ハート・ミー


 ***

 事件現場が、野次馬で賑わっている。規制線に老若男女が押しかけ、携帯電話をかざしている。まるで世界的なロックスターを目前にしているように。
 線の内側では、彼らと同じ名もなき人が、眠りについているだけなのに。
 撮られた写真は一斉に拡散され、何万枚とコピーされる。そして数年も経てば、誰の記憶からも忘れ去られる。それは一瞬の閃光を放って宙を裂く弾丸と似ている。
 通過した後に残るのは、茫漠ぼうばく硝煙しょうえんと、わずかに歪んだ空気だけ。
 そんなことを思いながら、彼女――フィオリーナ・ディヴァーは、目下の光景を見下ろした。
 現在、ビルの屋上にいる。俯瞰した光景の中に違和が紛れていないかと目を凝らしている。彼女の武器は、鷹のように優れた視力。事件現場から3km離れていても、警察車両のナンバーを言い当てることができる。
 先天遺伝子、後天遺伝子ともに並外れた五感を持つ(あるいは発達する)。しかし、鋭敏となる器官は個々によって異なる。
 彼女の場合は視覚だった。その鋭さは、赤い目を隠すコンタクトレンズを通しても衰えることはない。
 殺害した赤目を放置しておけば、警察が駆けつけ、黒山の人だかりができる。
 敵としても、赤目の末路を知りたいはずだ。野に放った赤目がどのような行動を起こすのか。それが一般市民にどのような影響を与えるのかを観測する必要がある。日本警察の捜査状況についても、興味深く進捗しんちょくを追っているはずだ。収集したデータは、次回のテロ攻撃に役立てる。
 そしていつか巻き起こるであろう、集団テロの効果を最大限に発揮するために利用される。
 フィオリーナの真の狙いは、野次馬の中から<サイコ・ブレイン>に関係の深い人物を探し出し、アジトの場所を吐かせること。数回の襲撃で、赤目との意思疎通いしそつうは諦めた。末期の赤目は完全に獣化し、こちらの話を理解できない。ただ動物的な衝動と、人間だった頃に身につけた動きを用いて、生きものを殺すだけ。理性を失った彼らの行動には嫌悪を覚える。
 前回の襲撃を思い出しながら眉を潜めたとき、青いビニールシートをめくって人が出てきた。真っ黒の服装で、頭にも黒いワークキャップを被っている。日本警察ではない黒の人物は、足早にカメラのフラッシュを抜けて、駐車場へたどり着く。
 自車の傍にいる一人の刑事に近づいたとき、右耳につけたイヤホンから、二人のやりとりが聞こえてきた。

――いえ、何も。情報をもらっただけです。
――そうなんですか? 今回はシャーロック・ホームズはなし?
――そもそも、あの推理法で個人を特定するのは不可能ですよ。職業は多様化して、階級による選り分けができない。コンクリートが敷き詰められた地面では、地質学は役に立たない。おまけに……煙草の種類は少なくなって、画一化に向かっているし。
――シャーロック・ホームズってそんな話でしたっけ? 俺、原作読んでないから、分かんないや。

 理屈っぽいフィアスと、ふわっとした河野刑事の会話。二人が顔を合わすたび、噛み合わない雑談が繰り返されている。
 その温度感の違いに、いつもくすりと笑ってしまう。笑いたくなるのは、安堵したからでもある。
 緩い会話が続くのは、空振りの証拠。警察も彼も「狩り」を阻止する手立てを見つけていない。
 河野刑事に盗聴器が仕掛けてあるとは、フィアスも予想していない。間の抜けた河野刑事に対し、完全に警戒心を解いている。<サイコ・ブレイン>が送り込んだ刺客ではないと判断して、良い使い走りにしている。それはフィオリーナも同じだ。
 もちろん、日本警察をこちらの事情に巻き込むわけに行かない。盗聴器は一般人を装って接近したときに取り付けた。河野刑事は知る由もない。
 彼らが立ち去った後も、野次馬観察を続ける。
 肌寒くなった秋の終旬に、黒や灰色、茶色といった暗濁色あんだくしょくの上着が目立つ。日本人は地味な配色の服装を好む。まるで自らの存在を消してしまいたいかのように。あるいは、群衆の中中へ自分を溶け込ませるように。中には数人、派手なカラーをまとった人もいて(大半は若い女性だ)、同胞の中でもとりたてて興奮気味に写真を撮っている。
 まったく、事件現場はライブ・ステージじゃないのよ。慎みを知りなさい、とフィオリーナは大人の女性として忠告したくなる。
 派手な女性陣の中で一人だけ、携帯電話をかざさず、規制線に近づこうともしない、野次馬らしくない野次馬がいる。
 彼女は真っ赤なレザーコートを羽織っている。よく見るとサイズが合っておらず、だらりと垂れた両手はコートの裾にすっぽりと覆われている。
 年のほどは二十代前半。黒髪の長い女性。人混みに惹かれてやってきたものの、何の感慨もなくその場に立ち尽くしている、といった風情だ。
 ……また来てる。同じコートを羽織って。
 まじまじとその女性――というよりも、コート――を見つめる。
 過去に何度もその服を目にした。その時は、別の人物が身にまとっていた。複雑な意匠いしょうを凝らした派手なブランド品。一般人が手を出すには高価すぎる代物の上、おそらく特注して作っているので、世界に一つだけしかない。
 そのコートの本来の持ち主は、かつての部下・フォックスだ。
 フォックスの遺品を身につけた女が、事件現場に立っている。
 彼女の存在に気づいたのは、野次馬観察を始めて二回目のことだ。ただちに跡を追い、宿泊しているホテルを突き止めた。データベースに侵入し、直近三ヶ月以内の顧客リストを抜き出した。数百を超える顧客の中に、見覚えのある名前を発見した。フォックスの偽名だ。
 かつて、フィアスとともに乗り込んだ別拠点でも、フォックスは同じ偽名を使用していた。
 その死体の後始末は、笹川組が請け負った。笹川組の始末屋は、寝ぐらを突き止め切れなかった。こちらとしても、終の住処が死後も使われているなんて、予想だにしていなかった。
 おそらく、あの女性は李小麗。
 裏切り者の部下が、最後に行動を共にした相手。
 フィオリーナは数日だけ毛質を変える薬品を使って髪を黒く染め上げた。瞳の色も黒く変え、暗濁色の洋服を身にまとうと、彼女に接近した。
 李小麗は武術の達人。気配を消さなければ、存在を察知される。しかし気配を消し過ぎると、消失した気配に気づく。隠すのでもなく消すのでもない。一般大衆が放つ中庸を意識する。
 こうして小麗に近づき、盗聴器をとりつけた。コートに触れてもまったく気づかれなかった。
 フィオリーナ自身も驚くほど、その作戦はうまく行った。
 小麗は夢現の状態で、フィオリーナはおろか通行人にも注意を払っていない様子だった。
 人混みの中へ消えて行く彼女はたびたび人にぶつかり、睨まれたり文句を言われたりしても無反応だった。
 これは一体、どういうことだ? 薬物でも摂取しているのか? ……まさか。
 <サイコ・ブレイン>の重鎮に限って、一時的な快楽と引き換えに理性を手放す愚行を犯すはずがない。
 その答えは、仕掛けた盗聴器から聞こえた。小麗はすすり泣いた。悲哀に満ちた声は、夜ごと決まって長く続いた。時おり苦しげに愛おしい人の名を呼ぶ声も聞こえた。
 彼女はフォックスと恋愛関係にあった、とフィオリーナは察した。
 犯罪組織の長ではなく、女性の一般的な勘で。
 彼女は恋人の死に涙し、鬱状態に陥っている。ショックから立ち直れず、古巣に戻れなくなっているのだろう。ホテルに住み続けているのは、死者への愛着……否、執着心の表れか。
 フィオリーナは盗聴していたヘッドフォンを外した。ほんのわずかな苛立ちとほんのわずかな同情を覚えた。一呼吸で気持ちを切り替えられるちりみたいな感情だ。
 しかしその塵を拡大して、あえて言葉にするのなら「しっかりして頂戴。貴女は組織の幹部でしょう。早くアジトへわたくしを案内しなさい」という思いと「可哀想。貴女は失意の夜を耐え抜いている。その嘆きは痛々しいくらいだわ」という思いに二分される。
 もっとも、フィオリーナはそんな感情に深入りする前に、気持ちを切り替えてしまったのだが。

***

――戻ってこい、フィオリーナ! 貴女が……君が、犠牲になる必要はないんだ! それは、ルディガーと俺の願いだ。頼む、フィオリーナ。戻ってきてくれ!
 「狩り」の最中、声が聞こえた。らしくない大声で、自分の名前を呼んでいる。
 わずかに揺らぐ気配から居場所を察知されないように、すぐに戦場から退いた。狙撃手も後からついてきた。
 猫のように屋根や塀の上を伝い、屋上へたどり着く。
 ヨンはフィールドから離れた場所でコンを操作している。少女の自己暗示を解き、本来の姿に戻った後、彼女は別の暗示をかける。自身の五感を強化し、夜を昼に変える暗示。戦場からかなり離れた場所にいるのに、暗視スコープをつけていない。フィオリーナほどとは言わないが、強化した視力で戦況を観察している。
「身体感覚は暗示で強化しているけどね、戦況の見極めや観測手の技術は自前だよ」というのがヨンの口癖だ。
 パチン、と指を鳴らしてヨンは死体・・の武装を解除する。遠隔での合図は鈴の音、近接の操作は指鳴らし。ヨンはコンの指示の仕方を使い分ける。完璧にコントロールされたコンは、コードで繋がった人体と同じ動きをするロボットみたいだ。
 任務完了を伝えると、黒いフードがこくりと動いた。フィオリーナも頷きを返す。これからわたくしたちは拠点に戻る。拠点にて、ヨンは再び少女の自己暗示をかける。コンにも同じように。そして狙撃手の二人はどこにでもいる、ごく普通の姉妹に戻る。
 日常に溶け込み、次なる「狩り」に備えた日常が繰り返される。
「狼くんが吠えていたね」
道すがら、ヨンは言った。
 彼女も戦闘後に放たれたフィアスの声を聞いたらしい。
 しぶとい、と温度のない声でつぶやく。
「しぶとい。しぶとくて頑固だ」
「父親にそっくりです」
師匠あんたに似たのかもよ」
「そうでしょうか」
三人は黙ったまま夜の街を歩く。無差別テロと連続殺人事件を受けて日本警察のパトロールは強化されている。彼女は発達した五感を使って、難なく人気ひとけのない通路を選び出す。
 言語では表現できない何かを察知して、背後を振り返る。彼女の視線からは、小柄なフードの天頂しか見えない。
 ヨンは意識を集中して、考え事をしているように見える。あるいは、そんな間を置いている。
 フードを解いたヨンの素顔をフィオリーナは見たことがない。ヨンが見せるのは、暗示に掛かった仮初の姿だけだ。そして、その姥皮うばかわも定期的に変化する。
 正確にいうと、操作する死体・・に合わせて姿を変えている。
 死体・・の妹、死体・・の恋人、死体・・の妻、死体・・の母親。強力な自己暗示だが性別までは変えられず、偽人格のヨンは、少女か、妙齢の女性か、中年の女性、そしてデフォルトのヨンとは違う雰囲気の老女を選択する。
 暗示にかかったヨンに合わせて、フィオリーナもこれまでに数々の偽経歴を演じてきた。殺し合いの日常を忘れられる、晴れ舞台は楽しかった。ビジネス上の信頼が揺るがないものになると、耕起こうきされた土壌に友情が芽生えた。
 ヨンの危機をフィオリーナが救い、フィオリーナの危機をヨンが救う。金線から外れた、強い絆が生まれた。ヨンの性格は複雑怪奇で、フィオリーナでさえ計り知れないことが多くある。しかし、それは彼女に限った話ではない。赤ん坊であろうと老人であろうと、他心を掌握することは不可能だ。そして、共感を求め合う関係ばかりが、友情ではない。
 一般的な女性同士の絆とは一線を画しているが、互いに絶大な信頼を置いている。
 ヨンのフードを見つめ続ける。
「人には天命があるのだよ」
 しばらくして、フードの中の魔術師は言った。
 どういうことです? とフィオリーナが尋ねると、ヨンは金属の軋みに似た笑いを立てた。
「分かっているくせに」

***

 小麗が動いた。フィオリーナはヨンを自己暗示の中から引き戻した。
 盗聴していた音声を部屋に流す。戦時のラフな服装に着替え、使い慣れた銃器の動作確認をする。
 テーブルの上にノートパソコンを開いている。小麗のコートにつけたGPSが徒歩程度の速さで寝床のホテルを通り過ぎた。現在時刻は午前五時。スピーカーから浅い息遣いが聞こえる。
「ネオ……。ネオ……」か細い声で、あるじの名前を呼んでいる。
 狂信者が神にすがる声。幼い子供が親にすがる声。感情が理性を上まわった声。
 ダメージを負った心は快癒せず、孤独の重圧に潰された。
 彼女を突き動かしているのは、誰かと繋がりたいという社会的欲求。人間的で、切実な欲求だ。
 一ヶ月、たったの一ヶ月。
 その程度の短い期間で、ここまで弱ってしまうなんて……。
 こんなとき、人間のあまりの脆さに驚く。理性が埋め込まれた「心」という器は脆い。以前、龍頭凛が拉致された時のことをフィオリーナは思い出した。あの時は、こうも感じた――弱点にもなり得る心の機微を持ってこそ「人間」と言える。
 フィオリーナは一呼吸する。ブルヒューのコンタクトレンズを外し、赤い目を顕にする。
 ノートパソコンを閉じると、スピーカーの声も聞こえなくなった。
 今度は、我々が利用させてもらう。
 小麗の隙を突いて、ネオと再会を果たす。
 ショルダーホルスターにSIG SAUER、ヒップホルスターにWaltherの小型拳銃、ベルトの腰部にシースナイフを引っ掛ける。その上から、それぞれの武器を覆うようにジャケットを羽織った。
 人生最後の身支度を終えて、フィオリーナは自室を見回す。仮住まいの白い部屋。最小限の家具、情報収集用のパソコン、わずかな食糧。終の住処は最終行動に移るためのミニマムな空間だ。生活感がなく、無機質さばかりが漂う。図らずも自分が生まれたドイツの研究施設と雰囲気が似てしまった。
 いや、無意識のうちに作り上げていた。原初の記憶と同じ空間を。最初と最後をつなぐ円環えんかんを。
 わたくしたちは、外に出る。
 その輪から外れて、どこかに行く。
 この拠点は目的を果たした後、一定期間、留置される。その後、信頼のおける友人に仮住まいの隠滅や、本拠地の解体をお願いしてある。親愛なる側近、シド・ヴァレンシアにも連絡が行く手筈になっている。シドと友人は、上手くやり果せるだろう。初めから存在しなかったように、組織を解散させてくれるはずだ。
 元締め役の責務として、この一ヶ月で、世界各国のあらゆる友人へ根回しをした。自分がこの世界からいなくなるという事実を伏せて、部下たちと協力して仕事を進めてほしいと伝えた。抱えている案件も振り分けた。
 裏社会の大統領ともいえる各国の長とも信頼関係を築いている。その関係は、絆と掟が表裏一体をなした同盟に近い。互いに忠誠を誓い、掟破りには死を与える血の同盟を、過去にフィオリーナは結んでいる。たとえ自分の死亡が噂されても、水面下の大抗争は起きない。下っ端たちの間で多少のいさかいは起こるかも知れないが、わずかな小波も時間とともに自然と凪ぐ。
「こちらの準備はOKだよ」
ドアの向こうからヨンの声が聞こえた。フィオリーナは自室を後にする。
 携帯電話を取り出して、GPSの点滅を追いかける。
 今日も小麗はふらついた歩き方で、すれ違う通行人に不審な視線を当てられていた。
 薄暗い早朝に、真っ赤なコートが不気味に揺れた。それはかつての部下の亡霊に見えた。伊達男の殺し屋。彼は小麗を骨抜きにしてくれた。最後の最後で大手柄を成し遂げた。
 フォックス、貴方には感謝している。
 もしも冥土で出会えたら、一夜を共にしてあげてもいいくらい。
 フィオリーナは小麗と数十メートルの距離を保って、赤い背中を追い続ける。もちろん、気づかれることはない。標的はそれどころではない。平常心を保ちながら、帰巣本能にしがみつくだけで精一杯だ。
 雑居ビルの屋上を伝って、狙撃手たちもついてくる。この辺りは低層の建物が並ぶ煩雑な裏通り。巨大な高層ビルが屹立した、ビジネス街から離れている。
 敵の拠点はどんな建物なのだろう。前回は「シーサイドタワー」という海沿いのビルを根城にしていた。新拠点は高層ビルではないのか。どこかの一角に部屋を借りているのか。我々の現拠点と同じように。あるいは、公共施設を占拠しているのだろうか。我が組織が根を張っている、あの科学館のように。
 いや、建築物ではないかも知れない。移動式拠点の可能性も考えられる。献血車みたいに少年少女を乗車させ、赤目に変えて送り出しているのかも。
 小麗の向かう先を眺める。ビルや商店が並ぶ先、複線を束ねる駅を挟んだ向こう側に見えるのは、巨大なショッピングモール。非常時に関わらず――いや、非常時だからこそ――日用品を買い溜めする利用客で溢れている。何平米もある駐車場にはファミリーカーがいっぱいだ。
 まさか……。
 前方から異質な気配を感じて、フィオリーナは視線を移した。小麗は歩道橋に昇っていた。道路にかかった橋の中央、地面に膝をついて号泣している。目前の人物へ許しを乞うように。
 フィオリーナの心臓が高鳴った。
「準備は?」腕時計についたマイクへ話しかける。
「問題ないよ」老婆の声が応答する。
「さあ、行きな」
 足早に歩道橋へ向かう。しかし途中から、駆け出さずにいられなくなる。ネオ。兄。同胞。先天遺伝子を持つ、世界でたった一人の兄弟。
 彼が今、そこにいる。全速力で階段を駆け上がる。泣き崩れる小麗。朝日に照り返る赤いコート。日の当たらない暗がりに佇む小柄な少年。ネオ。
 部下に向けられた真っ赤な目が、ゆっくりとフィオリーナを見上げる。
 あどけない顔をやんわり微笑ませ、ネオは嬉しそうに笑う。
「待っていたよ、フィオリーナ」
 それは天使の微笑だ。