六時間ほど監視映像の観測をし(爆睡していたシドも起こし)、フィアスと真一はアジトを出た。
 まぶしい夕日が森一面に降り注いでいた。時刻は四時二十分。ここから笹川の家まで一時間程度の距離がある。
 太陽の動きとともにグラデーションを描いてゆく黄昏を浴びながら、フィアスは今夜にもフィオリーナと再会できる気がした。
 だが、それは夜が迫る度に考える、連日の夢想に過ぎなかった。
 彼女が別れを告げてから三週間が経過した。進展のない日常の中で、別離の瞬間が嫌というほど追想された。
 蜘蛛の巣のように複雑なレースがあしらわれた黒いドレス。剥き出しになった肩先の、人骨のように白い皮膚。ブルーヒューの眼差しと、その奥に隠された真っ赤な虹彩。
 そして、首筋に光っていた、淡緑色たんりょくしょくのヒスイ。
 フィオリーナを抱きしめたとき、フィアスは気づいた。ルディガーはもう一つの遺志を持っていたのだ、と。
 科学的な理屈ではない、死者の声を聞いたわけでもない。彼とのあらゆる思い出の中から導き出した、納得のいく結論だった。
 後天遺伝子は先天遺伝子を駆逐する……それでも、フィオリーナを守りたい。
 相反あいはんする二つの望みを、ルディガーは抱いた。
 そして、その望みを息子に託して死んだ。
 復活した八歳以前の記憶に思いをめぐらせながら、フィアスは煙草を吸った。
 ルディガーの我が子に対する接し方は誠実で優しかったと、頭に流れる記憶の映像を客観的に見続けて思う。子供と過ごした八年という歳月は、彼の人生でも幸福な期間だったのだろう。⁠⁠記憶の大部分で、ルディガーは喜びと楽しげな驚きを持って自分を見つめていた。
 だからこそ、ニューヨークへの逃亡の最中、その願いを託さざるを得なくなったとき、あんなにも苦しげな表情を見せたのだ。Verzeihung許してくれとつぶやきながら。
 そんな顔するなよ、ルディガー……フィアスは父親との最後の記憶に向かって言いたくなる。
 最初からこうなる運命だった。深刻な謝罪は必要ない。俺もここに来るまでに、様々な景色を見せてもらった。その景色はあんたの願いを叶える対価と釣り合わないほどの絶景だった。
 あとは全力を尽くして、意志を継いでやるから。形而上的などこかで見てろよ。
 フィルターまで届いた火種を車内灰皿に押しつぶす。
 いつもの騒がしい声がまったくしないことに気づき、助手席を見ると真一が眠っていた。前屈みに身体を傾かせ、完全に熟睡している。早起きの刑事たちに付き合わされて、今日は早朝から動いていた。温かな夕日を浴びて気力が尽きたのだろう。煙草くさい車内に気づくこともなく、ぐうぐうと寝息を立てている。
 相変わらずだな、と思いながら窓を開けて紫煙を逃した。二本目を吸いながら、平坦な道のりを片手運転で走り抜ける。
 対向車も先行車も後続車もいない。テロリズムはまだまだ続く。
「俺たち三人が、どうやったらこの問題を乗り越えられるか考えよう」フィアスは小さな声でつぶやいた。
 ……お前は、どんな答えを出すんだろうな?
 横浜市内に差し掛かるまで、真一は眠り続けていた。


 真一は車から降りると、うーんと気持ちよさそうに伸びをした。
「よく寝た!」
「ああ、よく寝てたな。よだれが座席のシートに染みるくらいよく寝てた」
鋭い視線を当てられ、真一は服の袖でごしごしと口を拭う。頬にまでよだれの痕が染みている。
「こ、今度、掃除しておくから……」
恨めしげなフィアスから逃れるように、真一は屋内駐車場を出る。
 日はほとんど暮れかけていた。空は青紫色に染まり、遠くで夕陽の橙色が消えかかっている。笹川邸を護衛しているヤクザも人影と言えるくらいぼんやりしているが、個々の仕草で誰がどの一帯を警備しているのか目星がついた。今日も何事もなく一日が過ぎたようだ。
 笹川邸に着く前に、真一はフィアスに起こされた。
 運転する自分に代わって凛に連絡を入れてくれ、とのことだった。
 安全性の理由から、凛は携帯電話を持っていない。本人は少し不満そうだが、「孤独を感じると誰かに連絡をとってしまう」という自身の衝動性を理解しているらしく、不満げな割に納得している。
 彼女との通話は笹川組の固定電話か、茜の携帯を通してやりとりされる。
 茜の携帯に連絡を入れると、近くにいたのかすぐに凛が出た。「茜ちゃんと縁側に出ているところ」と凛は答えた。
 ――見てほしいものがあるのよね。真一くんに。
 びっくりしちゃうかも、と彼女はクスクス笑った。その声は女の子らしい楽しさと秘めやかさに包まれていた。
 何らかのサプライズを用意している、と真一は気づいた。
 凛からのサプライズか……色々な意味で心臓がドキドキする。
 スピーカーにしていた携帯電話からフィアスも電話の内容を聞いていたはずだが、黙秘を決め込んでいる。鋭利な五感か、磨き上げた知性か、はたまたいくつもの死線をくぐりぬけてきたサバイバル本能が知らせてくるのか知らないが、この話題に触れない方が安全だと判断したらしい。気配すら薄めて、知らぬ存ぜぬを突き通している。
 ずるい……と真一は思った。
 縁側を見ると、凛が大きく手を振っていた。その隣には茜もいる。こっちこっち! 真一くーん! とはしゃぐ凛と対照的に茜は静かだ。両手で顔を押さえながらもじもじしている。
 凛は上機嫌に茜の両肩を掴むと、真一の方へ向き直らせた。
「見て見て! 茜ちゃんにお化粧してみたの!」
ぎゃっと茜は悲鳴を上げて、凛の胸に顔を埋める。
「凛姉ちゃん、誰にも見せへんっちゅう約束やろ! なんで真一なんか呼ぶんや!」
「だって、すごく可愛いんだもの。誰かに見せないと損よ。お洋服も似合ってるし」
「似合ってへんよ! こんなお姫様みたいな格好、ウチには似合わへんよ!」
「茜ちゃんがそう思っているだけよ。これで原宿を歩けば、たちどころにスカウトされちゃうんだから!」
前を向かせようとする凛と、凛に抱きついたまま離れない茜。きゃあきゃあと甲高い声で攻防戦が繰り広げられる。女性陣の押し合いは延々続くように思えた。
 真一はすがるようにフィアスを見た。フィアスは「突破しろ」というハンドサインを送ってきた。ぶるぶると即座に首を振る。俺は地雷原を歩く勇気はない! という複雑な意思をボディーランゲージとハンドサインの合いの子で伝える。
 その気持ちは分からないでもない、とかつて凛の地雷を踏んだことのあるフィアスは大きく頷く。ただし、助けてくれる気はないらしい。護衛してくれよ、護衛! という真一のハンドサインは無視された。
 女たちの地雷原は天候や体調やそのときの気分でランダムに埋まる場所が変わる。いちばんの回避策は、地雷が埋まっていそうな雰囲気を感じたら足を踏み入れないことだ。二人が黙しているうちに、凛と茜は次はどんな雰囲気のメイクをしようかと相談し始めた。もういいよ、ウチ似合わへんもん、と言いつつ茜の顔はまんざらでもない。変身した茜の姿を真一に見せる、という当初の目的は忘却の彼方にすっかり追いやられている。
 日が完全に沈むと、ガーデンライトが仄明るい光を放ち始めた。小散歩が出来てしまうほど広大な日本庭園の木々が橙色に輝く。
 茜との会話に興じていた凛が、話をやめて庭先をうっとり眺める。「いつ見てもきれいよね」と独りごちた後、同意を求めるようにフィアスを見上げる。
 にっこりと微笑む凛に感情のぶれはない。
「そうだな」とフィアスも頷く。
「真一、お腹空いた! 外、出とったのにお土産ないんか?」と茜がわめく。
 どうして同じ女の子なのにコイツには詩的情緒が備わっていないんだ、と真一は凛と茜を見比べる。その内心を刑事ばりの鋭い勘で茜に見抜かれ、「ウチかてこの庭きれいやと思っとる! せやからこの景色に似合う和菓子が食べたいんやー!」と理不尽に怒鳴られる。いやいや単純に腹が減ってるだけだろ、とツッコみを入れれば、その何倍もの達者な屁理屈が返ってくることを知っている真一は適当に受け流すだけだ。
 幼馴染とは言え、俺にだけ風当たりキツくない? と思う時代はとうに過ぎ去った。今では怒れる茜の適当なあしらい方を完全に体得している。「何でも屋」を始めてから様々な性格・人種の人間と付き合ってきたが、だいたいの人間と友好的な関係を築けたのも、あくの強い性格の茜をいなしてきたところが大きい。
「なんだガキども。縁側を占拠して。ここは老人がくつろぐところだろ」
 低い声が聞こえて、正宗が顔を出した。煙草を吸いにきたらしい。
 四人から距離をとって縁側の隅にあぐらをかく。くわえ煙草に火をつけて、さっそく一服し始めた。凛は素早く立ち上がると、正宗の元へ駆け寄る。隣に腰を下ろし、足の届かない縁側で白い素足をぶらぶらさせる。
「ねぇお父さん。お父さんにもメイクしてあげよっか?」
「なんでそうなる。意味不明だぞ」
「最近は若い男の子もメイクするんだって」
「それなら若い男にやってやれよ。そこに二人もいるだろ」
「絶対やだって、前に断られちゃったのよ」
「その上で、どうして俺がOKすると思うんだ?」
凛はくすくす笑う。ぷい、と外方そっぽを向く父親の顔を、楽しそうに覗き込む。まるで、猫じゃらしを揺らされた猫みたいだ。

 正宗と話し合った後、凛は体調を崩して客間の一室へ運ばれた。
 一度眠りについた後、十二時間目を覚さなかった。そして、長時間睡眠を経たあと元の凛に戻った。
 けろっとするくらい精神的にも肉体的にも不調がない、むしろいつもより心が安定していて、いつもより健康的な凛に変わった。
 凛はすぐに正宗と打ち解けた。深刻な話し合いなどなかったかのように、正宗を見かけると必ず言葉を交わして、こんな風に悪戯いたずらを仕掛けようとする。上機嫌なときに、彼女がよくやる行動だ。
 娘に対し、正宗は淡白だ。真一やフィアスと話をする時と同じテンションで接している。凛に対しても素の対応をしているのか、照れを隠すために平生を装っているのかは分からない。
 しかし、真一は知っている。
 「溝は埋まらねぇよ」と恐ろしい顔でつぶやいた正宗を。
 「この溝は未来永劫残り続ける」と預言者のように言い放った、悪魔のような正宗の笑顔を。
 彼の言っていることは正しい。絶対だ。そう思えるほど、正宗は一切の⁠⁠感情の揺らぎを⁠⁠見せなかった。どうしようもないと嘆く弱さなど微塵もなく、むしろ親子が切り離された運命に対して、真一が恐ろしいと感じたもののすべてをぶつけようとしている。
 正宗と⁠⁠サシで話したことは誰にも打ち明けていない。こんなことを誰かに――誰かというか、フィアスだろうが――話してどうするというのか。親子の溝は埋まっていないって正宗が言っていたぜ。そんな話を聞けば、フィアスは凛に対して細心の注意を払うようになるだろう。簡単に言うと、めちゃくちゃ気を遣う。
 凛の心の動きは彼にとって最大の関心事で、最優先に守らなければならないものだからだ。
 後天遺伝子のこと、フィオリーナのこと、横浜で発生中の赤目のこと、相棒には抱えている仕事が多すぎる。それらに加えて龍頭親子の問題まで打ち明けてしまったら、タスク過多でぶっ倒れかねない。
 龍頭親子の件は俺が面倒を見るしかない、と真一は密かに⁠⁠心を決めている。
 幸いにも、ここは笹川組の敷地内。正宗が何かを企もうにも、ヤクザの手前、目立った動きはできない。特に一之瀬慶一郎は、正宗の行動に関してかなり目を光らせている。目を光らせているというか、目を配っているというか。
 かつての自分若君の世話を焼くときと同じ空気が彼の周りを取り巻いている。
 ここ数日、真一はそれとなく正宗を観察した。そして、ある点に気づいた。
 正宗は一之瀬と話す時のみ態度を和らげている。武装を解⁠⁠き、全身をとりまく鋭さ⁠⁠はなりを潜めている。
 ……アイツは慶兄ちゃんに信頼を寄せているんだ。
 極道の世界で育った真一は、彼らが特定の人物に対して放つ、独特の馴染みのにおいを知っている。一之瀬と話す正宗からも、心を許した同胞に対する馴染みのにおいは伝わってくる。笹川組から破門され、十七年の時を隔てても、正宗と一之瀬の戦友の絆は切れていない。正宗は一之瀬に迷惑をかけること=笹川組の領土内で怒りや恨みを発散させる行為はしないように思う。

 真一は凛を見る。
 正宗の隣に座る凛は、無邪気さを表面に出してにこにこしている。十数年のブランクがあるとは思えない、ずっと昔から顔を付き合わせてきた親子みたいだ。ただ、ずっと昔から顔を付き合わせてきた親子のやりとりは、おそらくもっと淡白だ。
 二人の関係を外側から見ると、小さな女の子が構ってほしさに、父親に無理やり付きまとっていると見えなくもない。
 彼女の行動は本心なのか? 演技なのか? 本心と演技が混ざり合った結果なのか?
 真一は、龍頭親子の関係に対して判断がつかない。自身を振り返っても親子関係に縁がない上に、久しぶりに再開した父親と娘の距離感など想像も及ばない。その想像のつかなさはおそらく、隣に佇む相棒にも当てはまる。
 真一はフィアスを見た。
 彼は腕を組んだまま、無表情に龍頭親子を見つめていた。いつものポーカーフェイスに変わりないが、安堵している雰囲気が伝わってくる。⁠科学館では歯切れの悪い返事をしていた割に、龍頭親子の関係は「良好」と結論が出ているようだ。真一と目が合うと、不機嫌な顔で「なんだ? 俺の顔に何かついているか?」と聞いてくる。内心を探られて不機嫌になるのは、フィアスの機嫌が良いからだ。
 分かりにくいのに分かりやすいやつ、と思いながら「なんでもないよ」と真一は笑う。
 そのとき、目下から声が聞こえた。
「なんか、不思議……」
遠巻きの親子を見て、ぽつりと茜がつぶやいた。