車通りが少ないためか、約束の三十分前にアジトにたどり着いた。
 入り口の重厚な扉を開けると、中央のテーブルにコンとシドの姿を見つけた。コンは元軍人の鋭い目つきでさっと背後を振り返り、すぐに無邪気な女性に変わった。軍用ナイフすら手にしたことのない愛嬌のある笑顔で手を振る。
「やっほー、フィアスくん!」
この場所で会うのは、あくまでも一般人同士か……フィアスもにこやかに対応する。
「ご無沙汰しています、コンさん」
 あはははっ、とコンは笑う。なーに言ってんの! 三日前に会ったでしょ、と肩を叩かれる。
 そうでしたねと調子を合わせながら、この女は体感時間も操作されているのかと思う。
 コンに会うのは夜襲を除いて一ヶ月ぶりだ。
 埠頭での一件からあっという間に時が流れた。暗示に掛けられなくとも、体感時間はコンとほとんど変わりない。

 科学館に到着する直前、シドから赤目やフィオリーナの話はするな、と連絡を受けた。
 コンが初めてアジトに戻ったとき、シドはたえ切れずフィオリーナ側の状況を聞き出そうとしたそうだ。
 するとコンは表情を失い、手にしていたカップを割って、自らの手首を切り裂いた。激しい自傷行為は、止めにかかったシドを振り切って続いた……チリン、という鈴の音が響くまで。
 虚実と現実の整合性が取れなくなると、コンは人格崩壊を起こす。そして、自殺しようとする。
 ドイツに向かう空港で、ヨンが話したことは事実だったようだ。翌日、何事もなかったかのようにコンはアジトを再訪し、シドと軽い世間話をして帰っていった。その後もたびたびアジトを訪れ、取るに足らない話をしている。
 シドは数回にわたって発信器を取り付けた。しかし、近隣の駅で発信源を示す印は消失した。科学館への往来に何本もの電車を乗り継いでいるらしく、上空の目からもコンの行方を追うことは不可能だった。
 コンを使った追跡をシドは諦めた。
 それからは、何の意図も持たず陽気な訪問者に対応している。
 彼女は彼女で、何らかの意図を持っているのかも知れない。遊びにくるふりをして、こちらの動きを探っているのかも知れない。
 無意識のうちに。あるいは、ヨンに操作されて。
「とにかくコンに調子を合わせろ。お前の偽経歴も間違えるなよ」と言ってシドは電話を切った。

 テーブル席について、シドの淹れたコーヒーを飲みながら――真一の淹れるコーヒーと違ってかなり甘い。ラテンアメリカのある地方ではコーヒーをかなり甘くして飲む習慣があることをフィアスは思い出した――コンと他愛ない会話をする。
 互いの大学での研究話や、それぞれの国の話、偽の記憶から生み出されたソウルでの初対面の思い出など……お喋りなコンの聞き役に回って、適当に相槌を打つ。偽人格の設定はよくできている。本当に古くからの知り合いみたいだ。
 コンはドイツ旅行で撮ったという写真を見せてくれた。スマートフォンに映し出された画面はただの白い画像だった。それをどんどんスワイプしながら、食べた料理や観光した建築物を紹介してくれる。この子が妹のヨン、と指し示す場所に何も映っていない。
 すごいごっこ遊びだ。
 彼女がここへ来るたび、シドはこんなことに付き合わされているのか。
義兄にいさん、あんたも大変だな」
コンがトイレに立ったときを見計らって、フィアスは言った。数十分の談話にしても、演劇の舞台に立ったようで疲れてくる。表面上は上手くやれても苦手分野だ。
「俺はけっこう楽しいぞ」とシドは意外にも陽気だった。
「こんなに静かで無機質な場所に一人でいると寂しくなってくる。今じゃ良い話相手だよ」
「こちらの偵察かも知れないのに?」
「その可能性も捨てきれないけどな。ただ、彼女は設定された人格にたがうことはやらない。地下の武器庫やコンピュータールームには足を向けない。あくまでこのリビングルームで楽しくお茶をして帰ってゆく」
 ここはリビングルームなのか。フィアスは辺りを見回す。随分と広くて実験器具の多いリビングルームだ。
 もちろん、彼女の目にはそんな風に映っていないのだろうが。
 コンが戻ってきた。再び演劇を再開しなければならないのか、と微かに嫌気が差したとき、ふと思い出したようにコンは頭を叩いた。自傷行為ではなく、おちゃらけたポーズだ。
 忘れてた! と明るい声が部屋にこだまする。足元に置いたショルダーバッグをがさごそとまさぐりながら、陽気に話し続ける。
「今日はフィアスくんに渡したいものがあったんだ! それでシドに呼び出してもらったんだよ。すっかり忘れてた!」
「僕にですか?」
「そう! 妹からのプレゼント!」
 コンはショルダーバッグから一枚の絵を取り出した。
 A4サイズの、厚い生地だ。画用紙ではないが、キャンバスではない。プレートに似た硬質こうしつの紙で、乱雑に放り込まれていた割に折り目がついていない。
 「はい」と渡されて、描かれているものを見る。
 それは、なんとも言えない不思議な絵だった。
 ひとまずジャンルは風景画、と言っていいのかも知れない。俯瞰的ふかんてきな構図だ。
 様々な色彩の針葉樹が一面に広がっている。時間帯は分からない。夜なのか朝なのか。青や黄色、紫が混ざりあってよく分からない。
 何よりも分からないのは、絵の中心に半円が二つ描かれ、陰陽思想の図形よろしく溶け合うように混ざり合っているところだ。半円の一つは橙色の明るい色味、もう一つは紺色の暗い色味。
 溶け合った円型が光を放っているように描かれているので、何かの惑星だろうか。だとしたら、太陽なのか。月なのか……いや、金星とか、木星かも知れない。そもそも明確な設定などないのかも知れない。
 そして、惑星を囲むように描かれているたくさんの動物……これは、狼か犬、あるいは猫? 森の中にいるのだから狼か。とにかく三角耳の動物たちが森の中で宙に浮く惑星を見上げている。その動物たちの目は赤い。無数の赤い目が、不思議な惑星を見上げている。崇拝しているようにも感じられる。
 森と惑星と動物の風景画……なんという画材を使っているのか分からないが、すべてが混ざり合う幻想的なタッチで、水彩画ほど淡くなく、油彩画ほど濃くはない。
 フィアスは絵に触れた指を見た。色移りはしていない。
「とても美しい絵ですね」と一般的な感想を述べておく。
シドも席を立って、背後から絵を覗き込む。ほぉ、と感嘆の息が漏れた。
「きれいだな。ファンタジックというか、メランコリックというか、小さな女の子が好みそうな絵本の表紙みたいだ」
「カワイイでしょ! うちのヨンちゃんは才能があるからねー」
かなり具体的な感想をもらい、コンは自身が褒められたように喜んでいる。
「この絵を僕にくださるのですか? コンさんの妹さんが?」
「うん。金髪のお兄ちゃんに渡してって、頼まれたの。私が知っている中で金髪のお兄ちゃんっていうと、フィアスくんしか思い当たらないから。多分、合ってると思う!」
適当な判断だな、とツッコミを入れたくなるが、大雑把な性格が彼女の偽人格なのだから仕方がない。
 硬い絵画の角を指でなぞりながら考える。ヨン。彼女とは対面したことがない。偽の経歴の中でも、戦いの最中でも。与えられた資料にも、ヨンのことは書かれていなかった。
 シドは空港で会ったことがあるらしい。最初はフードを纏った老婆の姿をしていて、自己暗示を掛けると地味な外見の女子高生に変わった。その女子高生は、ドイツにある美術大学へ進学希望中である、というのはコンとの雑談から得た情報だ。
 従って、この絵は自己暗示に掛かった女子高生のヨンが描いたのだろう。
 自己暗示中のヨンに、元の人格の記憶はあるのだろうか。
 天真爛漫な姉と殺し屋のロボット。コンの方は二重人格を完全に切り分け、互いの人格の記憶は統合されていないようだが、ヨンについてはよく分からない。
 この絵画は、明確なメッセージを宿しているのか、気まぐれな習作のひとつとなのか。
「俺も一枚欲しいぞ。ヨンが偉大な画家になったら、この絵にはプレミアがつくかも知れないからな」
「そうそう! だからフィアスくん、大事にとっておいてね!」
ありがとうございます、と礼を述べる。
 もっとよく観察しようと絵を見ていたところ、横から浅黒い指が伸びて、ある一点を指した。
「森と星と狼は分かるんだが、これは人間か?」
ざっくりと描かれたものを判断したシドは、絵の右下に描かれた、白い人型の空白を指差す。
 隙もなく様々なグラデーションに彩られた絵の中で、その部分だけが無色だ。色を塗らないことで、人型を描き出している。
 その人型は、ある一匹の動物に寄り添うように手を当てている。
 フィアスはその部分を指でなぞった。描かれている人型は女だ、と直感的に判断した。
「分かんない。私、絵のことは詳しくないもん」
あっけらかんと答えるコン。
「ヨンさんはこの作品を、どうして僕にくださったのでしょうか?」
 一応、疑問に思っていることを問いかけたが、それも似た答えが返ってきた。
 分かんない。金髪のお兄ちゃんに渡してきてって言われただけだから。
「フィアスくんのこと、ヨンに話したことあったかなぁ?」
コンはがしがしと頭を掻く。
 それから思い当たったように、ソウルで撮った写真を見たのかも! と的の外れた空想を話し出す。フィアスくんイケメンだからさ、うちのヨンちゃんが狙っているのかも知れないよ~、と悪戯っ子の笑顔できしきしと笑う。
 彼女に合わせて笑いながら、フィアスはなおのことまじまじと絵画を眺めた。