コンが帰った後、シドとわずかな情報のやりとりをし、武器庫で弾薬を補充した。
 その頃にはすっかり日も暮れ、笹川邸に帰り着くと同時に庭先のライトアップが始まった。
 真一は屋敷内で迷子になっていた。玄関戸を開くと、長い廊下の果てに左右をきょろきょろする姿を見つけた。
「マイチ、直進はできるよな?」
呆れながら声を掛けると、ごまかすような笑いを浮かべてこちらへやってきた。話を聞くに、縁側から自室へ戻れなくなったという。
 こいつのために矢印でも描いておくか? と思って漆喰しっくいの壁を見ると、薄くなった矢印マークをいくつも発見した。実践されているにも関わらず、効果の出ないものに掛ける時間はない。
 今日の成果を尋ねられ、フィアスは持っていた皮鞄からプレートを取り出す。昼にコンから渡されたヨンの絵画だ。予想外のものが出てきて、あれ? と真一は首を傾げたがすぐ楽しげに絵を眺め始めた。
 先入観せんにゅうかんを与えないために、真一が絵画鑑賞を終えるまで、フィアスは口をつぐんでいた。
 とりあえず見ろ、とだけ伝え、作者や作品を手に入れた経緯は伏せた。
「どう思った?」
「きれいなイラストだと思ったよ。俺、こういうぼやぼやした絵を見ると眠くなるんだけど、きれいなお月様がくっきりしていて眠くなんなかったよ」
真一の芸術作品に対する判断基準は眠くなるかならないか。
 詩的情緒のないやつだな、とフィアスは思う。人のことを言える立場ではないが。
 呆れた視線を感じて、名誉挽回めいよばんかいのためか、真一は確信を持った口ぶりで断言する。
「これ描いたの、女の子だろ!」
「そうだ。よく分かったな」
「俺、美的センスあるもん」
「そうか」
「で、誰が描いたの?」
「ヨン」
うげっ、と悲鳴を上げて真一は絵画を取り落とした。
 こうなることを想定していたフィアスは、絵画が床に衝突する寸前でキャッチする。真一は壁に張りつく。無理、というように首を振る。フィアスが絵を見せようとすると、両手でさっと目を隠した。
 作者を知らないうちはにこにこと作品を眺めていたのに、態度が一変した。単純にくわえて失礼なやつだ。
「あの婆さん、絵も描くのかよ。しかもこんなメルヘンなやつ」
「今は老婆の姿じゃなく、十七歳の高校生だ」
「またその話する?」
 オカルトすぎて信じられないんだよなぁ、と真一は頭を掻く。
 「ネクロマンサー」の暗示術をシドから聞いたとき、真一にも情報を伝えておいた。
 普段のヨンはコンの妹として振る舞っており、戦闘中のみ暗示を解除してコンの操作をしているのだと。
 シドは、少女のヨンに元人格の意思や記憶はないだろうと見当をつけている。姿を豹変させるほどの強烈な自己暗示にともない、コンと同じく自己認識も変化している。
 あくまでシドの主観だが、空港で彼女を目の当たりにしたとき、そう感じたようだ。
 少女のヨンも偽物の記憶の中で生きている、と。
 フィアスは絵画を眺める。この絵は少女趣味に偏っているが筆致ひっちは巧みだと思える。
 絵筆を持ったことのない素人には真似できない技術を駆使している。芸術の世界に造詣ぞうけいが深くないとこういった作品は描けないだろう。例えば、海外留学を検討するほど絵を描くことが好きな女子高生とか。
 元のヨンに芸術的センスがあるのか不明だが、暗示の設定に自己没入させないと生み出せない作品に思える。
「お前はどう思ったんだよ」と真一が聞いてくる。
「美しい絵だと思う」とフィアスは答える。
「それだけ?」
「ああ」
「なんだよ、俺よりひどいじゃん」と今度は真一が呆れた視線を向けてくる。その視線に張り合おうと思わない。備わっていないものは備わっていない。
 お次は真一が成果を報告する番だ。
 やってやったぜ、と言わんばかりに真一は三件の銃撃事件を警察が嗅ぎつけていると報告した。
 どれも市民からの通報で、捜査網に引っかかったわけじゃない。それでも夜中のパトロールは益々強化されてゆくだろう。銃撃現場を抑えられる危険もあるし、赤目と日本警察が鉢合わせをする危険もある。生きた赤目が日の下に出てくるのはまずい。ドイツに搬送した分も含めて、既にテロ事件が三件も起こっているのだから。
 しかし、打開策は見つかっていない。
 今はまだ、暴れだす寸前の獣を始末する以外に方法がない。
「同時に出現したらどうなるんだろうな」と真一が頭を掻く。
「馬車道と本牧のときみたいにさ。二箇所だけじゃなく、一気にわらわらと出てきちゃったら」
「辺り一面が血の海だな。それこそゾンビ映画の世界だ」
「それはそれで楽しそうだな。ゾンビがいっぱいの横浜も」
「楽しいわけないだろ。集団テロだぞ。それからゾンビじゃなくて、頭のイかれた人間だ」
ふわふわした真一の頭と失言を指摘しただけなのに、ツッコミを入れていると思われたらしい。
「あ、また漫才してる」と見当違いの声が聞こえて、凛が廊下をやってきた。
「今度は廊下でネタ合わせ?」
からかうような悪戯っ子の笑顔で尋ねてくる。
 漫才と聞いて、背後の茜が飛び上がった。
「えっ、漫才? ウチも観たい! 点数つけたるわ!」
 なんでそうなるんだよ! と一度本気でツッコミを入れておいた方が良いのだろうか。そうでもしないと延々とこの話題でからかわれそうな気がするな、とフィアスは苦笑する。
 いっそ笑いのネタになる話ならどんなに良いことか。真一と話し合っていたネタは市民の笑顔を奪うテロの話だ。
 賑やかな女性陣へ不安をあおりたくないのは、真一も同じらしい。「今のは渾身こんしんのネタだから内緒!」とちゃかすように言った。
 あれこれ詮索せんさくされる前に、話題を変えることにする。フィアスは手にした絵画を凛と茜に見せた。この絵を見てどう思うか。女性の意見は参考になりそうだ。
 真一のときと同じく、とりあえず見てくれ、と言って前情報は伏せておく。
 絵の雰囲気からも、女性の方が心を引かれるようだ。きゃあきゃあと二人ははしゃぎながら、真一が見ていた時間よりも長く、絵の隅々まで鑑賞した。
「可愛くて好きよ。化粧品のパッケージで、こういう絵が使われているの見たことある。可愛いけれど、見ているうちに吸い込まれそうな、不思議な絵ね」と凛。
「ウチはあんまり得意じゃないかな。メルヘンすぎて、ムズムズするわ。もっとバリっとした色使いの、かっこええのが好き」と茜。
 なるほど。女性の方が芸術に関しては細かな感想を抱くようだ。
 鑑賞している間も、感想を述べた後も、動物が可愛いとか、この星は何星? とか、空の色がきれいとか、二人は色々言い合っている
 しかし、特に気になる視点は得られない。ファンタジック、メランコリック、可愛い、メルヘン、そして眠くなる。
 今までに集めた感想は、誰もが持つ一般的な感覚の一つだ。
 この絵どうしたの? 誰が描いたの? と絵画の外側に話題が移ると、フィアスは少しだけ悩み、「フィオリーナの知り合いが描いた。捜査資料の一部だ」と答えた。
「フィオリーナと関係があるの?」凛が心配そうな顔で聞いてくる。
「彼女はまだ見つかっていないのよね?」
「ああ。この絵が関係していると良いんだが……どうだろうな」
 もしもヨンが偽物の記憶の中で、偽物の三年前のソウルの写真を目にし、厚意なのか好意なのか分からないが偽物の感情を抱いて自分に贈りつけてきたのであれば、この絵はただの操作撹乱そうさかくらん。時間の無駄ということになる。
 シドは自己暗示中のヨンに元人格の記憶はないと言っていたし、単なる気まぐれでプレゼントした可能性が高いのかも知れない。手の空いた時間に笹川邸のヤクザたちにも感想を聞いてみるか。大した成果は得られない気がするが、と思いながら絵画を鞄にしまった。
 今夜もシドからの連絡に備えつつ、笹川邸の警護をする。
 迷子の真一を茜に任せて、自室に向かう跡を凛がついてくる。不安げな彼女の眼差しを捉えて、フィアスは手を握った。