笹川邸に到着すると、いち早く真一が動いた。シートベルトを外して、後部座席へ身を乗り出す。
「おい、茜。着いたぞ。大丈夫か? おーい」
うるさい、と弱々しい答えが返ってくる。凛の肩に頭を乗せて、茜は気怠げな様子だ。それでもドラッグストアを出た時と比べると、血色を取り戻して、快方の兆しが見える。
 凛の肩を借りて、茜は車の外に出た。
「しょうがねぇな。おぶってやるか」
ふらつく腕を取り、真一はひょいっと茜を背中に乗せる。
「重い荷物は、抱えるよりも、背負う方が楽なんだよな」
「あんた、ほんまにうるさい……」
茜が力のない手で、後頭部をぺん! とはたく。
 重厚な正面門の開閉を終え、一之瀬がやってきた。
 フィアスは簡単な挨拶を済ませると、客間を一室借りたい旨を伝える。真一の背でぐったりしている茜を見ただけで、一之瀬は電話で伝えた願い事を察したようだ。容態が軽い過呼吸だと聞き知ると、ご案内しましょう、と朗らかに返事をし、先頭に立って歩き始めた。
「フィアスはどうする?」
「俺はシドに現状報告する。後で合流しよう」
 りょうかーい、と気怠げな返事をして、真一は一之瀬の後に続く。
 賑やかな二人組がいなくなると、打って変わって穏やかな静寂が腰を下ろした。
 隣に佇む凛と目が合う。凛は不安顔に無理やり貼り付けた笑顔で、ぎこちなく微笑んだ。茜の介抱をすることで紛らわせていた気持ちが戻ってきたようだ。
 フィアスは彼女を抱き寄せる。凛ももたれるように身を預けると、細い両腕を腰に回した。静かな抱擁は、強張った彼女の肩先から力が抜けるまで続いた。
 腕の中から凛が、ひょっこりと顔を覗かせた。まるで巣穴から出てきたウサギみたいに。
 黒い両眼が細まると、楕円に反射する午後の光も柔らかに形を変えた。
「ちょっとだけ元気になった」
「それは良かった」
微かに笑い合うと、再び隣に立ち並ぶ。
 凛の手が戯れるように指先に触れる。相変わらずひんやりした手だが、いつもより少しだけ温まっているように感じられた。片手を彼女に遊ばせながら、フィアスは電話を掛ける。電話が繋がった瞬間、天地を揺るがす不気味な笑いが響いた。
 ひとしきり笑った後、シドは揚々と切り出した。
――〝空の目〟で一部始終を見てしまった。仲が良くて何よりだ。
「宇宙から覗きなんて贅沢だな」
――ははは。新たな趣味に目覚めそうだよ。まあ、そんな冗談はさておき、これからの計画を話そうか。
「笹川邸にオギノアカネを匿う。防衛に武器が必要だ。ヤクザの何人かを武装させたい」
――構わんよ。銃も弾薬も潤沢にストックがある。なるべく早く取りに来たほうがいいな。
「了解だ。それからもう一つ。フィオリーナはどこにいる?」
――フィオリーナか。
シドの声色が変わった。いつもより暗く、感情を抑えた声だ。
――彼女なら、横浜の街を見回っている。赤目を生捕りにして、ネオの居場所を聞き出そうとしているんだ。被害を増やさないためにも、巣穴を叩かないといけないからな。
「シド、あんたにはそれが不満のようだ。もちろん、俺も同意見だが」
――そうだ。俺は止めたんだ。貴女はネオと戦えない。アジトを見つけたところで、大量の赤目を相手にさせられるのがオチだと。
怒りと憤慨で、通話主の声は震えていた。今にも力任せに机を叩きそうだと感じた二秒後に、力任せに机を叩く音が聞こえた。
 ぐっ、と感情を飲み込むと、シドは再び静かな声に戻った。
――それでも、フィオリーナは行ってしまった。つい四時間前のことだ。
「現在地は分からないのか?」
――分かるさ。GPSをつけているからな。しかし、危険なことには変わりない。後天遺伝子は先天遺伝子を駆逐する。そうだろ?
 袖口に触れていた凛の指先をとらえると、その手をぎゅっと握る。凛は驚いたように顔を上げた。視線を感じて、フィアスは自分の無意識の行動に気がついた。
「何かあった?」
小さな手が握り返してくる。励ますように、彼女の親指が手の甲をさする。
 なんでもない、と返事をして、フィアスは再び通話に戻る。
「……その件についてはあとで話そう。他に変わったことはないか?」
「あっ」と凛が声をあげた。思い出したように唇に手を当て、「変わったことならあったわよ」とシドの代わりに答える。
「タトゥーの女の子に会ったの。ばたばたしていて、すっかり忘れていたわ」
電話を遠ざけ、凛を見る。
「それは、何でも屋にいたときの話か?」
「うん。真一くんの帰りを待っていると、ひょこっと現れて……すぐにいなくなっちゃったの。大きな鷲のタトゥーの子」
シド、と電話に呼びかける。衛星からの観測で、車に近寄ってきた「タトゥーの女の子」を目撃しているはずだ。
電話口で二人の話を聞いていたらしく、すぐさま答えが飛んできた。
――心配無用。その女は仲間だ。
「仲間?」
――五日前に呼び寄せた。任務遂行のため、すぐに国外へ飛んでもらった。アジトで合流してから紹介するつもりでいたんだが……。
「そいつは、本当に仲間か?」
自然と声が低くなる。フォックスの一件もあり、仲間と言われても簡単に信用することはできない。
 フォックスは例外の筆頭だが、組織の人間は基本的に礼節を尽くす。怨恨を回避するための努力を惜しまない、折目正しい連中ばかりだ。仲間内での裏切り行為に手を染めるとは思えない。しかし、死線を彷徨ってでも手に入れたい何かを引き合いに出されれば、敵陣に降る可能性もなくはない。
 フィアスの内心を察して、安心しろ、とシドは前置きした。
――仲間と言っても、組織の人間じゃない。フィオリーナの古い友人だ。私利私欲も主義主張もなく、こちらの頼んだ任務を淡々と遂行する狙撃手(スナイパー)。システマティックと言ってもいいくらいにな。フォックスのように、〝招かれざる客〟の類ではない。
 狙撃手か、とフィアスは思う。仲間なら強力な戦力だが、敵ならば厄介極まりない。
 それにしても、シドの物言いは奇妙だ。私利私欲も主義主張もなく、システマティック……これが問いかけなら、答えはさながら「人工知能」か「ロボット」だ。生命に釣り合う価値を求めていないなら、なんのためにこの仕事に関わることにしたのか。相手の意図が掴めない。
「その女に伝えてくれ」
フィアスは少し間を置いて答えた。
「〝アポイントが取れるまで、リンには関わるな〟」
――ま、是非もないな。それでは後ほど。
「了解」
電話を切る。隣を見下ろすと、彼女は考え事をしていた。電話の受け答えを聞きつつ、ハンズフリーになっていないシドとの会話の内容を想像していたようだ。
 アジトに向かうの? と尋ねられ、フィアスは曖昧に言葉を濁す。通話中に、この場からいなくなることや、具体的な今後の行動は避けたつもりだった。父親との対面を控えて、彼女が不安定になっていると感じたからだ。
 せめて、龍頭親子が話をしている間はこの場に留まろうかと考えていたが、装備不足にくわえて、謎の狙撃手も出現した今、動くなら早いに越したことはない。
「あたしなら、大丈夫」
フィアスを見上げて、凛は微笑む。
「シドから話を聞いてきて。気になることがたくさんあるんでしょ。フィオリーナが心配なのは、あたしも同じだから」
微かな不安が、柔らかな笑顔に翳りを落とす。無理をしていないか? と聞きたいのは山々だが、その言葉を掛ければ、精一杯の思いやりを無碍にしてしまう。しかし、その本心は裏腹だ……。
 腕を組んで考え込むフィアスの髪に、柔らかな手が触れた。
 凛が背伸びをして、よしよし、と頭を撫でてくる。
「どうして頭を撫でるんだ」
「撫でて欲しそうに見えたから」
「衛星からシドが見ているぞ」
「気にならないわ」
「俺は気になるが……」
「気にしないで」
凛はくすくす笑いながら、真っ直ぐな目でフィアスを見つめた。
「本当はここにいて欲しい。貴方を近くで感じながら、父親との対面に臨みたい。それを言うと、貴方が困るから、我慢していたの。でも、反対のことを言っても貴方は困るのね。貴方が困ると、あたしはもっと困るのよ。その苦痛に比べたら、ほんの少しの間だけ、貴方に触れるのを我慢していることくらい、どうってことないと思えたの」
髪を撫でる手を止めて、凛は笑う。
「心配しないで。ちゃんと話を聞いて来るから」
「心配……。しないでと、言われても……」
フィアスは溜息を吐くと頭を掻いた。
「……駄目だな。言葉を見つけようとする側から失われていく。君に関しては、いつもそうだ」
「不思議ね。作戦内容を伝えるのは上手いのに」
そう言って凛は笑う……心から安堵した笑顔で。
「あたし、大丈夫だから」