とにかくこれでカタがついた。凛と真一。今日も彼らは、一之瀬が警備する笹川邸の敷地帯から一歩も外へ出ないだろう。
 アジトへ車を走らせながら、フィアスは煙草の煙を吐き出す。
 完全な単独行動は久しぶりだ。
 遠い昔に思えるが、一年半前はこの状態が普通だった。一人で行動し、一人で仕事をこなし、一人で仮住まいのホテルに戻ってきた。
 日本――彩の復讐を果たすつもりでやってきた異国の土地。幼少期を過ごした場所といえど、記憶を失って戻った日本は未知の国だった。中でも横浜は、十代を過ごしたマンハッタンとは違う海の匂いがした。
 この場所で彩は生まれ育った。双子の姉妹である凛と一緒に。
 彩のことを愛していた。
 友達よりも、家族よりも、自分よりも。
 愛する人のことをもっと知りたい。そんな気持ちはいつもあったが、彼女の生い立ちについては触れなかった。恐れではなく思いやりから、過去を問わない方が良いと感じた。
 彩もこちらの過去について、一度も詳細を尋ねなかった。
 傷ついた人生を抱えたまま、他の誰とも交われない特殊性を共有し合う。それで十分だった。寄り添っているだけで、互いの欠落を補完しあえた。
 半壊した過去なんて関係ない。俺たちには未来がある。誰にも傷つけられていない、真っ白な未来が。
 しかし、その未来も真っ黒に塗り潰された。
 彩の死は人生を覆す大きな出来事だった。
 その打撃は八歳で彷徨った死の境より、何倍も大きかった。
 慟哭どうこくにならない慟哭、身体が半分消し飛ばされたような痛み……そして、焼けつくような怒り。
 彩を殺した犯人を探す過程で、初めて人を殺した。二人。金品狙いのギャングに絡まれ、何もかもがどうでも良くなりながら銃の引き金を引いた。
 彼らは事件とは無関係の、つまらない小悪党だった。
 それでも、殺人を犯したことに変わりはない。
 この一件で、彩殺しの犯人を捕まえることが困難になった。先制は相手だったが、彼らが持っていたのは脅迫用の小型ナイフ。対して、こちらは38口径のリボルバーで迎え撃った。どう見てもこの抵抗は過剰防衛だ。逮捕されれば、数年から数十年の実刑はまぬがれない。
 そもそも、彩のいないこの世界こそが牢獄で、余生という終身刑は既に言い渡されている。
 それなら、さっさと同じ場所へ行った方が良いんじゃないかと考えた。
 フィオリーナに拾われたのは、逃亡の最中さなかだった。彼女は向こう側・・・・の世界から、こちら側・・・・の世界へと橋を渡してくれた。そして、こちら側・・・・で生きる術を教えてくれた。依頼者との安全なやりとり。警察時代には使ったことのなかった銃の使い方。ありとあらゆる殺し方から証拠の隠滅方法まで。
 仕事の際に込み上げる様々な感情の対処法を教えてくれたのも彼女だった。
「距離をとればいいの」とフィオリーナは言った。
「人を殺すことに抵抗があるなら、殺している自分から距離をとりなさい。そうね……貴方の場合は、氷越しに見るようにしましょう。静かな湖中に沈んで、氷の貼った水面を見上げる。氷の壁の外側には、人殺しの貴方がいる。わたくしの言っているイメージ、伝わるかしら?」
「自分の中で氷の壁を作る?」
「そう。自分を二つに切り分ける」
「難しいな……」
「次の仕事でイメージしてみて。慣れてきたら、感情とも距離をとれるはずですから」
 この方法は上手く行った。感情と距離ができた。喜怒哀楽、倫理、道徳、罪悪感に潰されることなく、あっという間に、かたきちに必要な金が手に入った。裏社会で身を立てる手助けをしてくれた上司には申し訳なかったが、行方をくらまして、日本へ向かうことに決めた。
 感情から距離をとることは、仕事をする上で非常に便利な心理術だったが、弊害もあった。
 距離をとった感情が戻ってこなくなることだ。
 誰かを殺すことへの躊躇や罪悪感はいらない。距離をとったまま、二度と戻ってこなくて良い。それよりも、自分の本当の恨み、本当の憎悪、本当の苦痛、本当の復讐心を、氷の壁の外側から取り戻したい。
 それは、人を殺す前から抱えていた、彩をいたむための感情だ。
 愛おしい悼みを、手放すわけにいかない。

 フィルターまで届いた煙草を車内灰皿に押しつぶし、二本目に火をつける。
 この間まで誰彼構わず寝まくっていたなと、フィアスは思い出した。
 仕事が終わるたび、必ず女を抱いていた。
 試行錯誤しこうさくごの末、セックスが感情を取り戻すのに効果的な手段だと分かったのは数年前だ。
 死の方向へ振り切ったメーターを元に戻すため、生に関する強烈な刺激を与える。
 何度も繰り返すうちに、その行為は儀式に近い様相を帯びた。猟奇殺人犯が被害者を殺したあとで死姦しかんしたり、その肉を食らったりするのと同じだと認めざるを得ない。標的に対しては息の根を止めた後でどんな冒涜ぼうとくも犯していないし、女と寝るのも合意の上だったが、とにかくその一連の流れが本来の自分を取り戻すために必要だった。
 女であれば誰でも良かった。人種や年齢、外見にこだわりはない。合意の条件は金銭が大半だったが、時には外見を気に入られて一夜限りの関係を持つこともあった。
 ほとんどの相手とは一度だけで縁が切れた。
 儀式行為。距離をとった感情を、自分の中へ戻すための儀式行為。
 感情は、刹那的な刺激とともに戻ってきた。快楽と、虚しさと、彩を殺した人間に対する激烈な憎悪。吐き気がするほどその瞬間は気分が悪いが、これで仕事が終わったのだと自分の中で区切りがつく。
 セックスが終わると、その行為の激しさに怯えたり苦しんだりしていた女に謝罪し、本物の恋人同士みたいにじゃれあったり、優しく二度目も行える。そんな風に誰かと寝ないと、自分の感情が永久に戻って来なくなりそうで怖かった。
 喜びや楽しみや悲しみはどうでも良い。むしろ消えてなくなれば良い。ただし、彩を悼む気持ちだけは維持し続けなければならない。復讐を果たすために。
 それが、俺がこの世界に生き残っている理由。唯一のアイデンティティーだ。

 ……あれが一年半前のことだなんて、信じられない。
 紫煙をふかしながら、やばいな、と独り言がこぼれる。あの時代の俺はやばかった。荒れ果てていた。救いようがないほどに。
「いちゃつきながら、健康診断をしないで」と言っていた凛の言葉が思い出される。
 彼女の冷え性を説教できるほどの健康さは俺にはない。特に肺機能においては今なお迫害中だ……フィアスは中盤まで吸いかけていた煙草に目を移し、不本意ながら灰皿に押しつぶす。それから現恋人のことを考えた。
 龍頭凛。彼女と寝たいと思わないのはなぜだろうか。
 復讐劇に関係がないから、というわけではない。シーサイドタワーでネオに撃たれ、いよいよ死を覚悟したとき、彩に対しての想いが消えた。くすぶっていた復讐心は過去のものになっていた。五年間抱え込んで、意地になって保ち続けていた強烈な感情を手放してしまった……というより、跡形もなく消失してしまった。
 なぜ復讐心が消えたのか。それはよく分からない。ただ、きずりの女と寝ることはもうないだろうと感じる。この仕事が終わったら、本来の自分を取り戻す必要もなくなるからだ。
 それよりも、龍頭凛。
 凛に対する愛情は、性欲と直結していない。
 出会い始めはほんのわずかな欲望があった。彩と外見が酷似こくじしていることは悩みの種ではあったが、双子といえど性格も考え方もまったく違う別人だし、何より彼女は組織の娼妓しょうぎだった。凛自身が身につけた女の武器を使って、護衛中に誘惑してきた。誘いに乗って寝ようと思えば寝ることもできたが、ガードする相手と肉体関係を持つことはポリシーに反していたので控えた。
 今でも彼女は護衛対象だが、親密な関係になってしまったため、個人的なポリシーに固執していても仕方がない。彼女は欲求不満を感じていて、今朝のように戯れてくる。可愛いなと思う割に、欲望が湧かないのはなぜだ?
 自分の後天遺伝子が遺伝子注入とは別の形で作り出されるかも知れないという懸念もあるが、それを除いてもまったくその気にならない。凛とセックスしたいと思わない。今朝はあんなに近くにいたのに、キスしただけで満たされた。しかもそのキスも欲情に駆られたものではない。
 強いて言うなら、恋人が喜ぶので応えているだけだ。
 凛の喜ぶ姿を見ると自分も落ち着く。幸せそうで良かったな、と思うとき、おそらく自分も幸せなんだろう。
 そこには確かな愛情がある。しかし、性欲はない。性欲にともなう身体反応などまったくない。
 これはこれでやばいんじゃないか。彼女にもバレているだろうし……煙草を持っていた手でフィアスは頭を掻く。そういう問題で悩んだことは今までにあっただろうか。過去を辿るが、思い当たる節はない。
 その後で、ふと別の考えが思い浮かぶ。
 後天遺伝子の生き延びる反動。それは理性を失い、人を殺しまくることだ。そしてこの遺伝子は、遺伝子注入トランスフェクションで仲間を増やすことができる。わざわざ子孫を作る必要がない。
 必要のない本能は消去された。新しい繁殖機能が備わった代わりに。
 後天遺伝子が覚醒したことで、人間を含むすべての動物の持つ生殖本能が、殺人衝動に切り替わっているとしたら?
 各学説で否定されがちな「キラーエイプ仮説」が後天遺伝子に限って適用されているとしたら?
 フィアスはハンドルを握りしめる。その考えを振り払うように首を振る。
 愚かな考えだ。こんなもの、仮説ともいえない。ただのペシミズムな空想だ。
 しかし……しかし、もし仮にこの空想が当たっているとしたら、殺人からの揺り戻しのセックスをしていた時代の方が、まだ救いがある。
 殺人欲求と性的欲求が入れ替わるなんて、それこそ猟奇殺人犯の典型じゃないか。
「分からない……」とフィアスはつぶやく。
 自分の感情、自分の身体、自分の本能の行末がまったく分からない。
 殺人現場の再現や戦闘時の赤目の動きは予想がつくのに、一番身近な自分については分からないことだらけだ。

 ドイツにいる科学者ども、早く後天遺伝子の謎を解明しろと思いながら、フィアスは科学館の駐車場に到着した。