現実の彼方から、ぱたぱたと誰かが走ってくる。小さな子供のように軽快な足取りだ。
 早朝の明るさに包まれた部屋。迫り来る足音に、嫌な予感を感じないでもない。
 ばん! と勢いよく扉が開く。
「真一くん、朝よ!」
眠っている布団の上に重い衝撃。ぐえぇっと真一は呻く。誰かがのしかかっているのだ。
「朝よ! 朝よ! 朝よーっ!」
わざとらしいほど高いテンションに、馬乗りになった本人も笑っている。ポカポカと頭を叩かれるが、優しい力加減だ。
 毛布を少しめくると、凛が見える。嬉しそうに目を細めて、得意げだ。
 ベッドを見下ろし、どう? と聞いてくる。
「モーニングコールその一。小さい女の子風」
「……その二とか、その三もあるの?」
寝起きだからか、尋ねる声が掠れている。ハイテンションの凛とは正反対だ。堪えきれずに欠伸も出る。
 凛はにっこり微笑んだ。
「その二はお母さん風。その三は恋人風。その四は厳しい軍隊風」
「次回は、その三で起こして……」
「オーケー! 厳しい軍隊風ね!」
彼女が部屋を出ていくと、真一は簡単に身づくろいをする。着替えの洋服すら持ち合わせていない身で、オシャレは出来ない。少ない荷物をまとめ、五日間世話になった客間を後にした。

 リビングではフィアスが、何やら電話をかけていた。
 フィオリーナかと思いきや、別の誰かだ。この家の固定電話を使っているし、話し方の雰囲気も違う。
 時計を見る。現在は、午前八時を回ったところだ。上階から足音。凛が支度をしているのだろう。
「ハウスキーパーの連絡先を見つけた。サユリの知人らしい。慣れた口ぶりだった。留守中に何度も掃除に来ているそうだ」
電話を切ると、フィアスは言った。
「彼女に、俺たちの痕跡を消してもらう」
「怪しまれなかったか?」
「適当にごまかした。悪意があるなら、後片付けなんて頼まないしな」
 フィアスは固定電話の受話器置きの部分に貼られた、新たなメモを爪で剥がす。コールする道具に貼られているせいか、今回の「Call me, Aldo!」は糊付けされた紙の上にセロハンテープで二重に接着するという手の込みようだ。剥がし終えると、グシャグシャになったそれを、ゴミ箱に捨てた。
 メモを剥がしまくったことで、アルド・ディクライシスが来た証拠になりそうだけどな、と真一は思ったが口には出さない。フィアス自身も気づいているだろうからだ。
 そんなことより……
「ちょっと」
階段から離れたところへフィアスを引っ張っていき、こっそりと耳打ちする。
「なんかあったんだろ?」
「なんか?」
上階を指差す。五感の鈍い真一でも、凛の声は聞き取れる――甘い声で、鼻歌を歌っているのだ。
「朝からめちゃくちゃ機嫌が良いじゃん」
「そうか?」
「とぼけるなよ。あんなに元気な凛、久しぶりに見たぞ。一体、なにが……」
ハッと真一はひらめく。
 だから、三番は品切れなのか!
「いや、その、なんだ……俺は、お前が幸せになってくれて嬉しいよ。もちろん、凛もな。どっちも俺の友達っていうのが良いよな。見ているこっちも幸せな気分になるもんな」
しみじみと語る真一のそばに既にフィアスはいなかった。玄関の戸棚の上に置いておいた車のキーを取ると、二階へ向かって呼びかける。
「リン、準備できたか?」
その声を合図に、凛が階段を降りてきた。
 膝丈までの裾がフレアに広がった、黒いワンピースを身につけている。肩先に大きなボストンバッグを提げており、中身はパンパンに膨らんでいる。
 聞くところによると、自分の趣味にあった衣服や化粧品を、いくつか拝借したらしい。
「このお洋服、素敵だけれど、ちょっとだけサイズが合わないのよね」
「どこかで新調しないとな。マイチは一着しか持ってないし、俺もティーンエイジャーみたいなこの格好じゃ、落ち着かない」
凛からボストンバッグを受け取る。すると、ヒラヒラとメモが落ちてきた。
 例のメッセージだ。身をかがめて拾い上げる。
 Call me, Aldo!
「この人は、これからもずっと呼び続けるのね」
凛がフィアスを見上げる。
「写真立ての中の貴方を」
 フィアスは胸ポケットから、名刺大のカードを取り出す。これは昨晩、天井に貼られていたものだ。
 人差し指と中指でくるくる回す。空白となったこの家に、時期に新しいメモが貼られる。その数は、今までとは比較にならないほど、増えてゆきそうな気がする。それだけならまだしも、「空白」を頼りに、別の形でサユリの呼び声は続いてゆくかも知れない。
 それは、決して現在の自分を呼んでいるわけではないのだ。
「耳を塞いでくれるか?」
背後に佇む、二人に向けて尋ねる。凛も真一も素直にその言葉に従う。
 フィアスは懐から携帯電話を取り出し、この家の番号へと電話を掛ける。ツーコールの後、かちりと音がして、留守番電話に切り替わった。

――残念だけど、ここに掛けても無駄。アメリカの私の家、もしくは携帯に掛けるべきね。まあ、後回しで良いなら、メッセージを聞いてあげないこともないけど?

 音声は本人のものだ。
 小百合以外に、こんなにひねくれた伝言を残す人間はいない。
 一息ついて、話し始める。
「ええっと……アルドだ。アルド・ディクライシス。あんたの目論見通り電話をかけた。五年ぶりか。ずっと心配してくれていたんだな。
 でも、もういいんだ。俺宛のメモを残さなくても。
 サユリやアランのおかげで、俺はここまで生き延びることができた。
 そしてこの場所で、あんたたちのような、大切な人々と生きることができている。
 だから、心配しないでくれ。俺はもう、五年前の俺じゃない。
 最後に一つ……女性らしいものをコレクションしなくても、サユリは良い女だ」
電話を切り、ジーンズのポケットにしまう。
 足元に置いていたボストンバッグを拾い上げる。
「もういいぞ」
手振りで合図を送る。耳を塞ぐくらいでは遮断できないはずなのに、電話の内容について、二人は何も問わなかった。
「それじゃあ、行きましょうか」と凛がにっこり笑い、「お腹すいたね」と伸びをする。
「まずは腹ごしらえだな!」真一が嬉しそうにはしゃぐ。
「肉食いてえな! 新鮮な肉!」
「あたし、ケーキ。甘い珈琲と一緒に、苦めのガトーショコラがあると素敵」
「二人とも、朝から元気だな……」
「食わねぇとやってられないからな。フィアスは?」
「俺は禁煙でなければなんでも良い」
「相変わらず、お手軽なやつだな。マジで霞を食って生きてるわけ?」
ガレージへたどり着く。
 助手席に乗り込んだ真一が、早くもカーナビで近隣の食べ物屋を検索し始める。
「なんだかワクワクしてきたわね!」
凛も背後から身を乗り出し、画面を覗く。
「外は良い天気だし、美味しいご飯を食べたあとは、遊園地にでも行きたい気分!」
「俺も俺も! 最終目的地はコスモワールドにしとこ!」
「きゃー! 楽しみー!」
「楽しみー!」
きゃっきゃと笑う凛と真一の隣で、フィアスは溜息を吐く。こちらに気を遣って、から元気を出しているかと思いきや、二人は本気ではしゃいでいる。後天遺伝子の能力もないのに、どこからその気力が湧いてくるのか教えてほしい。
 俺の方が先にくたばりそうだな、などと思いながら、フィアスはアクセルを踏みこんだ。