フィオリーナを追い続ける日々。真夜中の鬼ごっこが繰り返された。
彼女たちの計画は周到さを増していた。警察に嗅ぎつけられないように、
フィアスは二度、両腕両足を折られ、頭を撃ち抜かれた死体に遭遇した。また、彼女たちは死体の処理にも気を配るようになった。顔見知りの始末屋が、置き去りにされた死体を
彼女を捕まえるためには、「狩り」の最中に飛び込んで、少年少女を相手にしなければならない。フィアスもこれまでに何匹かの獣を殺した。負った傷は腕を掠めた銃弾一発だけ。しかし、その一発を受けた瞬間、敵の頭が吹っ飛んだ。
女神の守護は絶対だ。決して姿を見せないが。
戦闘があった早朝、シドから連絡があった。フィアスは眠っていた布団から半身を起こして、その電話に出た。
コンがアジトに来ている。お前に話があるそうだ。急展開になると良いが。シドは淡々と言ったが、その声は現状打破を願う気持ちを隠し切れていなかった。
すぐに行く。七時には着くと思う、とフィアスも無感情に返事をしたつもりだった。
が、そのように聞こえなかったらしい。シドは少し間をおいて、つけくわえた。
――大丈夫か? いくらお前でも、これだけ銃撃戦が続けば疲れるよな。
「俺が疲れてるって?」
――余計な世話だ、と言ってくれるな。フィオリーナはともかく、このやり方は過酷すぎる。声から疲労が滲み出てるぞ。
「シドの勘違いだろ」
――そうだな。勘違いだな。それじゃ、予定時刻も勘違いしよう。コンとの会合は十四時だ。お前はそれまでのどかな日本庭園を見ながら抹茶でも飲んでろ。
そんな趣味はない、と答える前に電話が切れた。
まったく余計な世話を焼く、と思いつつ、胡乱な眠気がいつまでもまとわりついていることも確かだ。昨日の鬼ごっこの終わりは深夜一時。
五感を最大限に活用して、彼女たちより先に二匹の獣を殺した。
この仕事は、自分が得意とする暗殺や抗争の鎮圧ではなく、民族統制に近い。早い話が戦争、それもゲリラ戦だ。
警察の仕事と軍人の仕事が違うように、戦いにも得手不得手がある。後者の戦いを得意とする同勤は、アフリカやイスラム圏の某組織に傭兵として雇われている。まさか日本でジェノサイドが起こっているなど、露ほども思っていないだろう。
日本に狩場があると気づいて、フォックスのように押しかけられても困るが……。
かつて数度参戦したアフリカでの傭兵経験を思い出していると、忍びやかに廊下を歩く足音が聞こえた。音というよりにおいで分かる。
凛が傍にいる。
彼女は部屋の前で立ち止まると、フィアス、と囁くような声をかけた。
「聞こえているよ」
薄ぼんやりと人影を映す、障子に向かって答える。この声も疲れているように聞こえるだろうか。
「入ってもいい?」
「スーツを着るまで待てないかな?」
「待てない」
「それならどうぞ」
すすす、と体の横幅程度に障子を開けて、凛が入ってきた。さっと身をかがめて、再びすすす、と障子を閉める。
すごいな、ニンジャみたいだな、と寝ぼけた頭で眺めていると、彼女はすっくと立ち上がった。生地の薄いワンピースの裾がひらりと舞って、白い脚が背景の障子に同化した。
今日の凛は白いワンピースに
凛は布団の前で正座をすると、あぐらをかいたフィアスの顔を見上げた。大きな瞳は好奇心に輝いているが、表情自体は緊張と不安で
「ねぇ、昨日の夜のこと、覚えてる?」と訝りながら凛は切り出した。
先ほどまでシドと話していたフィアスは、「昨日の夜」と聞いてぎくりとした。
フィオリーナを捕まえる作戦がついに彼女の耳に届いたかと思うと、いやでも身体に力が入る。
凛は姿をくらましたフィオリーナを心配し、フィアスが捜索を行なっていることも知っているが、深夜の銃撃戦やそれにともなう鬼ごっこのことは知らない。夜は眠りに就いているか、庭先の見張りをしていると思っている。彼女の心に心配の種を
幸いにも出現する赤目は銃器を振り回したいだけの素人に近い戦い方をするし、フィールド全体をコンが見張っているので、
今のところは問題ない。疲れるが。というのが、一連の戦いにおけるフィアスの総論だ。
「昨日の夜のことというと?」
何食わぬ顔で聞いてみる。
「昨日の夜のことよ」とよく分からない返事が返ってくる。
凛は目を伏せて、がっかりしたように肩を落とす。
その仕草で、ハッと思い出す。
問題はそっちか。
「覚えてる……けど、覚えてないな」
「何も覚えていないの?」
「いや、君の部屋にいたことは覚えている。悪かった」
フィアスは金の髪を掻く。思い出そうとしても思い出せないのだ。
昨日の夜……というか明け方、気がついたら凛の部屋にいて、自分を見つめる黒い瞳と目が合った。
お互いに、もはや驚くこともない。いつもと同じく、微かな自己嫌悪を抱えて部屋を出た。
こんなことが深夜行動を始めてから繰り返されていた。
赤目を退治した後で、こっそりと笹川邸に戻り、身支度をして眠りにつく。もちろん、自分の部屋でだ。
しかし、気づくと凛の部屋に横たわっている。その間のことは何も覚えていない。
目が覚めるのは、日が昇る前か早朝。凛が先に目覚めると、普段着に着替えて、メイクをして、時にはお茶を飲みながらフィアスが起きるのを待っている。フィアスが先に目覚めると、彼女は両腕の中ですやすやと眠りについている。
初めてそれが起こったとき、思わず悲鳴をあげかけた。寸前のところで息を呑みこみ、自分が服を着ているかどうか確認した。軍事仕様のメッシュのTシャツに、黒のハーフパンツ――今と似たような、寝る前と同じ衣服を身につけていた。
次におずおずと布団をめくって凛の格好を確認した。そのときの彼女は時藤家から持ち出した薄紫色のシルクのパジャマを着ていた。お互いが衣服を身につけていることに安堵し、最後に眠っている場所を確認した。
視線を走らせるより先に匂いで分かった。ここは凛の部屋だ。
つまり、凛が自分の部屋に忍び込んできたのではなく、自分が凛の部屋に忍び込んだのだ。
ありがたいことに彼女が熟睡していたので、物音を立てず部屋を抜け出し自室に戻った。疑問と不安が入れ替わり立ち替わり頭を支配して、その日は部屋に戻っても眠れなかった。
さらにひどかったのは翌日だ。今日のように上機嫌な凛が部屋に訪れ、昨晩のことを問い正された。
ねえ、なんで
むしろ、聞きたいのはこっちの方だ。どんなに強い酒を飲んでも記憶を飛ばしたことのない自分が、完全に無自覚の状態で動き回っているなんて信じられない。そして毎回同じように凛の部屋へ向かうなんて理解不能だ。
せめて縁側だろ、とフィアスは思う。
縁側に行けよ、俺。わざわざ地雷原に向かうなよ。面倒事になるくらい、意識がなくても分かるだろ。
縁側に行って、座禅でも組んでろよ。
「なんで謝るの?」
悶々と考えにふける恋人を現実へ引き戻すように凛は尋ねる。
「恋人同士だし、悪いことではないと思うけど?」
「いや、勝手に女性の部屋に入ったから。それで気を悪くしたら、申し訳ないと思って」
「あたし、全然気を悪くしてない。むしろ嬉しく思ってる、フィアスが来るたびに」
「そ、そう……」
返事に窮すフィアスを楽しそうに見ながら、凛はその首に抱きついた。
キスしたら許してあげる、という言葉は最初に聞いただけだ。言わなくても分かるでしょ? と猫のように細まった目で問いかけてくる。
言われても言われなくてもキスをすると、彼女の匂いが濃くなった。果実ではなく花の香り。その体臭は、彼女自身には分からない。
苦しいくらい好きなこの香りは、自分にしか嗅ぎ取れないものだ。
どうして凛の部屋に行ってしまうのか。意識を失っている間、その部屋では何が起こっているのか。詳しく事情を聞きたいが、聞いたところで既成事実を作られそうな気がする……などと思いを馳せながら、凛を抱き上げて、顔や首筋のいたるところに口づけた。謝罪に近いスキンシップだが、彼女もそれを分かっている。分かった上で嬉しそうに抱きついてくる。許しを乞う意味のキスは足の甲にするものだが、白い足は氷のように冷たい。足先だけでなく、手も冷え切っている。
「もっと厚着した方がいいぞ」
細い体を抱きかかえながらフィアスは言った。
「冷え性。基礎代謝が低い証拠だ。厚着して、甘い物を控えて、運動しろ」
「いちゃつきながら、健康診断をしないで」
耳元でくすくすと笑われる。今度は彼女からキスの雨が降り注ぐ。
これで五回目だ。五回凛の部屋に行き、五回問いつめられて、五回謝罪に近い形でいちゃついている。主導権においては常に彼女に握られっぱなしだ。
こういう時だけいつもの立場が逆転するのも妙だな、とフィアスは思う。
部の悪さはこちらにあるので、彼女の気が済むようにさせてあげれば良いのだが、少しだけ納得が行っていない。
いよいよ本気になりそうなところで、凛はキスをやめた。
そうそう、と思い出したようにつけくわえた。
「それなのよ。冷え性。今日は貴方に温めてもらいに来たんだった」
抱擁を解くと、猫のように素早い仕草で、布団の中へもぐりこむ。おやすみ、とにっこり笑って目を閉じる。
「ちょっと待て。ここで寝るなよ。それはさすがに困るよ」
「どうして? 恋人なんだし良いじゃない」
「そういう問題じゃなくて……」
「誰かに見られるのが恥ずかしいの? 誰も来ないわよ。みんな、貴方の部屋に入ったら撃ち殺されると思っているんだから」
「ヤクザたちは俺のことをそんな風に見ているのか?」
「知らなかったの? ここは横浜のエリア51。そして貴方は宇宙人」
それにね、と凛は付け加える。
「ちょっと検証したいことがあるのよね」
「なんの検証だよ……」
自室に帰れという説得を半ば諦めかけているフィアスに、「秘密」と凛は答える。
秘密……秘密か。女の子は秘密が多い生き物なので仕方がない。
おいで、と開いた両腕へ、不承不承入り込むと、ぎゅっと抱きしめられた。頭のてっぺんにキスをされて、よしよしと後頭部を撫でられる。母親と子供みたいな愛情の寄せ方だ。不本意な感じがしたので、彼女の腕を解いて対照的に抱きしめた。
「言っておくけど……」
「セックスはなし」
「そう。残念なことに」
「貴方は残念そうに見えないのよね、残念なことに」
腕の中でもぞもぞと凛はつぶやく。黒い目がぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、フィアスを見上げる。
「キスはOK?」
「さっきしただろ」
「ペッティングはOK?」
「時と場合による」
「してあげようか?」
「今はいい」
さらさらした黒髪を撫でながら、あくびを噛み殺す。凛の手が腕に触れる。体温を分け合って、先ほどよりは温かだ。
「眠い?」
「眠い……」
そうだ、とても眠い。連日の銃撃戦で肉体が疲労している。シドには強気な態度で出たが、何事もなかったようには振る舞えない。
反射的にトータルで殺した獣を数えようとしてやめた。こういうときに数えるのは、獣ではなく羊の数だ。
顎の下に見える黒髪のてっぺんが、昇り始めた朝日に照らされて輝いている。密着した彼女の身体から、花の香りが立ち昇る。
フィアスは凛の頬に触れると、顔を寄せて口づけた。
凛が好きだ。彼女の賑やかさと裏腹な脆さは向き合うことに勇気がいるが、その一挙一動は好ましい瞬間の連続だ。
恐怖に歪められていた彼女の人生は、そろそろ軌道修正されて良いころだ。これ以上、恐ろしいものを見る必要はない。誰かの欲望に従う必要もなければ、生命の危険に怯える必要もない。そのために出来ることがあるなら何でもする。
そう思えることこそ、彼女が好きないちばんの理由だ。
夢と現実の境目が曖昧になる。
ため込んでいた疲労につぶされるように、フィアスは意識を失った。