「龍頭、正宗……」
見開いた目を鋭く細め、一之瀬は身構えた。動揺を封じ、戦闘に備える。数々の修羅場をくぐってきたからこそ、反射的に身についた身のこなしだ。
抜刀の瞬間を待つ侍のように、腰に手を添えている。
おそらく、スラックスのポケットに銃を隠し持っている。
「久しぶりだな、けーいち」
彼の態度には触れず、正宗は切り出した。
尾行つけていたのが、お前だと気づいたとき、この場所が頭に浮かんだ。この公園でよく話をしたよな。あれは、確か二十……」
「黙れ」
静かながらも凄まじい迫力に、正宗は口をつぐむ。軽く手を挙げて、無抵抗の意を示す。
保身というより、相手の警戒を解くために。
 正宗を睨む隻眼せきがんは、怒りよりも不快感をあらわにしていた。今頃になって、どうして出てきた? とその瞳は語っていた。
それでも、一之瀬はポケットから手を離した。不快に思いながらも、私情と折り合いを付けて、会話をする気になったようだ。
そう。お前はそういう奴だった、と正宗は思う。
俺以上に自分を抑えて、周りとの調和をはかることが得意だった。
彼が内心で嫌う人間とも上手くやっているところを見るにつけ、感心を覚えたものだ。
まさか自分が、嫌悪する人間のくくりにくわわるとは、思ってもみなかった。
「どうして横浜にいるとわかった」
瞬時に感傷を切り捨て、かつての同胞に問いかける。
ある人物からの助言だ、と一之瀬も無感情に返答する。
「貴様が戻ってきたと……そして、身柄を保護するよう頼まれた」
フィアスか、と正宗は思い当たる。〈ベーゼ〉にやってきた、金髪のガキ。
横浜に戻ったら娘に真相を伝えろ、と再三念を押されたことを思い出す。あれからフォックスという男と行動をともにしたが、えも言われぬ不信感を覚えて逃げ出した。遠い昔のことに思えるが、たった数日前の出来事だ。
 フィアスは敵に捕らえられたと聞いていたが、今は自由の身であるらしい。どういった経緯で連絡を取りあうことになったのだろう。笹川組の重鎮――それも礼と義を重んじるこの男が動くくらいだ。相当な恩を施したに違いない。
「俺をかくまうつもりか?」
その質問に、一之瀬は眉を曇らせた。腹を決めたつもりでも、わずかな逡巡が尾を引いている。
しばし無言のまま正宗を見つめたあと、微かに頷く。
 まずい酒でも含んだように、口元が硬く結ばれている。本来ならば、関わるのも御免被りたいところだろう。一之瀬は、笹川組から足を洗っていない。十七年の時を経て、組織の中でそれなりの地位を築いている。立場上、自分と秘密裏に会うこと自体が危ういはずなのだ。
 正宗は居たたまれなくなる。生真面目な一之瀬の性格は、呆れるほどによく知っている。義理を重んじるあまり、相反する頼みの板挟みに合っているのを目にしたこともしばしばだった。おくびにも出さないが、今も苦悩しているに違いない。
 義理を果たす彼の行動は、組長である笹川毅一を裏切ることになるのだから。
「ごめんな、けーいち……」
思わずつぶやいた言葉に、一之瀬が顔を上げる。その眼は、静かな憎悪に覆い尽くされていた。
「二度と口にするな」
 住処へ案内しろ。荷物をまとめて、俺の車に乗せろ。淡々と指示を与えると、一之瀬は銃を構えながら、手を伸ばす。
 武器を預かる、ということらしい。
 年相応の痛んだ手に銃を預けると、その手で隠し武器がないかを入念にチェックされた。
 その間、正宗は、小さな公園を隅々まで見渡した。
 ブランコと砂場。
 それだけの荒んだ場所――だが、いつまでも色褪せない、思い出の場所。


――親父っさんは、マサのことを目に掛けてる。俺は、マサが次代になれば良いと思っているんだ。
――なんて言って、寝首かこうとしてるだろ?
――まさか! 俺を見くびるな! そんな風に思われていたなんて心外だ。
――ははは。マジで怒ってるよ。けーいちは、ヤクザのくせに真面目だな。


何年も、何年も前の記憶が蘇る。
忘却へ、押し込んでいた、その全てが、リフレインされる。


……あの抗争の日、けーいちは、俺をかばって失明した。
顔半分を包帯で巻かれながら、「傷の消毒だ」と言って浴びるほど酒を飲んだ。
けーいちは、いつにも増して機嫌が良かった。
自棄やけを起こしているのかと思ったが、そうじゃなかった。
その理由を、この公園で明かされた。


――不具ふぐになって、安心したんだ。
――安心?
――ああ。これで心置きなく、補佐ができる。次代頭領の右腕として、お前と骨肉の争いをしなくて済む。片目を失って、安心した。
――俺は、けーいちの目と引き換えに、組長になっても嬉しくないな。
――引き換えたんじゃない。差し出したんだ。カシラのためなら、俺はどんな犠牲もいとわない。
――……。
――正宗。笹川組を、どうか頼む。


ここで、けーいちに殺されたら、楽かもな……。
無責任だと思いつつも、願ってしまう。
波のような後悔に溺れて生きるくらいなら、今、恨みをぶつけられて死にたい。
しかし、その夢は、絶対に叶わない。
彼は自分を殺さない。どんなに憎い相手でも、私情の絡んだ一線は越えない。
組織で生き抜くためのルールは、遠い昔に身につけている。彼はただ、氷のように冷えた嫌悪を、募らせていくだけだろう。
一之瀬と距離を取って歩きながら、正宗は背後を振り返る。

 小さな公園――もう二度と、この場所へはやってこないだろう。