リビングで寝ずの番をしていたフィアスは、ソファから立ち上がった。
机の上には飲みかけの珈琲――真一が寝床にしている一階の客間へと引き上げる際に
立ち上がり様、カップに残っていた珈琲を飲み干すと、静かにキッチンシンクに置いた。
時刻は、深夜一時を回っている。
このまま朝まで見張りをし、真一が起きるのと交代に仮眠を取る。フィオリーナと合流するまでは、そのやり方で身辺警護を行うと、二人に説明していた。
意識して五感を研ぎ澄ますと、周囲の静寂が、水のように流れているのを感じた。
数百メートル先まで、その流れを追うこともできた。治安の良いこの界隈を、真夜中に
だからフィアスは時間を決めて、
それだけで感覚過敏による頭痛はかなり軽減されたし、五感を使っていない間は、後天遺伝子に対する嫌悪を忘れることもできた。
音を立てず階段を昇り、二階へ行く。
五感を使わないことの最大のメリット――例えるなら、こうだ。
静寂の水流に落ちる「
その音を聞き拾ってしまうことに、動揺を覚えずに済むことだった。
寝室の扉は闇に沈んでいる。
室内の灯りはついていないようだ。
静かに扉をノックする。
「リン……もし、起きていたら、話がしたい」
リビングへ引き返し、再びソファに腰かけた。
凛が寝室から降りてきたのは一時間後だった。
時藤小百合の私物から選んだ、白いワンピースを身につけている。寝間着代わりに使っているらしい。
フィアスと目が合うと、にっこり微笑んで、
「なにか温かいものくれる?」
「そうだな……」
キッチンの戸棚を開ける。その場所に、真一がかき集めてきた食料品が備蓄されていた。
「ココア、紅茶、珈琲、ワイン、ウィスキー……これくらいか」
「ワイン飲まない?」
「ホットでいいか?」
「うん」
ワインオープナーでコルクを抜くと、微小な木片が粒子のように舞う。年季の入ったものなのか、ラベルに描かれた絵が色褪せている。
凛が側へ寄ってきて、カップを用意してくれる。ワインを注ぐ傍らで、彼女は真剣な顔でその動作を見つめていた。
手違いが起こるようで心配なのだろうか。
子供みたいだな、と横目に見ながら、フィアスは電子レンジのボタンを押す。
一時間前にも彼女は起きていたが、そのことを尋ねるのは愚問と言うものだろう。
すべての感情を含んで、凛の前に湯気の立つカップを丁寧に置いた。
「ありがとう」凛は微笑む。
フィアスも自分のカップに口をつける。液体の温かさが舌に触れると同時に、
猫舌なのか、前方の凛は小さな息を吹きながらワインを飲んでいる。
口を開きかけ、閉じる。
ジャケットの内側に手を入れるが、煙草は見当たらない。
腕を組んで、カップを見つめる。
「フィアス」凛の声で、フィアスは顔を上げる。
「困ってない?」
「え?」
「眉間、シワ寄ってる」
反射的に顔に手をやり、思い直して前髪に触れる。髪の隙間から凛を見ると、微かな笑みを浮かべている。
寝室で話をしたときに聞きたかったこと。途中で、真一の呼び声に遮られたことは、幸運に――あるいは延命に思えてしまったこと。
それらを飲み込むと、深いため息が唇から漏れた。
意を決して、フィアスは口を開いた。
「聞かなければならないことがある」
「うん」
「かなり、センシティブな内容だ」
凛は身構えたものの、すぐに緊張を解いた。
不思議そうに首を捻っている。
五感を研ぎ澄ませても、彼女の鼓動の速度は、まったく変わっていなかった。
それは、思い当たるフシがないということだ。
良いことであるはずなのに、仮説が外れていることを考えると、ますます疑問は深まった。
……そうでないなら、彼女は一体、何に怯えているのだろうか。
ふわりとした花の香りが迫る。
彼女がテーブルをまたいで、自分の座るソファの前にやってきていた。
「ちょっと!」
腰に手を当てて、凄んでくる。
フィアスは思わずのけぞった。
「な、なんだ?」
「無言のまま、五分経ったわ」
「いつの間に……」
「あたしをそっちのけにして、考えごとをしないでくれる?」
「そうだったな。君がいることを忘れていた」
「忘れないでよ! そういうところ、素直すぎるのよ。いつもは分かりづらいくせにね」
「そ、そうか……Verzeihung。じゃなくて、sorry……でもない。ええっと、すまない。悪かった。ごめん」
「色々な国の言葉で、謝らないでほしいんだけど……」
凛は肩の力を抜くと、フィアスの隣に腰掛ける。自分のカップを手繰り寄せ、ふてくされたように口をつけた。
その手に触れようとすると、小さな身体がびくりと震えた。あわせてカップが波打ち、ぬるい液体が手の甲へ滴った。
「その癖について知りたい」とフィアスは切り出した。
「フォックスにさらわれてから、君の身体に触れようとすると、その反応が現れる。とても……とても気がかりな反応だ。この質問の意味が分かるだろうか? その、なんというか、話せることがあるなら、話してほしい」
そっと手を握る。
「……心配なんだ。とても」
凛は微かに息を吐くと、小さな声で言った。
「あいつには、レイプされてない……貴方が聞きたいのは、このことでしょう?」
「ああ。そうだ」
「大丈夫よ」
凛は遠慮がちに微笑むと、手を握り返す。
指先から伝わる穏やかな脈拍を感じ、フィアスは安堵の息を吐く。
彼女は傷つけられていない……少なくとも、最悪の方法では。
「爆弾処理のコードを切っているみたいだ」
「緊張してる?」
「しない方がおかしい」
思わず漏れた本音に、凛は小さな笑い声さえ立てる。それから、少しだけ宙を見上げて思案した。
あたしの手の震えは、きっと……そうやって切り出した口調は、迷いがなかった。
「遺伝子の話を聞いたからだと思う。ネオの子供を産むことができるって話」
彼女の口から、思いもよらぬ言葉が飛び出て、フィアスは驚いた。
先天遺伝子の適合者。
彼女の母親・
彩が死んだ今、凛の存在は<サイコ・ブレイン>にとって、唯一の希望なのだ。
凛が知れば、両組織の戦いを止めるために、自ら生命を絶つかも知れない。フィアスはフィオリーナと話し合い、その事実を伏せることにした。少なくとも、ネオを始末するまでは、本人に打ち明けないと決めていた。
しかし、凛はたどり着いてしまった。
「嘘か誠かはともかく」フィアスは言った。
「その話を、誰から聞いた?」
「李小麗から。フォックスに拉致されていたとき、彼女も近くにいたの」
「あの女か……」
「彼女、真面目そうだった。嘘をつけないタイプね」
「そうだな。彼女は、苛つくほど真面目だ」
フィアスは
ネオでさえ、凛に遺伝子の秘密を知らせなかった。それはきっと、こちらが口を塞いでいたのと同じ理由だ。
その沈黙を、小麗は破った。
小麗は、凛に対して特殊な感情を抱いている。<サイコ・ブレイン>がひた隠しにしてきた秘密を、本人の前でいとも簡単に暴露するとは、それだけ恨みが深いと言うことだ。殺意すら抱いているかも知れない。
押し黙ったフィアスを見て、
「あたしは大丈夫」
励ますように凛は言った。
「身体が震えるのは、ただの反応。誰かに触れられたとき、最悪の未来をちょっと想像しちゃうだけ。でも、心は大丈夫。貴方が守ってくれるって、分かっているから」
「もちろんだ」フィアスも頷く。
「君には、指一本触れさせない。絶対に」
「頼むわよ、ボディーガードさん」
凛はにっこりと微笑む。
その笑みは、完璧なほど徹底していて、身体の反応から遠いところで光っている。
あまりにもかけ離れすぎていて、まったく意に介していないようにすら見える。
こちらを気遣ってくれているのだろうか。
君は優しいんだな、と言いかけて、フィアスは口を閉じる。
違和感がよぎる。
彼女は優しい。
優しいからこそ、その笑顔は何も語っていない。
遺伝子の話を持ち出したのは、すり替えるためだ。
身体の震えを、ネオを倒せば解決するという、簡単な答えにすり替えた。
これ以上、問題を増やさないために。
「リン……」
灰青色の瞳が、黒い瞳と交錯する。
凛の笑顔がわずかに揺らぐ。
すると、一滴の涙が零れ落ちた。
へへへ、とごまかすように笑いながら、涙を拭う。
「これは、安心の涙ね。あたしは大丈夫だから」
そう言って、立ち上がる。
白い手には、ワインの滴った赤い筋がついている。
「俺の名前を呼んでくれ」
フィアスは凛を見上げた。
凛の目が大きく開く。その瞳に、堪えた涙が透明の膜を作っている。
「君が呼べば、必ず傍に行く」
手を離す。
挨拶もそこそこに、彼女は早足で階段を登っていった。
薄暗い闇の中に、白い残像がいつまでも残る。
静寂の水流に時折落ちる、「波紋の音」。
この家に来てから、毎晩聞く。
それは、凛の泣き声だった。