少ない手荷物を乗せ、一之瀬の車は走り出した。
 走行音がしないのは、この車が高級外車だからか……そんなことを考える。
 車内に煙草のにおいはしない。かつては日に何箱も費やすほど、ヘビースモーカーだったのに。
 禁煙したのか。一体、いつから?
 こういう些細な変化で、時の流れを無情に感じる。
 目の前にいる人間は「けーいち」ではない。
 高級車に乗り、煙草も吸わず、私情を殺して任務を遂行する、笹川組の重鎮だ。
 それでも、隔たりを埋めようとして、唇が動く。
「変わったな。何もかも」
車内の静けさは濁らない。放たれた言葉は、波紋も生まずに沈殿する。ちょうど車がカーブを切ったところで、その静けさは確固たる力を持つ。
 正宗は口をつぐみ、窓の外を見る。
 この辺りは、ショッピングモールに近い、賑やかな通りだ。日差しの強い遊歩道を、家族連れが歩いている。今日が何曜日だか知らないが、両親ともが揃っている。自分よりも若い。二十代後半の父親と母親。
 買い物帰りなのか、父親はぱんぱんに膨れた買い物袋を肩にかけている。子供は五、六歳で、母親に手を引かれている。
 女の子だ。
 女の子は繋がれていない方の手で、今にも飛んでいきそうな、小さいビニール袋を握っている。大人の真似をしたい年頃だ、「持たせてくれ」とせがんだのか。
 一瞬、視界に捉えた家族は、すぐ後方へ消え去った。
 サイドミラーにも映らない。
「本当に、変わった」
 ふいに口から飛び出した、今のはつぶやきだ。
 次の瞬間には、口にしたかどうかも曖昧になる、独り言。
 しかし、それが合図だと言わんばかりに、正宗は喋り出した。取り憑かれたように、淀みなく言葉が出てくる。
「十七年後の世界は、様変わりしちまったな。
 浦島太郎ほどジジイになってはいないけど、シャバは分からないことだらけだ。
 さっき、ある店で女の子に会った。彼女は、携帯――今は、すまほって言うらしい。そいつをめちゃくちゃ素早く使いこなしていて驚いた。アルバイト中の大学生か、夢追いのフリーターか。俺の娘と同い年くらいだった。まるで実感が湧かないけれど、娘の凛は、今ではあの子くらい成長しているんだ。感慨なんてない。その子を見て、自分がどんな気持ちでいるのかもよく分からなかった。
 ますます分からないのが、もう一人の娘のことだ。彩――俺のもう一人の娘はこの世にいなかった。訃報を得たとき、瞬間的な怒りが沸いた。しかし、今はそうでもない。
 めまぐるしく変わる現状に対処するのが精一杯で、子供に対して何の感情も生まれてこない。
 結局、俺は「家族」というものを、味わわなかった。
 妻はすぐにいなくなり、幼い子供とも引き離された。家族がいる幸せも、不幸せも、安心も、退屈さも、感じる時間がなかった。
 けーいち、お前に子供はいるのか? 嫁さんや、内縁の女は?
 家族がどういうものか、お前は知っているのか?」
正宗は口を閉じた。
 最後の一言は一之瀬に向けた問いかけだが、答えが欲しいわけではない。
 何もない内面を、何の意図もなく吐き出しただけ。それにも関わらず、たまらなく疲労を感じた。
 目を開けていることも辛くなり、シートにもたれて目を閉じた。痛みのせいか、眠気はない。
 そう……沁みるような鈍痛が、全身に響いている。何日も前から。
 早くしないと、耐えられなくなりそうだ。
 焦燥に駆られているが、その「耐えられなさ」は、いつ起こるのか分からない。
 発作と同じで、前触れもなく襲いかかってくるのかも知れない。
 人生の危機が、常に奇襲であったように。
 走行音を聞くことで気を紛らわせていると、車が停車した。赤信号に引っかかったようだ。
 かすれるような、サイドブレーキの音。
「俺は所帯を持たなかった」
その音にかぶせるように、一之瀬は言った。
低い声で、
「知ろうとも思わない」
視線は、赤信号を見上げたままだ。
 正宗もならって前方を見る。周期的に切り替わる信号のようで、横断歩道に歩行者はいない。
 昼下がりのまぶしい日差しが、無人の白線をなおさら白く輝かせている。
 歩行者信号が赤に変わると、一拍置いて車道の信号が青に変わった。
 スムーズな走り出しで、車はすぐに加速する。
「家族を作ることは、弱点を作ることだ」
一之瀬はつぶやく。
「お前がケジメをつけたとき、感じた。こんな愚かな真似をする勇気は、俺にはないと」
「そうか」と正宗は頷いた。
「賢いな」
ふっ、と一之瀬は息を吐く。嘲笑とも自嘲ともつかない笑いを含んだ吐息だった。
 それから、車内に沈黙が漂った。
 正宗は目を閉じ、周囲の音に耳を傾けた。
 一之瀬の運転は慣れたもので、細い裏通りを変わらぬ速度で走り抜ける。
 記憶とは、曖昧なようでいて、恐ろしいほど正確だ。
 目をつぶっていても、車がどの辺りを走っているのか分かった。何年も横浜から離れていたにも関わらず。
 その道を通って、どこへ向かっているのかも、予想がついた。
 正宗の表情を見て、察するところがあったのだろう。
「お前には関係ない」すかさず一之瀬は言った。
「俺なりの筋を通すだけだ」