その夜、二階へ続く階段を見上げていると、扉の開く音がした……一階の客間からだ。
「フィアス」
廊下とリビングをつなぐドアを開け、真一が入ってきた。そのまま、ふわぁっと大きなあくびをしながら、向かいのソファに腰掛けた。
 睡眠途中で目が覚めたのか眠そうだ。かろうじて私服が保管されていた自分とは違い、真一は着替えを持っていない。この家に来てから、ずっと同じ洋服を着まわしている。
 眠りに就くときも普段着のままだから、落ち着かないのだろうか。
「変な夢見てさ」
わけを聞く前に、真一は言った。
「変っていうか、不思議な夢? 寝直すことも出来なくて」
「返答に困るな」フィアスは答える。
「リンの声は聞かなかったか?」
「凛? なんで?」
「聞いていないなら良い」
 んー、と眠たげな相槌を返して頭を掻く。そして再び、あくびを一つ。
 さっさと寝ろ、と言いかけて、思い直す。
「凛が……」と真一が切り出したからだ。
フィアスは身構える。
「リンがどうかしたか?」
「凛が昼間に作ったクッキーの味を聞きたかったんだけど……お前、いつにも増して食いつきがいいな。またケンカしたわけ?」
フィアスは言葉に詰まる。本音を言い合う口論ならば、どんなに救われたことだろうか。腕組みをしたまま考え込むフィアスに、察するところがあったのだろうか、真一はさらりと話題を変えた。
「それで、ご感想は?」
「クッキーの?」
うん、と真一は笑った。
「⁠美味かっただろ?」

 夜の警護にあたろうと部屋を出たところ、甘いにおいが鼻をついた。
 リビングテーブルには皿いっぱいに、様々な形のクッキーが積み上げられていた。
 力作! と満面の笑みを浮かべた凛にすすめられれば、食べないわけに行かない。
 今夜、奇襲を受けたらまともに戦えないかもしれない……そんな懸念を覚えながら一口かじると、意外にも悪くなかった。普通のクッキーの味がした。
 驚きが顔に出ていたのだろうか。おいしいでしょ! と微笑む凛に、「おいしい」とだけ返事をした。
 ハイティーン時代の数々の経験から、こういうときに細かな感想を述べると後で厄介なことになる、ということは学習済みである。
 代わりに「どうしてこんなことを?」と聞くと、「気が向いただけ」というそっけない返事だった。

「俺も手伝ったんだぜ。途中で、塩をガンガンに入れるのを阻止した」
「何事も反立というか、抑止力よくしりょくが必要ということだな」
「核兵器みたいな言い草だな。凛が聞いたら怒るぞ」
それはない、とフィアスは思う。「波紋の音」は⁠止んだ。
 凛は泣いた後の疲労から、現在は眠っている。
 この部屋にいると二階の動向ばかり気になるので、フィアスは真一を外へ誘った。といっても、家から離れるわけにはいかないので、玄関先で立ち止まる。
 初秋の夜風は、ひんやりと冷たく肌をかすめる。無性に煙草が吸いたくなったが、着ているシャツには内ポケットがついていない。そもそも手持ちの煙草がない。スーツを洗濯するときに、誤って一緒に洗ってしまっていた。
 それでも、無意識に懐へ手を伸ばすと、その仕草を見ていた真一が、おもむろに新品の「JUNK & LACK」を取り出した。
 ここぞとばかりに、ニヤリと笑う。
「お守り、持ってて良かったな!」
真一は、フィアスの好む銘柄を、お守りがわりに持ち歩く癖がある。
 自身は非喫煙者だが、「JUNK & LACK」のモノクロのパッケージが気に入っているらしい。
 実は出会う以前からこの煙草を身に付けていたが、最近ではもっぱら「相棒に守られている気になるから、持ち歩くことにした」と得意げに語っている。
 差し出されたケースから一本引き抜くと、家の中⁠へ私物のzippoライターを⁠取りに行く。
 こちらも水難に遭ったものの、乾かすと復活した。
 一度の摩擦で、長い火柱が立ち上る。
 実に三日⁠⁠ぶりの喫煙だ。
 図らずも、ここ数年間の禁煙の最高記録だった。⁠煙草を吸う余裕もないほど、様々な出来事が押し寄せた。その一つ一つに思いを馳せながら⁠口をつけると、恍惚こうこつこうこつに似た甘いめまいが視界を覆った。思わず、その場に座り込むほどの胡乱うろんな重圧。
「ヤニクラ起こしてる」
隣では真一が面白そうに、こちらを見下ろしている。
「うるさい」
紫煙を吐き出しながら、フィアスは疎ましげに真一を見上げる。そのまま、玄関先のわずかな段差に腰を下ろし、続きを吸った。
 静かなベッドタウンの夜。きつい照明の建物が少ないためか、小さな星々がよく見えた。
 星座のことは分からない。人間の世界からあまりにも離れすぎていて、知識を収集する必要性を感じなかった。詩的情緒してきじょうちょのあるものは得意ではないし、それらがりなす物語にも興味はない。
 それでも、今宵の星空は、美しく見えた。
 人間の理解を超えたところにある、芸術性を感じる配置だと思える。
 普段はこんな感想すら抱かないのに、久しぶりの煙草で頭がおかしくなっているのだろうか。
「もうすぐ、すべてに決着がつくような気がしている」
⁠何万光年も離れた場所にある光を見つめながら、フィアスは言った。
「俺たちが生まれる以前から始まっていた、すべての出来事が、終結する」
奇遇きぐうだな。俺もそう感じていたところ」と真一。
黒い眼差しは、同じように空を見上げている。
「さっきの夢」と言いかけて、真一は口を閉じる。先程見た⁠という夢の話がまだ引っかかっている⁠らしい。
 ただ、内容については語る気がないようで、目が合っても意味深げに笑うばかりだった。

「秘密と言えば」
フィアスは独りごちるようにつぶやいた。
「昨日の夜、凛と話をした。彼女には、秘密があるようだ」
「知らないの? 女の子って、秘密が多い生き物なんだぜ」
「一般論の話はしていない。もっと具体的な秘密だ。彼女は自分の遺伝子のことではない、別の問題を抱えている」
「凛、遺伝子のことを知っちゃったのか? 先天遺伝子の子供を産めるっていう、エグいやつ?」
「ああ。拉致されていたときに、小麗が漏らしたようだ……ひとまず、その件は置いておく。凛と話していて、気づいたことはないか? 手がかりがあれば、真相を解明できるんだが」
「解明して、どうするんだよ」
フィアスは、真一を見上げる。
真一は呆れたようにベリーショートの頭を掻く。
「大事なのは、そっちだろ。数学の問題じゃないんだからさ、答えを見つけて終わりっていうわけにもいかないだろ」
「そこまでは考えていなかった」
「そうだろうと思ったよ」
やれやれ、という顔で真一はため息を吐⁠く。
「あのな、それが凛にとって知られたくない秘密だったらどうする? 無理やり⁠秘密を暴くような真似をして、さらに傷つけてしまったら、どう対処するわけ?」
「……確かに」
「人間の心は数学の方程式じゃなくて、国語の文章題で出来てんの。特に女の子の気持ちなんて、難問中の難問なんだぜ」
「⁠俺の不得意な分野だ⁠な……」
片手で額を抑えながら、唸るフィアスの元に二本目の煙草が差し向けられる。
 励ましているような、餌付えづをされているような、どちらにしても屈辱を感じないでもない友人からの恵みを素直に受け取る。だいだい色の火が灯ると、すぐに紫煙が取り巻き始めた。
 煙草を吸うことで、束の間でも内省する時間が出来て幸いだった。もっとも、真一はこの件について、議論を交わしたい様子だ。歯切れの悪いところで終わった、フィアスの言葉の続きを待っている。
 と、堪えきれずに口を開いた。
「で、どうすんの?」
「解明するのか、しないのか?」
「そう。それなりの覚悟がないと、同じことの繰り返しになるぞ」
同じことの繰り返し……それは、凛がフォックスにつれさらわれたキッカケを示唆しさしているのだろう。
 ⁠わずかな言葉のかけ間違いで、彼女⁠の心を傷つけ、その身が危険にさらされた。
「責任は半分こ」と凛は言っていたが、あの一件は凛との向き合い方次第で回避できる問題だったはずだ。
 人差し指に煙草を挟んだまま、フィアスは目を瞑る。
 凛の失踪からフォックスとの戦いまでの一連の出来事を思い返すと、精神的な疲労が大きい。⁠再び似たような⁠いさかいが起きて、彼女⁠を傷つけてしまったら……と、想像するだけで吐きそうだ。
しかし……
「傷に触れないと、手当ができない」
あの夜の出来事を思い出す。凛の仕草、話し方、黒い瞳に湛えた涙を。
「彼女が話をらしたのは、触れられたくない話題だったからじゃない。迷惑を掛けたくな⁠いと思ったんだ……たぶん、俺に気を遣ったんだろう」
「本当にそうか?」
「そうでなくとも、見過ごせない」
煙草を捨てて、立ち上がる。
「リンは生命に変えて、守らなければいけない存在。その哀しみから救い出せなければ、俺の存在意義はない」
腕を組んで真一を見据える。
見据えられた真一は、うぅ、と呻き声をあげながら、熱を帯びた両頬に手を当てた。
「けしかけておいて何だけど……どうしてそんなキザなことを平然と言えるの? 俺の方が照れてきた」
「やかましいな。気づいたことがあるなら、さっさと教えろ」
「気づいたことならあるよ」
真一は言った。
「凛は、普通の女の子になりたがっていた」
⁠フィアスは顔をしかめる。
 普通の女の子?
「うん。昼間、クッキーを作りながら、言っていたんだ。〝女の子らしさって、強要されるとムカつくけど、自分の中に見つけられないと、不安になるもの〟なんだって」
「リンは……その、女の子らしさってやつを、自分の中に見つけられていないと?」
「⁠そんな風に見えたな、俺には」
 ⁠フィアスは眉間にシワを寄せたまま、腕組みをする。彼女の提起した問題のなかでも、難問中の難問だ。
 そもそも、「普通の女の子」ってなんだ? と聞き返しても、俺、男だし分かんねぇよ、と真一⁠も頭を掻くばかりだ。
 特殊な環境で育っているだけに、凛が平穏な人生に憧れる気持ちは分からないでもない。
 しかし「普通の女の子」とはなんだろう? どのような女性を指しているのだろうか。唐突に始めたお菓子作り⁠が、「普通の女の子」と関係しているのか?
 そして、「普通の女の子」の話が身体の震えと繋がりがあるかと言うと微妙なところだ。
 真一⁠の話を頭に書き留め、玄関のドアを開ける。俺に狙撃される前にさっさと入れ、と脅しを込めても、真一は足を早めることはなかった。
 ただ、自分の寝床に戻る前に、念を押すように告げた。
「心の傷に触れるなら、覚悟を決めろよ」と。