「あたしと正宗が再会したことには、意味があった」と凛は言った。
 正宗との話し合いが終わった直後のこと。客間の一室を借りて、忘我状態ぼうがじょうたいの凛を横たわらせた。彼女は不思議な顔でフィアスを見上げた。
 あたし、どうしてここにいるの? あたし、どうなっているの? あたし、何をされているの? 
 まるで見慣れない場所へ連れてこられた猫のように混乱していた。
 これまでのことを話してほしいと言うので、フィアスは話して聞かせた。正宗が笹川組にいる理由。自分たちが笹川組にいる理由。そして親子再会までの経緯を。
 話の最後に「正宗との話し合いが終わった後、君は精神的に参ってしまったのでこの部屋を借りて休養を取らせてもらうことにしたんだ」と付け足した。
 事の経緯を説明している間、脳裏に不思議な空想が浮かんだ。
 海の底の、打ち砕かれた貝殻。
 き出しになった肉はぼろぼろに傷つき、剥がれた肉片が海水に溶け込むように白いもやを作り出している。そのイメージは動きをともなって鮮明に頭の中を流れた。しかし、話を続けるうちに、壊れた貝殻の破片が徐々に集まり、新たな外被がいひを形成した。
 絵に書いたような貝のイメージになった。
 ただし、すべてが固まっても、元の姿とまったく同じとは言えない。
 打ち砕かれた亀裂は、修復後も色濃く残っている。
 この空想は、なんなんだ……。
 話の中盤からうとうとし始めた凛は、話が終わると同時に深い寝息を立て始めた。後に十二時間眠り続けることになる、長時間睡眠の始まりだった。その寝顔はすやすやと穏やかで、体温も脈拍も正常値を保っていた。
 フィアスは30分ばかり側にいて、目覚める気配がないことを確めたあとで部屋を出た。
 五感を開い・・・・・て、自分と同じ銘柄の煙草がどこから匂ってくるかを突き止めた。
 正宗は縁側に出て、日本庭園を眺めていた。
「またその話かよ」
 声を掛けると、正宗は奇妙な返事をした。
 フィアスは床に片膝をついて、面倒臭そうに頭を掻く正宗を見据えた。
「リンにどんな話をした?」
「その前にちゃんと座れ。お前は忍者か」
正宗の隣にあぐらをかく。差し出された煙草を断って、自分の煙草に火をつけた。
 同じじゃねぇかよ、と「JUNK&LACK」をくわえながら正宗はもぞもぞと言った。
「本筋は変わらねぇよ。あの収容所にいたときに話した内容が大半だ。他に付け加えたのは、彩と凛の幼い頃のエピソードや、俺のヤクザ時代の話とか、俺と嫁とのめとか……取るに足らない家族の思い出話だよ」
「本当にそれだけか?」
 今にも銃を取り出さんばかりのフィアスを見て、正宗は鼻で笑った。対抗するように紫煙を吐きかけ「それだけだ」と答えた。
 疑り深いのは職業病か? それとも陰気な性格か? と攻撃的な笑顔で聞いてくる。
 煙を手で払いながら、正宗は嘘を吐いていないと直感した。だいたい実の娘にショッキングな態度をとって、この男になんの得があるというのか。増して、ここは笹川毅一が取り仕切る威圧的な空間。下手な真似は出来ない。
 熟考するフィアスを見て、正宗は面倒臭そうな顔をした。
「普通に考えろよ、普通に」と自分のこめかみを指でつついた。
「てめぇを組織に売り渡してひどいめに合わせた父親が、いきなり目の前に現れて、てめぇを売り払った経緯を事細かに説明したんだぜ。たとえはがねの心臓を持った神経の図太い女でも、ぶっ倒れて当然だろ。ふんふん、そうだったのね! 昔話を聞かせてくれてありがとうお父さん! ……なんて、言うわけねぇだろうが」
「お前はそんな口の利き方で、リンに話をしたのか?」
「内容の次は、話し方の確認か? ここは社会人のマナー教室か? あいにくだが、俺は言いたいことを言いたいように言う。凛に話したときも、好き勝手に言わせてもらった。まあ、上品か下品かで言うと、かなり上品な方だったと思うぜ。そんじょそこらの女を口説くどくより、優しい言葉を使った。ただし、真実は余すところなく伝えた。それが俺の役目だと思ったからな」
正宗は吸殻を軒先に捨てて、フィアスを見た。
「ちなみに、お前に対する言葉の使い方は下の上だ。野郎の中でも上品な方だぜ」


 眠りについた五時間後、フィアスは目を覚ました。腕の中の彼女はすやすやと眠っている。起こさないように腕枕をそっとずらして、体温のこもった布団から抜け出した。
 太陽はすっかり昇り、部屋一面にうららかな光がさしていた。
 スーツに着替えて身支度を終えたころ、うっとりとした彼女と目が合った。
「おはよう」と微笑んでくる。
「ああ、おはよう」
ぎこちなさを感じながら挨拶をすると、凛はくすりと笑った。大丈夫、あやまちは起きてない。寝起きのかすれ声に、苦笑いを返すことしかできない。相変わらず、コメントに困ることを言う。
 今日の予定を伝えて、凛の予定も聞いた。彼女は「茜ちゃんと勉強をする」と言った。
 テロの影響から茜の授業はオンラインに切り替わり、登下校の必要がなくなった。凛は気が向いたときに茜の部屋に行って、ノートパソコンの画面外から授業を聴講ちょうこうしている。
 もっとも彼女の関心事は勉強それ自体ではなく、「学校」というシステムにあるようだ。
 学校っておもしろい。同じ年齢の子たちが、同じ服を着て、同じ時間に、同じ話を聞く。「学生」っていう、人間とは別の生き物みたい、と独特な感想を伝えてくる。それから真面目な顔をして授業を受けている茜ちゃんとメモ書きでどうでも良い会話をするのが楽しい、と笑う。これが普通の子たちの日常なのね、と。
 彼女は普通のことを学んでいる最中らしい。最近の凛はとても楽しそうだ。
 目に映るものすべてが新鮮で、驚きの連続なのだろう。学生にとっては飽き飽きするほどの日常が、彼女にとっては楽しいことだらけの非日常。その非日常がいつか日常になると良いな、とどちらの世界も経験しているフィアスは思う。彼女は、向こう側・・・・に行った方がいい。
 凛と別れ、真一に電話を掛ける。
 お前は今、どこにいる? と尋ねるのは面倒だ。
「目の前にあるものを手短に伝えろ。俺がそっちに行く」
――ええっと、うちの黒電話が……。
「そこで待ってろ。絶対に動くなよ」
 広大な屋敷の間取り図を思い出し、目印の元へ向かう。自他共に認める超・方向音痴の真一は実家の中でさえ迷子になる。あいつの三半規管さんはんきかんはどうなっているんだ、とこれまでに数百回感じたことを感じながら、電話のある場所にたどり着く。
 おーい、こっちこっち! と街中での待ち合わせと同じく、真一は大きく手を振った。
「いつも迎えに来てもらって悪いなぁ」
「まったく悪いと思ってないだろ……まあいい。これからアジトに行く。コンが来ているようだ」
コンの名前を聞いて、真一は息を詰まらせた。あのパンク女か、とげんなり顔でつぶやく。
 埠頭の一件を未だに引きずっているのか、コンとヨンの名前を出すと、真一はあからさまに怖気おじけづく。非人間的な彼らの性質と相性が悪いようだ。真夜中の襲撃の際にも、あのパンク女に撃たれないか? と赤目よりも狙撃手の心配をしてくる。
「ついて来なくて良い」と言えば、いつもの相棒精神で「俺も行く!」と意固地になるだけだろう。
 お前には別件で頼みたいことがある、とフィアスは切り出した。
「荻野刑事に連絡をとって、警察側の捜査状況を聞いておいてくれ。最近の夜襲で嗅ぎつけられた事件があるかもしれない」
コンに会わなくても良い大義名分たいぎめいぶんを作ってやったが、実情、気がかりではある。
 現場観察を打ち切ってから、警察の動向はメディアを通じて知るだけだ。
 始末屋が儲け始めてから、各ニュースは連続して起こった六件の未成年殺人事件の復習ばかりを報じている。
 七件目が警察側に察知されていないと良いのだが。
 真一は目をきらきらさせて「任せろ! 絶対に情報を掴んでくるぜ!」と意気込んだ。コンに会わない嬉しさ以上に、使い走りではない任務を託されて喜んでいる。
 情報だけではなく、フリスビーを投げても取ってきそうだな、とフィアスは思った。