その夜、包帯を解くと、薬剤のにおいが鼻をついた。冷たさを感じる薬品臭。
 五感を閉じる・・・・・・と、頭の脈打つような痛みが、しぼむように解消した。
 ほどいた包帯をゴミ箱に捨てる。
 ソファの肘掛けを支えにして、立ち上がる。
 肘掛けから手を離して、バランスを取ってみる。
 悪くない。
 五日前、銃で撃ち抜かれたはずの患部は、薄い銃創を残して回復した。骨折していた足首に、黄色いあざができているが、痛みは感じない。
 傷は癒えたのに、強い感傷が後に残る。
 一呼吸して、その傷を忘却する。身体さえ元に戻れば問題はない。

 今夜はこの家で過ごす最後の夜だ。
 明朝、横浜に戻り、フィオリーナと合流予定。
 再び、戦いが始まる。

 フィアスは床に手をついて簡単なトレーニングを始める。身体をなまらせないように、横浜にいるときから日課として行っているものだ。
 仰向けになって天井を見上げると、
「Call me, Aldo!」
またしても、あのカードだ!
 紙は、ピンク色のピンで留まっていた。ソファを踏み台にして、カードを剥がす。
 名刺大の厚紙に綴り文字。彼女が愛用している万年筆で書かれたものだ。
 文字の端に滲む、ミッドナイトブルーのインクのつやで分かる。まだ新しい。
 直近に、時藤小百合はこの家を訪れた。そのときに書かれた、これは最新バージョンかも知れない。
 この家に来た初日に夢を見た。その夢は、小百合との別れの再現だった。あの街から姿をくらます直前の出来事……しかし、あれはあくまで夢の中の⁠空想であって、実際の別れの記憶は⁠ない。挨拶を交わしたかどうかすらも覚えていない。
 自然忘却か、意図的な消去か、その空白は恐ろしいほどだ。
 カードをゴミ箱に捨てようとして、手が止まる。
 灰青色の瞳がわずかに見開き、階段を振り仰ぐ。
 ――呼んでいる。
 反射的に、内ポケットにカードをしまう。
 出来るだけ、静かに階段を登る。
 月明かりに照らされた廊下。扉の前で一呼吸分、立ち止まる。
 ゆっくりと、ドアノブを回す。
 鍵は掛かっていない。小さく軋みながら、扉が開く。
 部屋の中は、深海のように蒼い。銀色の月光と、濃紺の宵闇が混ざり合って、不思議と仄明るい。
 昼間の寝室とは大違いだ。
 キャビネット上の写真立てがちらりと視界の端に映る――伏せたはずが、いつの間にか元に戻っている。彼女が元に戻したのだろうか。
 フィアスはベッドに近づくと、シーツを被った人影には触れずに、その場に身をかがめた。
「リン」
 白い影がわずかに震える。被っていたシーツがずり落ち、乱れた黒髪が現れる。
 シーツをローブのようにまとった凛が、濡れた目でフィアスを見下ろす。
「小さな声でささやいただけ」
涙に滲む、かすれ 声。
「貴方の名前を……ただ、それだけ」
白い両腕が伸びる。
 前のめりの彼女から、シーツが徐々にずり落ちてゆく。まるで卵の殻を破って、雛が生まれ出たように。
「君の声はすぐ聞き取れる」
 フィアスは両膝を立て、そっと彼女を抱きしめた。
「何があった、リン?」
小さな身体が震える。両手で顔を覆い、苦しげに嗚咽する彼女を、腕の中に見下ろす。凛は裸だ。細い身体のラインが月光を受けて、青白く光っている。
 ぽたぽたと落ちる涙が剥き出しの胸の上⁠を滑る。蝶の刺青⁠を輝かせて。
 白い肩先は冷えてい⁠た。うちに抱えた熱と対照的に、冷たい鎧を付けているように見える。その鎧に手を触れていると、⁠徐々に熱を取り戻し始めた。
「リン」フィアスは名前を呼ぶ。
「⁠俺が分かるか、リン⁠?」
 こわばった半身から力が抜ける。顔を覆う両手が徐々に開かれ――力なくだらりと垂れ下がる。
 号泣後の放心状態。
 黒い瞳には、意思という名の光がない。
 抱擁を解くと、フィアスはずり落ちたシーツを拾って、凛の身体を包むようにかけた。
 茫然自失ぼうぜんじしつの状態は、時が経てば解決する。
 だから、永遠と思えるほど長い数分をしのぐ。
 その際、思考や感情は、意識の外側に置いておく。押し殺すのではなく、距離を取るやり方だ。
 今、それらに支配されれば、彼女をまともに見られなくなる。こんな風に、頬を伝う涙を拭うこともできないだろう。
 息を殺しながら、彼女が自身の感情を取り戻すまで待ち続ける。
 ⁠やがて、ふぅ、と⁠赤い唇から、子供のような吐息が漏れた。
 這うようにベッドを移動する手が、⁠自分の手⁠に触れる。
「貴方と寝たいの」と凛は言った。
 シーツがはだけ、彼女の半身が顕になる。
 白い肩先、小ぶりな胸、肋骨と、平らな臍と、下腹へ続く暗闇が、月光の下に照らされる。
「⁠どうか、あたしを抱いて」

 予想していたにも関わらず、その言葉はフィアスを驚かせた。
 それは、奇妙な衝撃だった。
 依頼者は守るべき存在で、セックスの対象ではない。
 無意識に敷いていた境界を、こんな風に打ち崩されたことは初めてだった。
 仕事のために避けてきた感情、彼女を守るという大義に溶け込ませてきた感情が、自分の中に戻ってくる。正面から受け止めるには、あまりにも強すぎる想い。
 思わず、握られていない方の手で、シーツの裾を掴んだ。

 ――俺も、君と寝たかった。
 ――ずっと前に、そうするべきだった。

 その気持ちは、あっという間に過去の記憶に変わった。
 後悔よりも、懐かしさを感じるほどに。

 凛は目を瞑ったままだ。
 浅い息を吐きながら、欲望が満ちる時を⁠待っている。
 それは、逃げ場を失った動物が、殺される瞬間を待っているようにも見える。
 フィアスは身を乗り出してキスをした――凛の額に。
 性愛から、一番遠いところに。
「その望みは叶えられない」
困惑でいっぱいの黒い瞳に向かって、静かに続ける。
「たとえ、俺の望みであったとしても」
「どうして? あたしたちが望むなら、問題ないはずでしょう?」
問題だらけだ、とつぶやく自分の声が、自分のものではないみたいだ。
「俺は、後天遺伝子の適合者。君は、先天遺伝子の子供を宿すことができる」
 彼女が息を呑⁠んだのが分かった。⁠驚愕、動揺、失望、悲しみ……それらの感情が、肉体が放つ音に変わって、鋭い五感を通して聞こえてきた。
 ⁠意識的に閉じていた感覚が、本来の鋭さに戻っていた。頭痛がしないのは、緊張や恐怖が、痛みの感覚を紛らわせているからかもしれない。
 凛は言葉を失ったままだ。視線を落とし、絶望的な表情を浮かべている。
 フィアスは耳を澄ます。覚悟を決めろよ――⁠その叱咤が、聞こえた気がして。
 心の傷に触れるなら、覚悟を決めろ。
 その声に答えるように、フィアスは言った。
「可能性は、ゼロの方が良い」