フィアスは後部座席に座る茜をちらと見て、「久しぶりだな」と声を掛けただけだった。茜の賑やかな挨拶にぞんざいな頷きを返し、さっさと車を出発させた。
 途中でシドに掛ける電話は英語のみを使用した。
 事件現場から距離を取ったあと、目的もなく運転を続け、目についたドラッグストアの駐車場に車を停めた。
 真一を呼びつけ、店外の喫煙所へ向かう。
「オギノアカネを連れて行けない」
煙草を吸いながら、フィアスは言った。
「俺たちの傍にいれば、生命を狙われる……いや、既に狙われているかも知れない」
不安げな真一を見て、「ただの仮説に過ぎないが」と前置きして続ける。
「以前、彼女の高校で立て篭もり事件が起こっただろう? あの時既にアカネはマークされていた。しかし、俺が拉致されたり、フォックスが寝返ったり、ネオの計画に番狂わせが生じた結果、アカネの使い道がなくなった……そんな可能性は考えられないだろうか」
「お前が言うと、真実味があるな」
「あくまで仮説だ。根拠がない」
「それでも聞かせてくれ。さっきの銃撃はどう思う? あれも茜を狙ってのことか?」
違う、とフィアスは首を振る。
「あの事件は、衝動的な無差別テロだ。殺す人間は誰でも良かった。何でも屋付近を狙ったのは、故意だろうがな」
「運悪く、茜のやつがテロ現場に居合わせただけか。それなら安心……してもいられないな。狙われているなら、なにか手を打たないと」
「それを今、考えている。俺たちと行動を共にするのは危険過ぎるし、目を離すのも心配だ」
煙草を指に挟んだまま、フィアスはこめかみを抑える。シドと話しても結論が出なかった、と唸るようにつぶやいた。
 眉間に皺を寄せ、最善策を考え続ける友人を真一は見守る。
 ふと、ポケットの震えに気づいた。
 携帯電話のディスプレイに「慶兄ちゃん」と名前が表示されている。
 身内からの久しぶりの連絡に、不思議がりながら応答すると、一之瀬慶一郎の懐かしい声が聞こえてきた。
 会話を重ねるごとに、黒い目が徐々に見開かれ、訝しげにやり取りを見つめるフィアスに向いた。
 真一は電話口を押さえ、興奮気味に告げた。
「龍頭正宗が見つかった!」
「なんだと?」
「詳しい話は慶兄ちゃんから聞いてくれ」
差し出された電話に出る。
 一之瀬は手短に挨拶を述べたあと、正宗を見つけ、保護するまでの一部始終を説明した。筋目を通すため、現在は旧組長・笹川毅一と話をつけている。話が上手く進めば、笹川組で護衛することになるという。
――ですので、少しお時間を頂戴できれば。
「もちろんです。彼を見つけてくださり、ありがとうございます」
――いえ。俺もマサ……正宗のことは気がかりでしたから。屋敷にお越し下されば、時期に会えるかと。
「すぐに伺います。不躾ながら、別件でお願いしたいことがありまして」
――かしこまりました。そのお話は、屋敷でお聞きしましょう。
傍で話を聞いていた真一も、ピンとくるものがあったのだろう、「その手があったか」と膝を打った。
 電話を切ると、フィアスは頷いた。
「笹川邸でアカネを匿ってもらう。警護に必要な武器や弾薬は、組織俺たちが提供しよう」
「なんだか、大掛かりになってきたな……いや、妥当な案なのかな」
遠くから聞こえるサイレンの音へ目を向けながら、真一は言った。話しをしている間も、ひっきりなしにパトカーや救急車の警報が聞こえていたのだ。各公的機関が、赤目の対処に追われている。
 ニュースサイトを見ると、銃器による殺傷事件は、何でも屋の他に、旧アジトのホテル近辺でも発生していた。
 同日に二箇所で起きた銃撃は、前代未聞のテロ行為として、あらゆるメディアを騒然とさせた。早くも首都圏全域に緊急警報が発令されている。交通の流れが変わる前に、目的地へ辿り着かなければ面倒だ。


 足早に車へ戻ると、後部座席で凛が茜を介抱していた。肩にもたれてぐったりしている茜にハンカチを当てている。
「茜ちゃん、気分が悪いって。汗が止まらなくて、寒気もするみたい」
 浅い呼吸の合間に、心配あらへん、と強がる声が弱々しい。
 ぎゅっと目を閉じる茜のこめかみに汗が浮いている。
「どこかで休ませてあげられないかしら」
「ちょうど笹川組から連絡が入った。ひとまず、マイチの実家へ行く……それから、君にも伝えたいことがある」
あたし? と凛は自身を指差す。きょとんとした顔で、話の意図が掴めていない様子だ。
「君の父親……リュウトウマサムネが見つかった」
 単刀直入に切り出すと、疑問符の浮いた顔が強張った。凛は言葉に詰まったまま、肩にもたれる茜へと目を逸らす。不安な気持ちを宥めるように、白い手が彩の形見のネックレスに触れた。
 彼女は顔を曇らせたまま、もどかしげな無言を貫いた。
 その表情には、答えたくても答えられない、苛立ちさえ感じられた。
 苦しげな茜と凛。黙り込んだ二人の女性へ交互に目をやりながらやきもきしている真一を「助手席に座れ」と促し、フィアスはエンジンを掛ける。
「リン、こんな状況ですまないが――」
沈黙した車内、フロントミラーで凛を伺うと、彼女は伏目がちに、苦しげな茜の介抱を続けていた。
「――答えを聞きたい。マサムネに会うか、会わないか。俺は、君の意見を尊重する」
その言葉を聞いて、凛は益々顔を俯かせた。
「ちょっと、フィアス」
唐突に肩をつつかれる。助手席から真一が身をかがめ、小さな声で聞いてきた。
「取り込み中悪いんだけど、茜は病気なのか? 顔が真っ青で、かなりキツそうに見えるけど……」
「ただの過呼吸だ。時間が経てば落ち着く」
「ほんとに?」
「一時間後には、ヤクザに喧嘩を売り始めてるぞ」
「それはそれで、厄介だな……」
ふぅ、と安堵の息を吐くも、真一は事あるごとに後部座席を振り返った。落ち着きがない奴だなと思いながら、忙しない真一の挙動に注意を向けることで気を紛らわせている自分がいる……いつもの悪い癖が出てしまった。気を取り直して、フィアスはフロントミラーを覗く。
「どうする、リン?」
鏡に映る彼女と目が合った。
 凛はフィアスを見据えると、毅然と首を振った。
「会うわ」
「いいのか? 会わない選択肢もあるが……」
「貴方はその選択肢を選ばなかった――四時間前の貴方はね。小百合さんに電話を掛けたのは、追ってくる過去から逃げたくなかったからでしょう? あたしも、逃げたりしない。結果がどうであれ、過去と向き合った自分のことは、認めてあげられると思うから」
 凛は好戦的ともいえる強い視線を放ちながら、ぎこちなく微笑む。五分五分の確率に賭けるギャンブラーのように。
 彼女の心の中では希望と絶望がせめぎ合い、六歳までに築き上げた穏やかな世界を揺るがせている。表が出るか裏が出るか……そして、その結果がどのような影響をもたらすのかは、コインを投げる本人さえも分からない。
 大丈夫よ、とつぶやく声は、自身に向けて発しているように見えた。
 分かった、と返事をして、フィアスは運転を続ける。
 やがて、笹川組の屋敷が遠方に見えてきた。