真一はお好み焼きを前にしていた。ホットケーキのように分厚い生地の、大阪風のお好み焼き。山海の具材が山のように乗っていて、艶やかなソースが輝いている。顔の見えないコックがどんどん運んでくる。
たこ焼きも食べたいな、と思うと同時にたこ焼き機が現れた。既にたこ焼きは焼けている。皿に盛って青のりとかつおぶしを振り、秘伝のソースとマヨネーズをぶちゅーとかける。
熱々で、とても良い香りがする。合わせてお腹もぐーっと鳴る。
さあ食べよう。いっぱい食べよう。
「いただきまーす!」
ぱんっ、と両手を合わせたところで、ぱん! と軽い衝撃が頬を打った。幸福な夢が瞬時に消え失せ、全身が緊張に震える。今度は逆方向から、ぱん! またしても逆方向から、ぱん!
往復ビンタされている。寝ぼけた頭に痛みは感じないが、奇襲を受けた驚きで
「本郷二等兵、起床時間だ!」
「ふ……ふえっ!?」
「起きたまえ! 起床時間だと言っているだろう!」
ぴしゃりとした女性の怒鳴りに、反射的に上体を起こす。目やにのついた両目をこすり、滲む視界を
目の前に、凛がいた。
強い目力で真一の顔を睨んでいる。
力を込めて、もう一発。
「起きたよっ!」
叩かれる寸前、手の甲でビンタをガードする。真一の拳に弾かれた手は反動を受けたようだ。
痛ったぁーい! と凛は悲鳴を上げる。
「なんでこんなことするんだよ! びっくりするだろ! 俺が何したって言うんだよ!」
幸福な夢を台無しにされた悔しさと、いきなりビンタされた怒りが混ざって真一は喚く。カーテンの向こうは薄暗闇。肌に触れる空気の冷たさから、時刻は早朝だと分かる。
携帯のディスプレイはぴったり五時を示している……まだ五時だぞ。
邸内の人間は、警護に出ている一之瀬と、朝に強い祖父を除いて、全員が眠りについている。
「モーニングコールその4。厳しい軍隊風」
ぴりぴりする右手を振りながら、それでも陽気に答える凛。
「頼んでねぇよ!」と真一はツッコむ。
モーニングコールも頼んでなければ「その4 厳しい軍隊風」も頼んでねぇ!
それから、ふうっと一息つき、疲労の取れない身体で伸びをする。両肩に重しが乗っているみたいだ。寝初めてから二時間しか経っていない。
昨日の銃撃戦の終わりは、深夜二時過ぎ。そこから笹川邸まで戻り、寝支度をして
「モーニングコールその4。厳しい軍隊風」を演じた凛は、服装にも気を遣ってか、軍服に似たタイトなワンピースを着ている。胸元に金のボタンや
おいおい、俺を起こすためにそこまでする必要ないだろ。凛の意気込みようを見て真一は脱力する。
コスプレは服装だけにとどまらない。大きな猫目の上の、ふっくらとしたまぶたにアイシャドウが塗られている。個性的なレッドやボルドーは、彼女が化粧をする際によく取り入れる色だが、今日はいつもより赤い。目尻に引いたアイラインも真っ赤だ。歌舞伎役者なみに目力の強い、攻撃的なメイクも戦士っぽい。
暇なんだなー、と真一は大あくびをしながら思う。その時間と体力を自分にも分けてほしい。平和なのは良いことだけれど。
「真一くん!」と怒鳴られた。先ほどの
モーニングコールはもう終わり、と冷たく告げられて、真一は嫌な予感がした。そもそもこんな早朝に、凛が自分を起こしに来るなんてあり得ない。緊急事態に違いない。
例えば、彼女を
小さな手を布団に
肉食獣は問いかけた。
「どこに行っていたの?」
真一は肩を震わせる。
やばい、と思うと同時に、凛のすごみに
「あんたたち、どこに行っていたの?」
「い、いつのこと?」
「昨日の夜のことよ」
「どこにも行ってないよ。普通に寝てたよ」
「しらばっくれる気ね」
迫り来る体制から一転して、凛は身を引く。布団の上から見下ろす目が、確信を得たように細くなる。
ふん、と彼女は不機嫌な顔で鼻を鳴らした。
「ホテルね」
「はい?」
「ホテルよ、ホテル。夜中にこそこそと家を抜けて、行くところと言ったら一つしかない。あたしの彼氏とホテルに行ってるんでしょ。ボーイズラブってやつ? 同性愛に文句はないけど、あたしたちの関係を知りながら、誘惑するなんてサイテーね」
一瞬、真一は言葉を失う。何を言われたのか分からなかったからだ。すぐさま赤面とともに頭に沸いたイメージを掻き消した。
最悪の中でも、最悪の誤解だ。
「そんなわけないだろっ!」と大慌てで反論する。
「誤解だよ! 誤解! 俺たちはフィオリーナ捜しと赤目退治に……」
焦りが先立って口が滑った。それこそが真の狙い。したたかな龍頭軍曹の作戦。
罠に掛かったことに気づき、口を塞ぐがもう遅い。一度飛び出た言葉は二度と元に戻らない。
「赤目退治って、何?」
策に溺れた真一を見て、凛は微笑む。まろやかな笑みだ。
しかしその裏側で、怒りの炎がめらめらと燃えている。
「赤目退治って、何かしら?」
つとめて優しく尋ねる凛。穏やかな声色が逆に怖い。
真一は目をつぶる。口に当てた両手に力を込める。
これ以上、喋ってはいけない。この女と会話を続けてはならない。一言でも喋れば、
その間も、塞げなかった耳に厳しい詰問が飛んでくる。
フィオリーナの捜索はともかく、赤目退治って何!? あんたたち、夜な夜な家を抜け出して、桃太郎みたいなことやってるわけ? そんな……そんな危険なことを、どうして黙っているのよ!
キーっと怒りながら凛は真一の両肩を掴んで揺さぶる。寝不足かつ寝起きの頭にこれはきつい。ぐらぐらと脳を揺さぶられ、気分が悪くなってきた。口から手を離すと、肩を揺する凛の手首を掴む。三半規管が正常に戻った。気持ち悪さはすぐ消えた。肉体疲労は取れないが。
「詳しいことは知らない……」
観念して、口火を切る。諦め半分、言い訳半分、気乗りしないまま説明した。
深夜行動の際、自分の役割は運転手。赤目の発生現場にはフィアスが向かう。そして戦いを終えた彼を乗せて、笹川邸に戻ってくるのだと。今までに六回の戦闘があって、四回ほど巡査警官の職務質問を受けたが、戦いの証拠隠滅も上手くやり
怒りを抑え、真一の話を
犬でも雉でもなく、猿かよ。例え話にしても心に少しだけ傷を負う。
とにかく……真一は諦めの溜息を吐く。
ついに知られてしまった。いちばん知られてはいけない人物に。
余すところなく事情を説明したが、彼女の怒りは収まっていない。収まるどころか火に油を注ぐ形で火力が増している。
本当にあんたは何も知らないのね? とヤクザも怯えるドスの聞いた声で再三問いただしてくる。
フィアスが戦場で何をしているのか、ひとかけらも知らない。
真一くんは、ただの送迎。
「そうよね?」
真一はぶんぶんと首を振る。俺が知ってることは全部教えた、と断言するが、猫の目の鋭い輝きは衰えない。両拳を握りしめ、ちらりと
この後でフィアスの部屋に行き、同じような手口で問い正すのだろう、と真一は予測する。俺のところへは裏をとりに来ただけだ。完璧な証拠を集め、退路を
そして勝負に出る。
静かに臨戦体制を整える凛は、試合に望む前のボクサーみたいだ。愛のこもったパンチで、恋人を打ちのめす気でいる。
これは相当な修羅場になる。
修羅場になるだけならまだしも、怒り狂った挙句、フォックスの二の舞を踏んで、場外へ飛び出しでもしたらシャレにならない。
ごくり、と真一は唾を飲み込む。戦いのリングに自分も参入した方が良いのだろうかと考える。感情的になった凛を取り押さえるレフリー役が必要だ。シドにも連絡して、上空の目から見張ってもらうか?
何にせよ、これから修羅場になるのか、と考えるだけで気が沈む。
寝不足で、疲れているのに、修羅場か。
力不足の状態で、凛を取り押さえることが出来るだろうか。呆けた頭で、怒りをなだめることができるだろうか。たとえ修羅場を潜り抜けても平穏な日常が戻ってくるとは限らない。フィアスと凛が再びギスギスし出すかもしれない。かつての米国とソ連に似た冷戦対立が巻き起こるかも。
そうなれば、三人の中で最年少の自分が中立的立場を守り、面倒くさい性格のお兄さんとお姉さんの仲を取り持たなければならなくなる。
うーん、と真一は頭を掻く。全面戦争になるか冷戦になるかは分からないが、とにかく戦いの
「フィアスに話を聞きに行く?」と真一は切り出す。
「俺も一緒に行くからさ」
うん、と凛は頷く。
すっくと立ち上がり、障子の襖を開ける。
振り返った彼女は、先程とは打って変わって静かだった。眼差しは依然鋭い輝きを放っているものの、軍服を取り巻く戦いの炎は消えていた。雰囲気が変わった、と真一は思った。自分がうだうだと修羅場について考えていた間に、彼女の方も何かしらのプランを立てていたらしい。ひとまず、大人しくなった……が、油断はできない。当人を前にして怒りが再熱する可能性もなくはない。
戦場が近づくにつれ緊張が高まったが、予測に反してお目当ての部屋を通過した。
あれ? と首を傾げつつ、到着したのは彼女の自室だった。
「見てもらいたいものがあるの」
すすす、と障子を開ける。室内から、ふわっとした女の子のにおいが漂う。
わぁ、良い匂いだなぁ、と一瞬だけすべての面倒くささを忘れて、かぐわしい芳香に癒される。その後、
彼女の部屋は服や雑誌や化粧品やお菓子などが散乱していた。整理整頓の「せ」の字もない。はっきり言って、すごい散らかりようだ。俺の部屋の方がマシじゃん、と真一は思う。一瞬でも癒されたことを悔しいとすら思う。身勝手かも知れないけれど、
それでも寝床のスペースは確保できている。布団を中心に、放射状に雑貨が散らばっている。
暇なんだし片付けくらいしなよ、と言いたくなるのを堪えながら、ひとまず部屋を一瞥する。
すると、
牡丹柄の掛け布団の下でフィアスが眠っている。静かな寝息を立てている。真一は再び部屋を見回し、その部屋が紛うことなく凛の自室であることを確認する。
なんでアイツがここに……? そこまでつぶやき、ぼっと顔から火が出る。その生々しさは、首を振っても掻き消えない強烈な妄想だ。
火照った顔で目下を見ると、凛は両腰に手を当て、呆れ顔で真一を見上げていた。
「エッチなこと考えてるでしょ」
「あ、いや……」
「全部顔に出てる。いやらしい。そんなだから、いつまで経っても彼女ができないのよ」
うっ、と真一は胸を抑える。顔色一つでここまで傷つくことを言われるとは……茜とつるみはじめてから、アイツの性格のきつさが移っていないか? ブレイク寸前のハートが、本格的に
繊細な男心を知ってか知らずか、裸じゃないでしょと言わんばかりに、凛は掛け布団を少しめくった。
フィアスは黒いTシャツとハーフパンツを身につけていた。
昨晩、赤目を倒した時のスーツ姿ではない。
ということは、一度自室に戻ってラフな服装に着替えた後、この部屋にやってきたことになる。
そして凛の布団を占領して眠り込んでいる。
これは……
「一体、どういうこと?」
「あたしの方が聞きたい」
「凛が呼んだんじゃないの? 呼んだっていうか、誘惑したっていうか……」
「してません!」
ぷんぷんと怒り出す凛。
誘惑してたら真一くんをここへ連れてくるわけない。そんな情緒のないことするわけないでしょ。これまでの経緯と整合性だって取れないじゃない、と
確かにそれはもっともな理屈だ。
それにしても妙だな、と真一は思う。熟睡中の一般人ならともかく、
ところが今日はそれがない。間近で話をしていても、まったく目覚める気配がない。
無表情のまま、死んだように眠っている。
似たような状態に陥った彼を、過去に目にしたことがある。
「起こした?」
「起こした。真一くんを起こした時みたいにビンタもしてみた」
「可哀想に……」
「でも、全然起きないの」
凛はフィアスの髪を優しく撫でる。
これが初めてじゃないのよ、と心配そうにつぶやいた。