「俺なりの筋を通すだけだ」
そう言って、一之瀬が車を降りてから、一時間が経過した。
正宗は助手席のシートに前かがみになったまま、いたずらに時をやり過ごした。車が停車されているのは、コンクリート壁で囲まれた屋内駐車場だ。隣を見ると、似たような黒塗りのベンツが数台陳列されている。懐かしさは感じない。
正宗が現役だった頃は、屋敷のもっと奥に駐車場が建てられていた。長い年月の間に敷地内の改装工事が行われたらしく、新しい駐車場は裏門の近くにある。
この車を含め、ベンツの最新車種も馴染みが薄い。
短く息を吸う。
二秒待って、吐き出す。
そうやって心を落ち着かせないと、ここは夢の中だと錯覚しそうになる。
まったく、信じられない気分だ。
笹川組組長・笹川毅一……彼の家の敷居を、再びまたぐ日が訪れようとは。
「兄弟のさかずき」を交わした頃は、毎日のように出入りしていたこの家。
あの頃から年季が入っていた日本家屋は、今も変わらず重厚な威厳を漂わせている。熟練の庭師が手入れしている、比類なき日本庭園もそうだ。
変わったようで、変っていない。

一之瀬慶一郎は、煙草をやめた。
しかし、本質は変わっていない。

昔ながらの生真面目さで、この場所へ筋を通しに来た。
「元・義弟を連れてきました」と打ち明けられて、笹川毅一はどんな反応を示しているのか。増して「身柄を保護したい」などという突拍子もない提案に、どんな答えを出すのだろうか。想像がつかない。
過去、笹川から叱咤しったを受けたことは幾度もある。手をあげらたこともしばしばだ。
しかし「3.7事件」が起こる前――組織から追放された時は、この身に受けた処罰とは裏腹に、笹川毅一は静かだった。怒声ひとつ上げなかった。憤怒ふんどの念を体内へ封じ込めたように、その顔にはなんの感情も浮かんでいなかった。
 笹川に関して、正宗の最後の記憶は白くにごっている。
 熱さも冷たさもない、霧のような無表情。
 今回も、そのように話が進んでいるかも知れない。「義理と人情」の代名詞である人間が、「人間性」を放棄して機械的に判断を下す。その判断がなんであれ、自分とは一切関わらせることなく終わらせる。
 関わりたくないならそれで良い、と正宗は思うだけだ。
 過去を忘れたわけじゃない。
 俺は被害者だったんだ! と、弁解したいわけでもない。
 そもそも自分は被害者ではない。<サイコ・ブレイン>の講じた策に自ら引っ掛かりに行った。濡れ衣とはいえ「3.7事件」の原因は、紛れもなく自分にある。
 俺の本質は変わってしまったんだろうか、と正宗は考える。
 長く幽閉された影響で、精神は狂い始めている。希薄きはくな感情や捨て鉢な心境は、丹念たんねんに時間をかけて粉々に砕かれた心の残骸だ。
 しかし、本質は?
 俺の本質はあの頃のまま――とは言わない、多少なりとも歪曲し変容していたとしても――原型を保っているなら、ここでじっとしているべきではない。
 正宗はロックを解除すると、車のドアを開ける。シャッターの開閉ボタンを探したが見つからず、扉の内鍵を外して外へ出た。荘厳な庭園は、車内から見たときよりずっと青々としているように感じられる。向かい風も強い。
 軽く息を吐く。上着のポケットに手を突っ込んで歩き出す。
 一之瀬は裏切り者を連れてきた。いかなる事情があろうとただでは済まされない。なんらかの「ケジメ」をつけることも踏まえた上で、頭に許諾きょだくを求めに行く。それが彼の筋の通し方だ。
 片目を失ったときと同じように、粛々しゅくしゅくとその身を犠牲にする。それが、一之瀬の変わらない本質だ。
 ……極道が、聖人君子せいじんくんしになってんじゃねぇよ。
 玄関戸を開く。靴を脱いで上りかまちに登ったところで、物音を聞きつけた若衆が出てきた。
「な、なんだ……」
「誰だ、お前?」
「いつの間に!」
戸惑い、どよめきを露わにする男たちを無視して、正宗は縁側に続く廊下へ足を向ける。二人がいるとしたら、恐らく客間。忍者屋敷のように入り組んだ邸内だが、道順は覚えている。
 と、肩先を強い力で掴まれた。自分より十歳は年若いヤクザが、鋭い目で正宗を睨みつける。
「誰の客人だ? 約束はあるんだろうな?」
「笹川毅一に用がある」
親父おやっさんに? あんた、一体何者だ?」
肩に置かれた手を静かに払う。ヤクザもすんなりと手を退いた。しかし、彼の背後に立つ数名は、腰を落として臨戦体制りんせんたいせいを保ったままだ。
「親父っさんは、取り込み中です。約束があるなら……」
「約束はない。兄貴とけーいちの話し合いに、俺も混ぜろと言ってるんだ」
「は? 兄貴? けーいち?」
ぽかんとした顔で立ち尽くすヤクザに背を向けると、正宗は歩き出す。待て待て待て! 困惑した大勢のざわめきとともに、背後から羽交締はがいじめにあったが、なにぶん狭い廊下での出来事だ。先陣の一人が正宗を拘束するだけで、後方のヤクザたちは手出しができない。血の気の多い視線が、背中にびしびしと当たるだけ。
……まったく、何の喜劇だ。
 両腕をだらりと下げたまま、正宗はこめかみを掻く。それから、背後の若造めがけて思い切り頭突きを喰らわせた。
「うぐっ……!」
 鈍い悲鳴を上げて、相手の力が緩む。その隙に、鳩尾みぞおちを肘でつく。緩急が大切だ。確実に意識を奪わないと、吐瀉物としゃぶつの雨に降られることになる。
 今度は正宗がぐったりとしたヤクザを羽交い締めにする番だった。若衆たちと対峙する姿勢で長い廊下を後退する。玄関先に溜まった若衆たちは、怒声を発しながら銃を構えるが、仲間を盾にした正宗を仕留めるには度胸が足りない。
 ヤクザの大きな背に身を隠し、ゆっくりと後退る。
「大丈夫だ。あの二人に手荒な真似はしない。コイツをのしちまったのは、まあ……仕方なくだ。この家で銃を撃つと、親父っさんに怒られるぞ。俺は気に入らない奴を小突いただけで、兄貴に百発は殴られたからな。今、その役目を請け負っているのは、けーいちかな。まあ、どうでもいいや」
ずるずるとヤクザを引きずりながら、正宗はため息を吐く。
「興奮すると、喋っちまう。思っていることが、躊躇ちゅうちょなく口から出てくる。血の通った人間と話すのは何年ぶりだ? ヤクザですら、まともに見える。イカれているんだな、俺は……」
「今に知れたことじゃない」
後退していた背中が、ぶつかった。首を傾げて背後を見やると、一之瀬と目が合った。ジャケットに手を突っ込んだまま、正宗を見下ろしている。
 悪戯を見つかった子供のように、手にしていた獲物をぱっと離す。するとヤクザの身体が、ずるずると足元へ滑り落ちた。
 相変わらずだな、と一之瀬はつぶやいた。その目は呆れを通り越して、微かに面白がる素振りさえ見せている。
 昏倒こんとうしたヤクザの元へ、同胞が駆けつける。一之瀬は、正宗を客人だと説明して、静かに場を収めた。血の気の多い何人かは反発した目で無礼な客人を睨みつけたが、物言わず同胞を担ぎ上げると、その場から撤収てっしゅうした。部下が廊下の突き当たりに消えてゆくのを見届けて、一之瀬は腕を組んだ。
 鋭い隻眼で目下を見下ろす。既に、この家へ乗り込んできた正宗の懐を見透かしているようだ。
 冗長にならないように注意しながら、正宗は言った。
「俺も筋を通しに来たぞ」


 歩道橋を歩き始めて三歩。その時点まで歩いてゆくと、「何でも屋」の窓が見える。
 人影が見えるか、明かりが点いていれば、その部屋に人がいると分かる。扉を叩かずとも状況が分かるのは、とても便利なものだけど、早くに答えを知ってしまうだけ、ガッカリするのも早くなる。
 はあ、と小さなため息を吐いた瞬間、はっと思い直して頬をぱちぱちと叩く。
「何をガッカリしとんねん! 取り立ての手間が省けたやろ!」
……思わず、セルフツッコミを入れてしまった。しかも、どつき漫才込みで。
 ヒリヒリする頬をさすりながら、荻野茜は「何でも屋」を見つめる。今日も無人だ。
 真一から連絡があったのは五日前。見慣れない番号だったため、警戒しながら電話に出ると、底抜けに明るい、ヤツの声が聞こえてきた。
――よっ! 俺が誰だか分かる?

 真一と最後に顔を合わせたのは、一ヶ月以上前だ。「須賀濱高校すがはまこうこう立てこもり事件」を解決した後、笹川組の後継者問題が持ち上がった。ヤクザの頭領にされかけた真一は、際どいところで難を逃れた。後日、その事後報告も兼ねて、会って少しだけ話をした。
 生命いのちを狙われているらしい真一の背後には、黒服のヤクザが立ち並び、抜け目ない炯眼をあちこちに走らせていた。
 呆れながら茜は尋ねたものだった。
「アンタ、ほんまは組長とちゃうん?」

――俺だよ、俺。俺だよ、かーちゃん!
「真一、ボケてるつもりかも知れんけど、オレオレ詐欺の時代はとっくに終わっとるで」
――知ってるよ。それを踏まえてのシュールなボケだよ。
「独創的すぎて意味不明や。それで、用件はなんやねん?」
――お前はいつも単刀直入だよなぁ。俺と同じ大阪生まれなら、ちょっとしたジョークに付き合ってくれても良いんじゃないの?
ほがらかな笑い声が受話器先から聞こえてくる。
うっ、と茜は内心で詰まる。本当は、聞きたいことが山ほどある。一ヶ月以上も音信不通で、気にならないわけがない。本題に入るまでが短すぎた、と光の速さで後悔をしている現況を、言い当てられるとは。
「う、うるさい……うちも忙しいねん! はよ話さんかい!」
本心とは裏腹な答えが口をついてどんどん出てくる。自室の勉強机の下、茜はうずくまって頭を抱える。この気持ちを知る由もない真一は、「高校生が忙しいって……さては、夏休みの宿題、終わってないんだろ?」と的外れな推測を口にしている。
 いや、大方的外れでもない。たしかに夏休みの宿題は終わっていない。
 「3・7事件」の情報と引き換えに、真一の友達の金髪の兄ちゃんに渡した夏休みの宿題が戻ってこなかった。
 担当教師にはごまかしごまかし、なんとか自然消滅に持っていこうとしているところ。
――「何でも屋」の家賃なんだけどさ。先月分と今月分の支払い、俺、忘れてるじゃん?
「せやな。自白するとは、ええ度胸や」
――電話越しでも圧がすげぇな……悪かったよ。一括で支払うから、口座番号教えてくれる?
「へ? 口座?」
――うん。二年分くらい、まとめて払うよ。
「えっ……」
返す言葉がない。二年分を一括で? 万年、素寒貧すかんぴんの真一にはあり得ないことだ。宝くじにでも当たったのか? ついに犯罪に手を染めたか?
 そんなことより、家賃支払いが手渡しでなくなったら、「何でも屋」に行く理由がなくなってしまうはないか。
 無口になった茜が、疑いの眼差しで自分を見ていると勘違いしたらしい。
 俺は法を犯してない。きちんとした金だよ。まあ、友達から借りてるけど、と真一は大慌てで弁解する。
 本来なら聞いて安心する言葉が、右耳から左耳へ、意味を持たず流れていく。
「……ほな、ウチはもう、取り立てに行かなくてええの?」
――うん。だから〝何でも屋〟には近寄らないでくれ。
 金たらいが降ってきたような衝撃が、茜を打ちのめす。近寄らないでくれ。近寄らないでくれ。近寄らないでくれ……真一の言葉が、エコーがかって頭の中をぐるぐる回る。へなへなとその場に腰を落とす。
 それって、つまり、「俺に近寄るな! ウゼーんだよ!」ってこと?
 茫然自失ぼうぜんじしつの茜の目から、じわりと涙が溢れ出す。
 なんやねん……。
 そんならそうと、はよ言え、アホ……。
――今回の仕事は、ちょっとばかし危険でさ。俺の拠点もヤバくなるかも知れない。「何でも屋」には、近寄って欲しくないんだ。茜の身に何かあったら心配だから……って、俺の話、聞いてる? もしもーし?
「……ウチも、お前なんか嫌いじゃ! ボケ!」
――えぇっ、何言ってんだ? ちょっ……!
 通話終了ボタンを押す。すぐに折り返しの着信があったが、無視した。膝を抱えて、ぐうぅ、と呻く。痛みをこらえる子熊の唸りのようだが、これは茜独特の泣き声だ。
 可愛くない声だと、冷めた心で自分を観察しつつ、その後も五分ほど泣いた。


 せやねん。金の切れ目は縁の切れ目――実際には、切れていた金が繋がったわけだが――と言うし、悪縁を断ち切れて万々歳や。家賃の取り立てに頭を悩ますこともなくなったし、ええ事づくめやないか!
 盛り下がる気持ちを無理矢理鼓舞しつつ、茜は歩道橋を渡る。
 しかし、三歩も行かずに、気が沈む。
「万々歳なら、どうして馬車道におんねん!」
 ……またしても、セルフツッコミが入る。
 馬車道にある「何でも屋」の方面へ向かうと、自宅へは遠回りになる。しかも今日、友人の室井庵奈むろいあんなから横浜駅で遊んで帰ろうという誘いを断ってしまった。
 そこまでして、ここ数日、足繁く「何でも屋」の前を通るのはなぜだ。
「ウチのこういうとこ、ウザかったんやろか……」
通学鞄を胸に抱いて、茜はうなだれる。
 真一は生命を狙われていると言うし、このまま、会えなくなってしまったら……と考えると、心臓のある部分がぞくっとする。鞄から携帯電話を取り出し、画面をタッチする。数日前の着信履歴を呼び出す。
 ……ウザがられることを覚悟して、電話を掛け直してみようか。
 ……もし、着信拒否をされていたら、立ち直れなくなりそうだ。
 ……でも、膝を突き合わせて話し合うべき問題だと思うし。
 うんうん唸りながら橋の上を右往左往する。
 迷っていても埒が明かない。思い切って電話してみよう! とボタンに手を伸ばしたそのとき。
 轟音とともに歩道橋に衝撃が走った。
「痛っ!」
足元が大きく揺らぎ、橋の手すりに体をぶつける。息を飲むような激痛が走り、力なくその場に倒れ込む。気を失ったのは一瞬で、冷や汗の流れる顔をあげると、立ち上る黒煙が見えた。歩道橋の柱に車が衝突している。
 目下で大事故が起こっていた。通りすがりの人々が、恐る恐る車に近づく。運転席のドアは開く様子がない。
 こんくらいで弱っている場合やない! 車内の人を助けないと!
 元来の正義感を武器に、茜は立ち上がる。が、即座に直感が働いた。
 この場から、逃げろ!
 事故現場から反対方向へ、体が勝手に動く。両腕に鞄を抱え、下り階段を駆け下りる。
 途中で、爆発音がした。もうもうと上がっていた煙が一際大きくなり、車が燃え盛った。漏れ出したガソリンに火がつき、爆発したのだ。爆風にあおられ、人命救助に向かった何人かが道端に倒れる。
 反対車線を走行していた車が何台も止まり、運転手が出てきた。被害に巻き込まれないように距離を取りながら、おろおろとその場を傍観している。
 通行人の何人かは携帯電話を耳に当てている。救急車や警察に連絡をしているに違いない。
 悲惨な事故だ。念のため、茜も携帯電話を取り出した。既に通報されているにしても警察に連絡をしよう。
 パン! パン!
 軽い破裂音が聞こえた。立て続けに二発。耳に狂いがないのなら、燃え盛る車の中からだ。
 まさか、この音……銃声か?
 車の一番近くにいた見物人の一人から、血飛沫が上がった。続け様にもう一人。頭から血を吹いてくずおれる。
 パン! パン! パン! パン!
 さらなる発砲音。
 何が起こっているのか分からない。事故現場で立ち尽くす人々は、間の抜けた顔で新たな惨劇の犠牲者を見下ろした。
 それもまた、一瞬の出来事だった。燃え盛る車の周辺は、阿鼻叫喚あびきょうかんの地獄と化した。銃声が起こるたび、逃げ惑う人々が次々と倒れてゆく。老いも若きも、男も女も関係ない。ゲームのように死体が次々と出来上がっていく。
 道路を挟んだ向かいから、茜はぼんやりとその様相を眺めることしかできなかった。
 たった今、髪の長い女性が倒れた。その背を足で踏みつけ、続け様に二発の銃弾を浴びせる。
 ようやく、この地獄を作り出した主の姿が現れた。どうやら男のようだ。彼の洋服は今もなお燃え続けていた。髪の毛にも火が移り、チリチリと小火ぼやを起こしている。自分の状況を省みることもせず、ひたすら銃を撃ち続ける男。彼は空を見上げて、狂ったような笑い声を上げた。
 茜はごくりと唾を飲み込む。凍りついた足に喝を入れ、そろそろと階段を登っていく。
 BARの二階にある、何でも屋へ。
 部屋の中へ滑り込みさえ出来れば、殺人犯の目から身を隠すことができる。
 ドアへたどり着き、祈るような思いで、後ろ手にノブを回す。
 ……開かない。

 何でも屋には、鍵が掛かっていた。