凛は眉をしかめる。祈るように握りしめた手の関節が痛んだからだ。優しく両手をほぐしながら、いつもより呼吸が浅いことに気づく。視界の鮮明さは異様なほどで、脈打つような頭痛もひどい。
 極度の緊張、ストレス状態。高揚感を覚えるほどだ。
 後部座席から身を乗り出し、カーナビに向けて命令する。
「シド! シド! 応答しなさい!」
返事を待たず、凛は続ける。
「フィアスの様子を映して! 彼や真一くんが、無事なのか教えて! ……ねぇ、シド! シドってば!」
カーナビに向かって話し続けること五分、一向に応答がない。
 そうか。こっちの声が聞こえないんだ。この車は、映像や画像をやりとりする機能はあるものの、通話はできない。だからフィアスも携帯電話で、やり取りをしていたではないか。
 そんなことすら思い及ばず、ただのディスプレイに向けて話しかけていたなんて。
 穴があったら入りたい……。
 凛はふかふかのシートへ背中を預け、額の汗を拭う。
「誰かに見られたら、とんだ笑い者だわ……」
思わず、独り言が漏れる。
 すると、その声に応じるように、高らかな笑いが聞こえてきた。
 お湯に触れた猫のように、凛は座席から飛び上がる。破裂しそうな胸を抑え、素早く足元へ身を隠す。
 驚かせちゃった? ごめーん! というお気楽な謝罪がくぐもって聞こえるのは、防弾仕様の分厚い窓ガラスを隔てているからだ。
 凛は心の中で六十秒、数を数える。銃弾を撃ち込まれた衝撃はない。
 恐る恐る防御姿勢を解き、声のする方を振り仰ぐ。
 再び、悲鳴を上げかけた。
 窓の外から、真っ黒な鳥の目がこちらを見下ろしているではないか。巨大な鷹が、今にも飛び立とうと翼を広げている……それが精巧なタトゥーだと気づいたのは、鷹の上にヒトの顔が乗っていたからだ。
 そのヒトは笑顔を浮かべ、首元の鷹と似たつぶらな瞳で車内を見下ろしていた。こめかみと目蓋と鼻と唇の下に刺さったピアスがなければ、天真爛漫とも言える無邪気な笑みだ。
 痛々しいアクセサリーは、顔面だけに留まらない。首の下に、太い鎖でできたネックレスが何重にも巻きついている。
 まるで、自分で自分の首を締めるように。
 過激なミュージシャン? 退廃的なファッションリーダー? あるいは何かのコスプレだろうか? 出立ちに圧倒されながらも、凛は謎の人物を観察する。
 ……先ほど聞いた声は高かった。
 独特のルックスに判別が難しいが、体つきや顔立ちから、生物学的には女性のようだ。
 敵だろうか。
 それにしては、敵意を感じない。
 むしろタトゥーの主は、灰色の目を細め、うっとりと車内を見つめている。目が合うと、女性はおどけたように舌を出した……その舌にも丸いピアスが。
 彩がハマったのは、音楽だけで良かったわ……。
 ふと、そんな考えに至った凛は、ふるふると頭を振って、飛躍した思考を元に戻す。
 気を取り直して、問いただした。
「貴方は誰?」
 窓ガラスの厚みを考慮し、大きな声で問いかける。
「貴方は、誰なの?」
「私のこと、聞いてる?」
窓の向こうからも、大きな返事が返ってくる。
「そうよ。名前は?」
「名前……ふふふっ!」
「なんで笑っているの?」
「あなたと、お話しできて、嬉しいから!」
無邪気な笑いが続く。いかつい外見の割に、ふわりと掴みどころのない女性だ。
「あなたこそ、お名前は?」
「凛……龍頭凛よ」
凛ちゃん! と女性は目を輝かせて、親しげに名前を呼び返した。
「凛ちゃん! 顔もカワイイし、名前もカワイイ! 私、すっごく、気に入った!」
「???」
混乱でいっぱいの凛は、謎の女性を凝視するだけで精一杯だ。相手はさらに会話を続ける気でいるようだったが、携帯の着信音がその欲望を阻んだ。
 名残惜しそうに車内を眺めつつ、女性は電話に応じる。アジア系の顔立ちだが、やり取りする言語は英語だった。
 冷静さを取り戻した凛は、窓ガラスに顔を近づけ、会話の内容を探った。
 英語は簡単な日常会話しか理解できない。どちらかというと、ニュアンスで感じ取れるものの方が多かった。通話中も女性の無邪気さは健在で、大袈裟な身振り手振りが内容を予測するのに役立った。
 どうやら彼女は、仲間にたしなめられているようだ。許された時間を超過して、この車に寄り道したことを叱られているらしい。
 分かったよ、そっちに行くよ。
 彼らには、あとでゆっくり会えるもんね。
 先の楽しみにとっておこ!
 というようなことを、彼女は話しているようだ。通話を終えると、凛を見て、えへへ、と照れたように笑った。
「怒られちゃった……もう行かなくちゃ!」
 ばいばーい、と手を振り、瞬く間に遠方へ去っていく。
「な、なんなの……」
へなへなと壁にもたれ、凛は遠ざかる女性の背を見送った。

 タトゥーの女性と入れ違いに、真一が何でも屋から帰ってきた。背中に女の子をおぶっているので、救出作戦は成功したようだ。凛は車のドアを開け、ぜいぜいと荒く息を吐く真一を出迎える。
「後ろの子は大丈夫?」
「うん。コイツは腰抜かしてるだけ」
にっこり笑う真一の背後から、ひょこっと女の子が身を乗り出す。「バラすなっ! あほ!」と怒鳴りながら、ベリーショートの金髪をぺん! とはたく。
 女の子は、見る限り元気そうだ。凛は席の位置をずらすと、後部座席のスペースを開けて、女の子を入れてあげる。
 彼女とは、過去に会ったことがある。彩に変装して何でも屋へ向かう途中、道案内をお願いした女子高生。
 改めて自己紹介すると、彼女も荻野茜と名乗った。
「姉ちゃんのこと、よう覚えとるよ。金髪の兄ちゃんに会えて良かったな」
「うん、その節はどうもありがとう……えっと、荻野さん」
「堅苦しい呼び方はなしにしようや。ウチのことは茜ちゃんでかまへんよ、凛姉ちゃん」
人好きのする笑みで、茜はにっこりと笑う。
「よそ行きの顔だなー」と茶々を入れる真一を一睨みし、茜は陽気な笑顔を作る。威勢の良い雰囲気だが、不自然に伸びた手は、車外にいる真一の手を強く握りしめたままだ。
 凛は自分の席を真一に譲り、助手席に移る。
 三人で他愛ない話を続けながら、時折バックミラーで後部の様子を伺った。短針が進むごとに、握りしめた両掌が汗で冷たくなっていく。表面に出さないようにしていた焦りが、ほんのわずかな所作を通じて真一に伝わったらしい。アーモンド型の大きな目で凛を見据えると、「心配ないぜ」と言うように、真一は大きく頷いてみせた。


 やがて、道の彼方に明るい金髪が見えた。注意深く左右へ目を配りながら、携帯電話で話をしている。シドに作戦終了の報告をしているようだ。
 車から飛び出た凛を、すぐに青い目が捉えた。また連絡する、と言って彼は電話を切る。
 汚れひとつない新品のスーツに飛びつくと、両腕が力強く凛を抱き留め、続け様に軽いハグをした。
「残念だが、感動の再会には時間が足りない」
すぐさま抱擁を解き、フィアスは凛の肩を抱く。そのまま、歩行を促すように歩き始める。されるがままになっていた凛も、次第にフィアスが撤退を急ぐ理由が分かった。
 何でも屋のある方角から、サイレンの唸りが聞こえてきたのだ。通報を受けて、警察と機動隊が到着した。彼らに見つかれば、事件関係者として拘束される可能性が高い。銃を所持する身としては、警察署での事情聴取はごめん被りたいところだろう。
「元気だったか、リン?」
車への道のり半ば、フィアスが何食わぬ顔で聞いてきた。真っ直ぐに車を見据えていた目が、目下を素早く一瞥する。
「仕事は順調か?」
「おかげさまで、徐々に慣れてきたところ」と凛は答える。
「……でも、早くお休みが来れば良いと思う」
「そうだな、俺も同感だ」
「お休みの日には、デートしてくれる?」
「良いアイデアだな」
「駅前で待ち合わせて、映画を見て、ショッピングして……書店や図書館に行っても良いわよ。貴方が望むなら」
「それはありがたい」
「夜はおいしいご飯を食べましょ。あたしは甘いワインで、貴方はスコッチ」
「何に乾杯するかな」
「愛と」
「平和に?」
くすくす笑いながら、うっかり口を滑らせそうになる。

 本当に、約束してくれる?
 お休みの日が来たら、デートしてくれるって。

 念押しの一言が喉元までこみ上げて、慌てて飲み込む。
 その言葉を放てば、彼はおそらく返事にきゅうす。結果的に、お互いを傷つけることになるだろう。
 意表を突く発言は、常に意表を突かれるリスクがある。
 リスクを甘んじて受け入れる覚悟がなければ、高望みをするべきではない。
 これは、ふわりと着地点のない空想話。お気楽に展開される、きらきらと可愛い夢物語だ。
「楽しみにしているわ」
 努めて明るく締めくくると、凛もただ前を向く。
 次なる戦いへ向かうための、移動手段は目前だった。