来ないまま、後天遺伝子の真実を知ればショックを受ける。そして恋人の態度にも。
「恋人や友人を殺さないために自殺する」なんてこれ以上の衝撃的事実はない。
 真剣さが伝わったらしい。凛はものものしく頷いた。
 分かった。ちゃんとしたタイミングで、本人の口から聞かせてもらう、と彼女は言った。
「でも、赤目退治はやめさせる。危ないから」
「そうだな……アイツの異変も気になるし、別の方法を考えよう」
思案に耽っていると、膝をぽん、と叩かれた。グロスのきらめく唇に「しー」と指を当て、背後を見るよう目配せされる。

 独特の足音が聞こえて、正宗がやってきた。唇に煙草をくわえている。
 神出鬼没な彼は早起き組ではない。変な時間に睡眠をとり、たまたま早朝に目が覚めて、朝日でも浴びながら煙草でも吸うか、といった心情で縁側にやってきたのだろう。
 くわえ煙草のまま、二人を見下ろすと「なんだお前ら、早起きだな」と投げやりに声を掛ける。早速、縁側の隅で喫煙を始めた。
「密会してるの」と凛は悪戯っ子の微笑みで正宗に言った。
「彼氏には内緒にしておいてね」
「お前らの恋愛事情なんか興味ねぇよ」
「そんなこと言って、娘の行く末が気になるくせに」
「一ミリも気にならんな。悪いが。まあ、お前は俺に似てエロいから、好きな男と好きなようにやれ」
「あたしはお母さん似だもん。一途な清純派よ」
「はあ、そうですか。そんなら密会すんなよ。どっちにしても興味ねぇが」
周りを漂う紫煙をもろともせず、凛は正宗にべたつく。にこにこしながら、親子らしくない親子の会話を続ける。
 また始まった、と真一は思う。
 頭の中で、茜と交わした会話が蘇る。
――興味ないんやって。どうでもええから愛想良くできんねん。
 それが本当なら、このベタつきぶりは、興味なしの現れか? 現に正宗は興味がないと言っている。嘘か真かは分からないが、無関心な態度を貫いている。
 二本の煙草を吸い終わり、正宗はあっという間に縁側からいなくなってしまった。今日も胸の内の激烈さを隠しながら、飄々ひょうひょうと邸内をうろつくのだろう。父親を廊下の果てへ見送って、ふぅ、と凛は溜息を吐いた。再び縁側に戻った彼女は、珍しく無表情だった。真一の隣に腰を下ろし、庭先を見つめる。
 その目にはなんの感情もこもっていない。
 真一なりの距離感で接したらええんちゃう? と頭の中で茜が(かなりなげやりな口調で)答える。
「俺からも聞いていい?」思い切って真一は尋ねた。
「正宗さんのこと、どう思っているの?」
凛は庭から目を逸らして、廊下の先にちらりと目を向ける。
 完全に父親の気配がしなくなったことを再確認し、真一を見上げた。
「真一くんはどう思っているの?」
「ちょっとだけ、違和感があるかな」
「フィアスはどう思っているの?」
「アイツは良好だと思っているみたいだよ」
ふぅん、と満足気に彼女は頷く。
「それなら良好よ」
なるほど、良好か。その答えを知り、真一は頷く。
 これもある種の優しさなんだろう。
 不器用なのは、俺たちだけじゃないじゃないか。
「仲が良さそうで何よりだよ」と真一は言った。