希望の別名


 重い鉄扉てっぴが開き、シドが顔を出した。よく来たな。警戒けいかいするように外を一瞥し、二人を室内へ招きいれる。
 コンクリートの外壁で覆われた新しいアジトは、地下へ根をはやした深層型しんそうがたのビルだった。最下層より一層上の階がコンピュータールームになっていて、以前のアジトで見かけた装置がそのまま組み上がっている。
 複数あるディスプレイの一つに神奈川県一帯の地図が映し出されていた。
 中でも、埠頭ふとうの近くでいくつかの点が点滅している。
 フィアスは点の一つを指差した。
「これがフィオリーナなら、他の点は誰だ?」
点は三つある。赤と緑と青。徒歩程度のわずかな動きだが、青い点が移動を始めた。
狙撃手スナイパーだ」とシドは答える。
「三日前、ドイツから戻ってきてな。今はフィオリーナのサポートに回っている」
 ドイツ、とフィアスはつぶやく。うんざりするほど聞き慣れた国名だ。シドの言い方から、狙撃手たちは何らかの用命を受け、ドイツへとおもむいていたらしい。
 過去に見聞きした情報の精査せいさが始まり、瞬時に点と点が繋がる。
「アジトを襲った、赤い目の男はどうなった?」
「相変わらず鋭いな。ドイツの研究施設へ搬送はんそうを担ったのが彼女たちだ」
「研究施設?」
「ああ。フィオリーナの友人が遺伝子操作の研究を行っている。彼女の元へ被験体としてNP5g……生捕りにした赤目を送った」
なるほど、とフィアスはつぶやく。ルディガーのルーツはドイツ。ドイツにある研究施設で遺伝子研究を行っていた。大方、<サイコ・ブレイン>側につかなかった誰かが、その研究を引き継いでいるのだろう。
 フィアスの脳裏に、過去の記憶が蘇る。子供の小さな手が、ルディガーに分厚い書籍を渡す。父さん、この文字は何と読むの? 少年の高い声が尋ねる。ああ、それはね……頭上から低い声がし、目の高さにルディガーの顔が映る。眼鏡の奥の叡智えいちを秘めた灰青色の瞳。
 父親の優しい声が、記されている日本語の意味を教える。
 開封された記憶からたまに出る、過去の思い出。身に覚えのない回想が展開される度、自分のものになっていく感覚は不思議だ。
 他人のような八歳以前の自分――ラインハルト・フォルトナーは、ルディガーを尊敬し、信用しきっている。
 つまり、愛しているのだ。
 彼こそが、世界のすべてであるかのように。
「後天遺伝子を治す方法があるのか?」
真一の声でフィアスは現実に引き戻された。
 隣では、友人が黒い目を輝かせ興奮気味にまくしたてていた。
「ゾンビ映画に出てくる研究施設は、人間をゾンビにする薬か、治す薬を研究してるぜ。もしかして、フィオリーナの友達は、生きた赤目を使って治療薬を開発してるんじゃねーのか?」
「誰がゾンビだ」フィアスは真一を睨みつける。
「怒るなって。言葉のあやだよ」と慌てて弁解する真一。
 そんな二人を交互に見ながら、シドはドレッドヘアーの毛先をいじる。それが彼の考えあぐねる仕草なのだ。困り顔の大男の元へ詰め寄り、なあなあ、そういうことだろ? 治療薬を作ってんだろ? と確証を求める真一に折れ、シドは曖昧に頷いた。
「まあ……簡単に言うと、そう言うことになるな」
おおっ、やったぁ! と感嘆の声をあげる真一。無邪気に喜ぶ姿は、既に治療薬が手の内にあるかのようだ。シドの表情が、前途多難ぜんとたなんな道のりであると物語っていることに気づいていない。
 幸せなやつだな、とフィアスは思う。
 周囲の細かな意図に気づかず、確信を得たら考えを曲げない。単純な思考回路。浅はかなポジティブ・シンキング。その言動に呆れることが大半だが、信じる道を突き進む猪突猛進ちょとつもうしんぶりをたまにうらやましくも思う。
 小躍り寸前の真一から視線を外し、フィアスはシドに向き直る。
 実現するか分からない治療薬の話より、もっと現実的なことがある。
「フィオリーナが赤い目の人間たちを捕まえようとしている話は本当か?」
「ああ。赤目をのさばられておけば、あちこちでテロ事件が発生する。被害が増え続ければ、世界規模のニュースになる。それは我々の目的を完遂するのに非常に都合が悪い。また今後の組織のり方についても良くない影響を与えるだろうと言っていた」
 今後の組織の在り方か、とフィアスはつぶやく。
 組織の仕事において、元締もとじめ役のフィオリーナが表舞台に出ることはまずない。彼女の業務はあくまでも依頼の仲介と事後処理がメインだ。並外れた戦闘力を持っていても、その労力はもっぱら聡明な頭脳にかたよっている。そんな彼女がニューヨークの拠点を離れ、赤目の発生源となる日本で暗躍していることが知れたら、組織の関係者から不信を買いかねないし、体面にもさわりがある。
 そのリスクを引き受けて、自ら動き出したのはなぜだろう。
「彼女に話を聞きに行く」
「本当か、フィアス?」
「ああ。俺の仕事を奪われたくないからな」
 このワーカーホリックめ! と上機嫌なシドが背中を叩こうとするのをかわし、フィアスは考える。
 彼女の選択がハイリスクなのは、彼女自身承知しているはずだ。知られざる事情があるとすれば聞かなければならないし、その事情が彼女の単独行動につながっているなら、作戦を練り直すよう説得しなければならない。
 幸いにも居場所は把握できているので、コンタクトを取ることは可能だろう……万全に装備を整えてからの話だが。
 シドから武器のある場所を教わって最下層に降りた。最下層は、上階に「展示」されていない品を保管する倉庫になっていた。
 A、B、Cと別れた三部屋のうち倉庫Cが武器庫として使われていた。武器庫の一角に、以前のアジトから引き上げたそれぞれの私物も保管されていた。洋服、書籍、ロックグラス、それに気に入っていた年代物のスコッチもある。私物を探って、間に合わせのファスト・ファッションからいつものスーツに着替えると、ようやく調子が戻ったように感じられた。
 真一も上機嫌にジャケットを羽織って、背中の刺繍ししゅうを見せてくる。
 これめちゃくちゃお気に入りのやつ! 元街の古着屋で十万もしたんだぜ。当時としてもでかい買い物だったよ。もう諦めかけていたけど、ちゃんととってくれていたなんて! フィオリーナ様様だな! などのお喋りを右耳から左耳に聞き流し、フィアスはざっと武器を確認した。
 壁沿いに並べられたハンドガンラックには、最新式のものから一世代前のものまで、合わせて五十丁ほどの銃が収納されている。その中から、小型のリボルバーと1911ベースの銃をアルミテーブルの上に並べて、順々に動作を確認する。日本人の手は欧米系の自分の手よりも小さい。体躯たいくも小柄だ。使用できる銃の種類が限られてくる。
 日本人の男性平均に比べれば大柄な方だが、一つ一つを真一に持たせて、使用感を検証する。
 銃を渡された真一は、目分よりも常に重い黒塊に顔をしかめた。
「いつまで経ってもこの重さに慣れないな」
「慣れない方がいい」
「一向に強くなれないじゃん」
「こいつは護身銃だ。お前は自分の身を守るだけで十分だ」
それぞれの銃をケースに収め、自らはS&W M&Pをホルスターにしまうと、フィアスはロングガンラックからAR-15を三丁取り上げる。ヤクザにアサルト・ライフルを使いこなせるか不明だが、有事の隠し武器として、とりあえず渡しておくか。そして「忘れるところだった」とひとりごちつつ、再びハンドガンラックの扉を開く。MP5Kを五丁机の上に並べる。反動は強くない。こいつもヤクザに持たせておくか。
 サイトは……。ストックは……。ハンドガードは……。
 真剣な顔でアクセサリーパーツを物色し始めたフィアスを見て、真一は苦笑した。
「目が怖い」
「生まれつきだ」
「これで戦争でも始めるわけ?」
「あくまで赤目の狩猟用だ」
「言ってることも怖い」
フィアスは微かに考え、口を開いた。
「愛と平和」
「な、何?」
「愛と平和……怖くないことを言った。納得したならお前も動け」
はいはい、と気怠く返事をしながら、真一はガンケースを両手に提げる。一往復目の足音は鉄でできた螺旋階段によく響いた。


 武器の運搬うんぱんも終わりに近づいたころ、シドが飛び込んできた。こめかみに汗を浮かべて焦った様子だ。
 ガンケースを抱える二人を交互に見る。反射的に銃を取り出したフィアスを手で制すと、片方の手に握っていた紙の束を差し出した。
「先方から渡された資料だ。時間がない。すぐに覚えてくれ」
訝しげな顔の二人へ押しつけるように書類を渡す。その間も絶えず心配そうに上階に目をやっている。倣って螺旋階段を見上げるが、吹き抜けの天井についた眩しい白色蛍光灯と、鉄網の踏板が何枚も続くばかりだ。
 五感を開くと、野外から人の足音が聞こえた。雑草を踏み分けるブーツの、軽やかな足取りが徐々に大きくなってくる。しゃらしゃらと掠れる音はアクセサリーの金属音だろうか。
「誰が来たんだ?」
「狙撃手の片割れだ。凛が目にした女だ」
〝大きな鷹のタトゥーの子〟と凛が言っていたことを思い出す。コンピューター上で点滅していた青い点。彼女がアジトに戻ってきた。
 渡された書類に目を通す。パソコンで打たれた箇条書き。すべて日本語で記されているが、文章の冒頭は「NAME:Kong」から始まっている。
 五十ほどの項目をざっと見るに、コンという女性の経歴書のようだ。
 生い立ちや家族構成、学歴やアルバイト歴などが詳細にまとめられているが、どれも真実ではない。ソウルの大学院で文化人類学を学んでいる二十六歳の女性が、狙撃銃を背負って戦地に立つわけがない。
「こいつを覚えてどうする」
訝りながら尋ねた直後、あっ、と隣で真一が声をあげた。
「俺たちの経歴も書いてある!」
経歴書の二枚目をめくると、確かに自分や真一や凛の生い立ちが載っている。冒頭から末尾まで、嘘まみれのでたらめだ。
 嫌な予感が当たらないようにと願いながら、フィアスは低い声で尋ねた。
「狙撃手の偽の経歴を覚え、俺たちにも偽の人間を演じろというのか?」
そうだ、とシドは即答した。
「彼女は偽物の記憶の中で生きている。周囲と整合性が取れないと、人格崩壊を起こすらしい」
「そんな人間がいるのか?」
「俺も初めて会った時は目を疑った。ただ話をしているうちに、確信が持てるようになった。彼女は人間の形をしたロボットだ。インプットされた情報が間違うとエラーを起こすんだ」
「それは、もちろん比喩ひゆだよな?」
「ああ、もちろん比喩だ。しかし、比喩と言うのは真実をおおった皮膜ひまくのことだろ?」
 シドの文学的疑問には返答せず、経歴書の二枚目に目を通す。彼女の経歴も大事だが、まずは偽物の自分を把握することが最優先だ。他人の名前や経歴を間違えても勘違いでごまかせるが、自分の出身や職業を覚えていない人間はいない。
 隣では真一が漫画を読む時と同じく、偽の経歴書を楽しそうに読んでいる。
 なあなあ、俺たち大学時代からの友達らしいぜ。現在、大学院生。偽物の俺は頭良いなーなどと、能天気ぶりは健在だ。
 早くも痛み始めた頭に手をやりながら、フィアスは言った。
「赤目の次は鷹の相手か」