警察側の動きを聞いておいてくれ。
 フィアスから頼み事を引き受けた真一は、日の当たる縁側に坐して、荻野刑事に電話をかけた。気合十分。情報を仕入れる気満々だが、意気込みがバレて不審がられても困るので、電話をかける前に少しだけ座禅を組んだ。
 一度もやったことのない座禅。やる前とやった後でまったく気持ちが変わっていない感じがするけれど、こういった精神統一はポーズが大事なのだ。たぶん。
――おう、真一! 元気か?
茜と似たテンションで荻野刑事が電話に出ると、早くも真一は息が詰まった。座禅の効果がまるでない。
 あっけらかんとした荻野刑事だが、勘の鋭さは茜以上だ。声色でこちらの思惑を嗅ぎつかれそう。いつも通り、平生を装わねば……と思うと緊張するので、出たとこ勝負で乗り切ることにした。
 元気だよ! 茜の方も普段と変わらず当たりがきついよ! と挨拶を交わす。
 今日は外勤ではないのか、荻野刑事の笑いはライオンの吠え声より大きい。
――そいつは悪ぃな! 俺ん家は茜がいなくなってしんみりだよ。しんみりした空間にカミさんと二人きりってのはかなり気まずいぜ!
 全然気まずそうに聞こえない声だが、荻野刑事は恐妻家だ。お父ちゃん、お母ちゃんの前では借りてきた猫みたいに大人しいと、茜が前に言っていた。どこの女も気が強いな、と世間話に興じつつ、頃合いを見計らって真一は本題に入った。
「そんでさ、荻野刑事に聞きたいことがあるんだけど……」
――おう、お前らが嗅ぎ回ってる事件のことだろ?
 やべぇ、ばれてる! 真一は冷や汗を浮かべる。
 おそらく、最初から見抜かれていた。その上で荻野刑事は世間話をしていたようだ。
 まずは挨拶、そして世間話。
 事件関係者に聞き込み調査を行う刑事は、対人の基本を心得ている。
 そうです、その通りです、と観念して伝えると、荻野刑事は再びがっはっはと笑い出した。そんなこったろうと思ったよ。「横浜のワトソン」も忙しいな! と怒鳴りに似たいつもの勢いでまくしたててくる。
 「横浜のワトソン」って……、真一は苦笑する。刑事はニックネームを思いつく天才だ。さながらフィアスは「横浜のホームズ」と命名されていることだろう。
 場所を変えるからちょっと待てよ、と荻野刑事は言った。階段の昇り降りや扉を開く音が聞こえて、人気ひとけのない場所に移ったようだ。刑事は心持ち静かな声で(それでも真一の大声よりも大きいが)、一息に告げた。
――真一は一般人……むしろヤーさん側の人間なのに、なんで警部補になってるんだよ! 初臨場のとき、俺はずっこけたぞ!
「うっ……。そ、そうだよな」
 荻野刑事は本来、暴力団組織を相手にしている。従って、笹川毅一の血縁である真一の素性も調べ上げている。
 こちらも「何でも屋」の賃貸人である茜を通じてかなりの顔見知りだ。「マル暴の刑事」というよりも「茜の親父さん」の肩書きの方がしっくりくる。
 それに初めて乗り込んだ現場は、彼の管轄外だった。まさか鉢合わせになるとは思っても見なかったのだ。荻野刑事は素知らぬ顔をしていたが、やはり内心で驚愕していたらしい。
――まあいい。本郷警部補にも退っ引きならねぇ事情があるんだろ。上の連中が許容しているなら何も言わん。あくまで俺の関心事は、お前のじーさん周りだからな。
 ここは見過ごしてくれてありがとうと言うべきなのか……身内を狙っている荻野刑事に対して判断がつきかねる。
 真一はいつものように、あはははは、と笑ってごまかすことにした。
 荻野刑事はきっぱりと言い放った。
 そういうわけで、飛び入り参加の本郷警部補に現場状況は伝えられる。しかし、部内の極秘情報は一切教えないぜ。これらの事件は、国際テロの色合いが強いが、ヤーさんが絡んでいる可能性も捨て切れないからな。
 ま、そうだろうな、と真一は思う。国際犯罪の仲介役として地元の暴力団が絡むことがしばしばある。荻野刑事の意向としては、テロ事件の解決には力を貸すが、自分の縄張りを荒らされる気はないということだろう。
 自分の娘はばりばりに笹川組の縄張りを荒らしてるんだけどな、と思いつつ尋ねる。
「あれから殺人事件は増えてない?」
――そうだなぁ……ま、メディアで報じられているマル被以外の仏さんは上がって来てねぇよ。一応な。
 はきはきとした返事の割に、歯切れの悪い答えだ。真一は膝に乗せたノートパソコンで、横浜で起きた殺人事件以外の事件を検索する。SNSでも様々な検索ワードを打ち、目立った投稿がないか注意を払う。
 すると、数件の似たような写真が目に止まった。弾痕の形が残る監視カメラだ。
 これはいつぞやの商店街で、証拠隠滅のためにフィアスが撃ち抜いたカメラの残骸だ。店を営む何人かが、発見時に写真を撮ってSNSにアップしたらしい。
 そうだな、これを聞いておこう。
「銃撃事件は増えてない?」
――ああ、それな。増えてんぜ! 派手などんちゃん騒ぎの割に、死体が全然出てこねぇ。
 真一は警察が嗅ぎつけた銃撃事件の場所を聞く。荻野刑事の知る範囲内だと、三件の事件を警察側は掴んでいるようだ。始末屋の隠蔽ミスは、夜襲の20%ほどで、すべてが偶然弾痕を見つけた市民からの通報だった。
 中でも酷かったのは、やはり磯子の商店街の事件だった。
「SNSで壊れた監視カメラの写真がいっぱい出てきたよ。スラム街みたいな商店街の写真もさ」
 野次馬のやつらめ、と荻野刑事は舌打ちする。
――あれだけのドンパチで、死人が出ねえことあるか? ルミノール反応でもばっちり致死量に近い血痕が出てきたってのに、マジックみてぇに死体だけが見つからねぇ……ところで、兄チャンは元気か?
「なんだよ。突然、ホームズの話?」
あははは、と笑いながら脇の下に次から次へと汗が湧く。
 荻野刑事、あの商店街の事件がフィアスと関係があることに気づいているのか? もし気づいているのなら、やばくないか?
 真一の内心を知ってか知らずか、荻野刑事の調子は変わらない。
――いや、死体の話をしていたら、ふと思い出してな! 黄金町の腐乱死体であの兄チャンぶっ倒れただろ。あれから具合は良くなったか?
「全然良くなってないよ。ずっと引きこもっているから、俺も最近会ってないな」
――なんだよ、寝込んでんのかよ! ホームズの名推理で、消えた死体を見つけ出して欲しかったんだけどな。いかにもミステリーな事件だしよ! 俺的には、お前らでぱぱっと解決してくれって感じだな!
 最後の一言は本心なのか、荻野刑事はかくべつ力を込めて言ったように感じられた。
 本人に伝えておくよ、とどうにか返事をし、その後、二、三の適当なやりとりを交わして電話を切った。
 折りたたんだノートパソコンの上に電話を置いて、真一は考える。
 荻野刑事、気づいてんのかな。気づいてそうなんだよな、俺たちがシャーロック・ホームズ側じゃなくてモリアーティー教授側であることに。「毒をもって毒を制す」というやつなのか、気づいていながら目をつぶっているような気がする。
 ぱぱっと事件を解決か、と真一はつぶやく。
「ぱぱっとねぇ……それができたら俺らも苦労しないんだけどさ」
そこで真一は思いつく。ぱぱっとって……凛のパパ問題はどうしよう。
 ほぼダジャレ的な連鎖反応だが、龍頭親子の件は、自分がなんとかしなければならない。
 とりあえず警察側の進展も聞けたことだし、フィアスから頼まれたミッションはクリアした。ただちに次の任務へ移ろう。
 真一は携帯電話を取り上げ、笹川組の若衆の一人を適当に選んで電話をかける。用件を伝えたあと、今度はメッセージツールで茜に連絡を取った。
 十二時に縁側に来れないか?
 女子高生のSNS反応の速さは音速に等しい。「授業中にメッセージすんな! ボケ!」という返信がすぐさま届き、中指を突き立てた絵文字が続け様に流れてきた。文面でも恐ろしい女だ。気の強さは荻野刑事の奥さん譲りだろうか。
 授業中にメッセージすんな! と言われたが、どうせ授業なんて真面目に受けていない。先ほど部屋の前を通りかかった時に、凛と茜の話し声が聞こえた。オンライン授業の外側で、女の子たちは今日も仲良くつるんでいる。
 真一は続けてメッセージを打った。
 うまいもの食わせてやるよ。
「十二時で了解!」という返信と、今度は親指を突き立てた絵文字が光の速さで届く。
 相変わらずげんきんなやつだ。その食い意地を学力と女子力に振れよ、と思う言葉はメッセージに宿さない。
 代わりに真一も親指を突き立てた絵文字を返した。