螺旋階段を登って、建物の地上階へ。そこは数々の装置が展示された科学館だ。
物理法則を説明する機械もあれば、天体の動きが分かるバーチャル映像もある。どの装置も電源が入っておらず、冷たい眠りについている。一階のホールは黒い鏡張りのアバンギャルドな空間で、大型の装置がいくつも設置されているだけあってかなり広い。
フィオリーナがどのようなコネクションを使って、この建物を
彼女は部屋の中央に置かれたアルミスツールに座って、珈琲を飲んでいるところだった。こちらからは、ダメージ加工されたTシャツに包まれた、細い背中しか見えない。
視線を向けてすぐ、彼女は振り返った。その動きは素早かった。軍事訓練を受けた玄人の動きだ。灰色の目は鋭い光を放ってフィアスを睨み……一回の瞬きで元に戻った。
目を丸くして、口元を隠す……若い女性の驚いた表情に変わった。
テーブルの向かいに座るシドと短く視線を交わし、フィアスはコンに向けて微笑んだ。
「お久しぶりです、コンさん。僕のことを覚えていますか?」
「覚えていないわけないじゃない!」
コンの目が驚きから喜びに変わる。身軽に席から飛び降りて、嬉しそうに駆け寄ってくる。フィアスは素早く服装に目をやる。薄い生地のTシャツに、黒のボンテージパンツ。何重にも巻かれたベルトやアクセサリーでごちゃごちゃしているが、武器は携帯していない。
派手な身なりの、一般人だ。
「久しぶりね、フィアスくん。ちょっと見ない間に、大きくなったわねぇ!」
「コンさんはあまり変わっていませんね。最後に会った時のままだ」
たっぷりと親愛のこもったハグに応える。こちらも銃を置いてきた。初対面の人殺し同士が無防備な姿でハグをするとは平和な時代になったもんだな、という皮肉を胸の内に隠して、フィアスは友好的な笑みを深める。
「姉にはもう会いましたか?」
「うん! 空港まで迎えにきてもらっちゃった。フィオとはドイツに行く前から会っていたんだけどね」
「そうでしたか。ドイツへはどんなご用事で?」
「妹が受験生なの。絵を描くことが好きな子でね。私も両親も、海外で学ばせてあげたいって考えていて、今回は下見旅行のついでなんだ」
「妹さんは美術の才能がお
「私も全然ダメ。ダ・ヴィンチの絵を見ても、ちっとも感動しないもん」
あはははは、と
フィアスもにっこりと笑いながら、先ほど覚えた経歴書の内容を思い出す。その中でフィオリーナと自分は姉弟と書かれていて、姉の友人であるコンとは三年前に一度だけソウルで会ったことになっていた。フィオリーナは外資関係の仕事に就いていて、日本に赴任している。そして自分は、日本文化を学びにきた大学院生。
姉弟、コンともに関係は良好。なんとも喜ばしい限りだ。
他愛のないやりとりをしながら、個人的に疑問に思うことを聞いてみた。
コンの首から胸にかけて施された印象的なタトゥーについて。彼女はあくまで一般人のつもりでいる。
「正義」の象徴である鷲のタトゥーは、何らかの組織に所属していたときに刻んだものだろうが、ファッションの延長としてはかなり目立っている。大学院生である彼女は、アグレッシブなこの印とどう折り合いをつけているのだろうか。
その回答は、淡白なものだった。
「鷲のタトゥー? なんのこと?」
なるほど、とフィアスは思った。彼女の目にはタトゥーが映っていない。
植え付けられた人格は、五感さえ制御できるらしい。
ということは、科学館を間借りしたこのアジトも、別の建物として認識している可能性が高い。
それとなく聞いてみたところ、彼女の視点ではフィオリーナの自宅に見えているということが分かった。友達の家に遊びにきたら弟がいた……そんなところだろう。
ふと、シドの視線を感じた。強い目力で、おちょくるな、と訴えかけてくる。
こちらは情報収集のつもりなのだが、彼女の特異体質を弄んでいると勘違いされたらしい。偽人格を植え付けられなくとも、互いの認識に相違があることは日常茶飯事か。コンに悟られないように、フィアスは小さく頷いた。
雑談が一区切りついたところで、背後の真一を紹介した。
「彼は本郷真一くんです。僕の大学時代の友人で、今日は野暮用を手伝ってもらっていました」
真一は曖昧な笑顔を浮かべたまま、「どうも」と小声で挨拶しただけだった。面白がりながら経歴書を読んでいた時の
本番に弱いタイプか、とフィアスは内心でため息を吐く。
「初めまして、本郷さん……と言っても私が誰だか分からないですよね。私はフィアスくんの姉のフィオリーナの友達で、コンと言います。日本語、上手でしょ? 実は私、大学生の頃に日本に留学していた期間があるんです。韓国語と日本語は文法が一緒だから、覚えやすいのよね」
あ、う、うん……と言葉を詰まらせる真一を
「昔から人見知りをするやつなので、気にしないでください。日本人の気質ってやつかな」
ふふふ、とコンは笑って、向かいのシドと会話を始める。こちらも経歴書に書いてあった通り、シドをフィオリーナの婚約者だと思い込んでいるようだ。完璧にマインドコントロールされている。
後天遺伝子の他にも世界には不可思議な現象が存在するんだな、と
そそくさとテスラコイルの裏側へ連れて行かれる。
コンから距離を取り、ようやく真一が言葉を発した。
「あんなにイカつい外見の女が来るなんて聞いてない!」
「俺に訴えられても困る」
「どうするんだよ、これから。お前もフィオリーナの弟をずーっと演じ続けるつもりか?」
「ああ。少なくとも、合図が届くまではな」
フィアスは携帯電話を取り出して、真一に見せる。先ほどの雑談の最中に、シドがメッセージを打ったのだろう。画面には「フィオリーナの捜索に関しては、風向きが変わるのを待て」と英文で記されていた。
俺、嘘つくこと向いてないよ。喋るとぼろが出そうだよ、と頭を抱える真一を置いて、フィアスはテーブル席に戻る。
シャイで人見知りをする大学院生・本郷真一の姿が見えないことをコンに尋ねられたが適当にごまかした。
シドを見ると、元来のユーモア好きな性質からか、この状況を楽しんでいるように見える。コンの方も打ち解けているらしく、軽快な会話のラリーが続いた。植え付けられた人格にしても、この二人は馬が合うようだ。
「そういえば、コンは凛にも会ったんだよな」
シドがそれとなく話題を切り出す。
書類には凛の偽の経歴も書かれていた。ただし、コンとの関係は、真一と同じく「初対面」。
この女性は、凛を知り得る術がない。テロ事件の現場に居合わせたことは偶然ではないにしても、どうやって凛を見つけ出したのか。
お喋りで明るい彼女はぺらぺらと現実的な妄想を語った。
フィオリーナのSNSに彼女とのツーショット写真が載っていて声を掛けてみたのだ、と。
「すごく可愛い子だよね」コンはうっとりと宙を仰ぐ。
「黒髪で、色が白くて、和風美人ってやつ? 私、タイプなんだよね」
ふふ、と秘めた笑いが静まり返った空間に吸い込まれるように消える。
フィアスとシドは目を合わせる。
大男は微かに肩をすくめる仕草をした。経歴書に書いてないことは俺にも分からん、と言いたいのだろう。
コンの嗜好を聞かなかったことにして、フィアスは口を開く。
「良ければ紹介しますよ。彼女は僕の友人でもあるので」
凛の偽の経歴を、植え付けるなら今しかない。
経歴書に書かれた、でっち上げの情報を
凛は
話をしながら、この女性を凛に接近させて良いものかと考える。個人的な嗜好はともかく、組織が戦力として使い続けるつもりなら、遅かれ早かれ引き合わせることになるだろう。腕次第では、笹川組で護衛に立たせることもできる――ただし、
ここは保留という意味を込めて「凛のスケジュール次第ですが」と締めくくった。
風向きは唐突に変わった。
大口を開けて笑いながら談話に興じていたコンが表情を失った。機械の電源を落としたように、無表情でその場に固まる。瞬きや呼吸といった、意思とは関係なく稼働する器官だけが、わずかに生存の動作を続けている。
シドが身を乗り出して、ロボットの前で二、三回手を振り反応がないことを確認する。
ようやく肩の力を抜いた。
「第一幕は終了だ」
「そして
フィアスはスーツの襟を正すと、スツールから降りる。
テスラコイルの裏側から真一を連れ戻し、再びテーブル席に戻った時、既にコンはいなくなっていた。
携帯電話には「武装。車に向かえ」と端的なメッセージが入っていた。指示通りに武器を携帯して駐車場に向かうと、既に二人は到着していた。
「もう一人の狙撃手から連絡が来てな」とシドが言った。
「コンの力を示すと言ってきた。目的地の地図を後で送る」
BMWのロックを解除すると、狙撃手は音も立てず後部座席に乗り込んだ。いつの間にか彼女は両腕にアサルト・ライフルを抱えている。スコープの代わりにサプレッサーがついた、ソ連系の銃だ。今回は狙撃手ではなく歩兵として戦うつもりらしい。
感情を失ったコンに話が通じるのか不明だが、フィアスは試しに声を掛けてみる。
「目的地が近づくまで、武器を預かりたい」
すると、微かな鈴の音が聞こえた。電子的なノイズにくるまっているので、何らかの通信機から発せられているようだ。コンは躊躇いもなく、抱えていた銃を差し出す。
「今の発言は撤回する」と告げると、再び鈴の音がして、コンは武器を携えた。
なるほど、私利私欲も主義主張もなく、システマティックな振る舞いだ。これまでの仕事ぶりやシドの話を信頼して、武器は預からなくても良いだろう。
しかし、コンの力を示すとは、どういうことだろう? これから向かう先は戦場なのか?
もし、そうだとしたら……
「マイチは来なくて……」
「馬鹿言うなよ! 行くに決まってるだろ!」
フィアスの言葉を遮って、真一は怒鳴る。
「今まで一緒に行動してきたのに、どうしてこういう時ばかり一人で動こうとするんだよ。だいたいお前が気絶したら誰が面倒を見るわけ? ケガしたら誰がこの車を運転するわけ? 薄情なのか水臭いのか知らねーけど、もう少し俺の相棒ぶりを認めてくれても良いんじゃないの?」
「あいつもコントロールできたら、楽なんだけどな」
ぷんぷん怒りながら助手席に乗り込む真一を見てつぶやいた一言に、シドが笑った。