リビングで寝ずの番をしていたフィアスは、ソファから立ち上がった。
 机の上には飲みかけの珈琲――真一が寝床にしている一階の客間へと引き上げる際にれていってくれたもの――が、カーテンにこもる月光を映して、ほのかに輝いている。
 立ち上がり様、カップに残っていた珈琲を飲み干すと、静かにキッチンシンクに置いた。
 時刻は、深夜一時を回っている。
 五感を研ぎ澄ますと、周囲の静寂が水のように流れているのを感じた。
 治安の良いこの界隈を、真夜中に彷徨さまよう人は稀だった。終電に乗り遅れた人を乗せたタクシーが、たまに通り過ぎるくらいだ。
 だからフィアスは時間を決めて、五感を閉じる・・・・・・ことにした。
 それだけで感覚過敏による頭痛はかなり軽減されたし、五感を使っていない間は、後天遺伝子に対する嫌悪を忘れることもできた。
 なにより、五感を使わないことの最大のメリット――例えるなら、こうだ。
 静寂の水流に落ちる「波紋はもんの音」。
 ⁠ふいを突いてその音を聞⁠拾ってってしまうことに、動揺を覚えずに済むことだった。

 音を立てず階段を昇り、二階へ上がる。
 短い廊下に、三つのドアが並んでいる。
 一番奥まったところに見える、寝室の扉は闇に沈んでいる。
 室内の灯りはついていないようだ。
 ⁠部屋の前で立ち止まり、静かに扉をノックする。
「リン……もし起きていたら、話がしたい」
返事はない。
 途切れていた静寂が再び流れ始める。
 フィアスはリビングへ引き返し、ソファに腰かけ⁠る。溜息をついて、白い額に手を置いた。

 凛が⁠階段を降りてきたのは一時間後だった
 時藤小百合の私物から選んだ、白いワンピースを身につけている。寝間着代わりに使っているらし⁠⁠く、スカートの裾に細かなシワが寄っている。
 目が合うと、にっこり微笑んで、ふいに目が覚めてしまった・・・・・・・・・・・と告げた。
「なにか温かいものくれる?」
「そうだな……」
キッチンの戸棚を開ける。その場所に、真一がかき集めてきた食料品が備蓄されている。手当たり次第に引っ張り出してキッチン・カウンターの上に並べる。
「ココア、紅茶、珈琲、ワイン、ウィスキー……これくらいか」
「ワイン飲まない?」
「ホットでいいか?」
「うん」
ワインオープナーでコルクを抜くと、微小な木片が粒子のように舞う。年季の入ったものなのか、ラベルに描かれた絵が色褪せている。
 凛が側へ寄ってきて、カップを用意してくれる。
 彼女は真剣な顔で、ワインを注⁠ぐ手つきを見つめた。
 自分が注ぐわけではないのに、手違いが起こるようで⁠不安なのだろうか。
 子供みたいだな、と横目に見ながら、フィアスは電子レンジのボタンを押す。
 些細ささいであればあるほど、平凡に育った女性とは違う不安定さが垣間見える。
 一時間前にも彼女は起きていたが、そのことを尋ねるのは愚問と言うものだろう。
 すべての感情を含んで、凛の前に湯気の立つカップを丁寧に置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」と凛は微笑む。
 フィアスも自分のカップに口をつける。液体の温かさが舌に触れると同時に、揮発きはつしたアルコールの冷たさが鼻先をかすめる。甘みが強い。正体を偽った凛とデートしたときに、飲んだワインと味が似ている。
 猫舌なのか、凛は小さな息を吹きかけながらワインを飲んでいる。
 静寂を堰き止める、長い沈黙。
 口を開きかけ、閉じる。
 ジャケット⁠を探るが、煙草は見当たらない。
 足を組んで、カップを見つめる。
 うずくこめかみに、手を添える。
「フィアス」凛の声で、フィアスは顔を上げる。
「困ってない?」
「え?」
「眉間、シワ寄ってる」
反射的に顔に手をやり、思い直して前髪に触れる。髪の隙間から凛を見ると、⁠彼女も困り顔だ。
 寝室で話をしたときに聞きたかったこと。⁠話の途中で、真一の呼び声に遮られたことは、幸運に――あるいは延命に思えてしまったこと。
 フィアスは深い溜息を吐いた。
「聞⁠きたいことがある」
「うん」
「かなり、センシティブな内容だ」
凛は⁠身を固くする。
 強張った顔で身構えたものの、すぐに緊張を解いた。
 不思議そうに首を捻る。
 五感を研ぎ澄ませても、彼女の鼓動の速度は、まったく変わっていなかった。
 自分の質問に対して、思い当たるフシがないということだ。
 それは良いことであるはずなのに、仮説が外れていることを考えると、ますます疑問は深まった。
 ……そうでないなら、彼女は一体、何に怯えているのだろうか。
 ふわりとした花の香りが迫る。
 彼女がテーブルをまたいで、自分が座るソファの前にやってきていた。
「ちょっと!」
 腰に手を当てて、凄んでくる。
 フィアスは思わずのけぞった。
「な、なんだ?」
「無言のまま、五分経ったわ」
「いつの間に……」
「あたしをそっちのけにして、考えごとをしないでくれる?」
「そうだったな。君がいることを忘れていた」
「忘れないでよ! そういうところ、素直すぎるのよ。いつもは分かりづらいくせにね!」
「そ、そうか……Verzeihung。じゃなくて、sorry……でもない。ええっと、すまない。悪かった。ごめん」
「色々な国の言葉で、謝らないでほしいんだけど……」
凛は肩の力を抜くと、フィアスの隣に腰掛ける。自分のカップを手繰り寄せ、ふてくされたように口をつける。
 フィアスは凛の手に触れる。否、触れようとした直前、小さな身体がびくりと震⁠え上がる。あわせてカップが波打ち、⁠赤い液体が手の甲へ滴った。
「その癖について知りたい」フィアスは切り出した。
「フォックスにさらわれてから、君の身体に触れると、その反応が現れる。とても……とても気がかりな反応だ。この質問の意味が分かるだろうか? その、なんというか、話せることがあるなら、話してほしい」
そっと手を握る。
「……心配なんだ。とても」
「そういうことね」
凛は微かに息を吐くと、小さな声で言った。
「あいつには、レイプされてない」
「そうか……」
「安心した?」
凛は遠慮がちに微笑むと、手を握り返す。
 指先から伝わる穏やかな脈拍を感じ、フィアスは安堵の息を吐く。
 彼女は傷つけられていない……少なくとも、最悪の方法では。
「爆弾処理のコードを切っているみたいだ」
「緊張してる?」
「しない方がおかしい」
思わず漏れた本音に、凛は小さな笑い声さえ立てる。それから、少しだけ宙を見上げて思案した。
あたしの手の震えは、きっと……そうやって切り出した口調は、迷いがなかった。
「遺伝子の話を聞いたからだと思う。ネオの子供を産むことができるって話」
 彼女の口から思いもよらぬ言葉が飛び出て、フィアスは驚いた。
 龍頭凛は、先天遺伝子の適合者⁠だ。
 先天遺伝子は、特別な遺伝子を持つ女性しか子孫を残せない。
 彼女の母親・龍頭葵りゅうとうあおいは先天遺伝子の子供を産むのに適した遺伝子を持っていて、遺伝的特徴が子供たちにも引き継がれた可能性がある。
 彩が死んだ今、⁠凛⁠の身体は⁠先天遺伝子にとって唯一の母体となり得るのだ。
 このことを凛が知れば、両組織の戦いを止めるために、自ら生命を絶つかも知れない。フィアスはフィオリーナと話し合い、事実を伏せることにした。少なくとも、ネオを始末するまでは、本人に打ち明けないと決めていた。
 しかし、凛はたどり着いてしまった。
「嘘か誠かはともかく」⁠と前置きしてフィアスは言った。
「その話を、誰から聞いた?」
「李小麗から。フォックスに拉致されていたとき、彼女も近くにいたの」
「あの女か……」
「彼女、真面目そうだった。人を傷つけるような、作り話は出来ないタイプね」
「そうだな。彼女は、苛つくほど真面目だ」
フィアスは諦念ていねんのため息を吐く。
 ネオでさえ、遺伝子の秘密を隠していた。それはきっと、こちらが口を塞いでいたのと同じ理由からだ。
 その沈黙を、小麗は破った。
 小麗は、凛に対して特殊な感情を抱いている。<サイコ・ブレイン>がひた隠しにしてきた秘密を、本人の前でいとも簡単に暴露するとは、それだけ恨みが深いと言うことだ。殺意すら抱いているかも知れない。
 押し黙ったフィアスを見て、
「あたしは大丈夫」
励ますように凛は言った。
「身体が震えるのは、ただの反応。誰かに触れられたとき、最悪の未来をちょっと想像しちゃうだけ。でも、心は大丈夫。貴方が守ってくれるって、分かっているから」
「もちろんだ」フィアスも頷く。
「君には、指一本触れさせない。絶対に」
「頼むわよ、ボディーガードさん」
凛はにっこりと微笑む。
 その笑みは、完璧なほど徹底していて、身体の反応から遠いところで光っている。
 あまりにもかけ離れすぎていて、まったく意に介していないようにすら見える。
 こちらを気遣ってくれているのだろうか。
 君は優しいんだな、と言いかけて、フィアスは口を閉じる。
 ⁠ある違和感が⁠脳裏をよぎる。
 彼女は優しい。
 優しいからこそ、その笑顔は何も語っていない。
 遺伝子の話を持ち出したのは、すり替えるためだ。
 身体の震えを、ネオを倒せば解決するという、簡単な答えにすり替えた。
 これ以上、問題を増やさないために。
「リン……」
 灰青色の瞳が、黒い瞳と交錯する。
 凛の笑顔がわずかに揺らぐ。
 すると、一滴の涙が零れ落ちた。
 へへへ、とごまかすように笑いながら、涙を拭う。
「これは、安心の涙ね。あたしは大丈夫だから」
そう言って、立ち上がる。
 白い手には、ワインの滴った赤い筋がついている。
 咄嗟とっさに手を掴むと、凛の身体がびくりと震えた。ただの反応――彼女が言い切るところの問題が、あらわれる。
「俺の名前を呼んでくれ」
 フィアスは凛を見上げた。
 凛の目が大きく開く。その瞳に、堪えた涙が透明の膜を作っている。
「君が呼べば、俺は必ず傍に行く」
手を離す。
挨拶もそこそこに、彼女は足早に階段を登っていった。
薄暗い闇の中に、白い残像がいつまでも残る。
⁠波紋の音、とフィアスは声に出さずつぶやく。

静寂の水流に時折落ちる、「波紋の音」。
この家に来てから、毎晩聞く。
それは、凛の泣き声だった。