コール・ミー


フィオリーナから電話が掛かってきたのは、例の決戦から一日後だった。
リビングで真一の用意した珈琲が熱い湯気を立てるかたわら、携帯電話が振動した。フィアスはすぐさま電話に出る。
無事で何よりです。別れ際と変わらない落ち着いた英語が、携帯電話から聞こえてきた。
フィアスも英語で応じようとしたが、周囲を一瞥いちべつ――向かいの席には真一が、隣の席には凛が座っている――し、日本語に切り替えた。
彼らにも、話す内容が理解できるように。
「ああ、なんとか生きてる。リンもマイチも無事だ」
GPSの動きから、こちらの行動はおおよそ予想がついているだろうと思いつつ、現状報告をする。
じかに消息が聞けて安心したらしい。フィオリーナのため息は安堵あんどに満たされた。
しかし、彼女の感情が垣間かいま見れたのは、一呼吸分の刹那だけだ。
フィオリーナは、淡々と報告した。赤目の襲撃から逃れて、新たなアジトに身を落ち着けたことを。
地上階で繰り広げられた惨劇は、精神異常者による大量殺人事件として処理されつつある。警察がまんまと情報操作に踊らされていることも、報道の流れを読めば言うに及ばずだ。
それは、フォックスの末路に関しても言える。
フォックスの死体は山奥に遺棄され、彼の乗っていた車は赤目襲撃事件に紛れ込ませて葬られた。
すべてはきれいに片付いた。
フィアスも必要なことだけを端的に伝え、五日後に横浜市内で再合流する約束を取り付けた。
短く別れの挨拶を交わし、電話を切ろうとしたところ、
「はあい、フィオリーナ! 聞こえる?」
横から電話を奪い取られた。
赤いマニキュアに彩られた爪が、ディスプレイを操作する。
携帯電話を自分の顔に向けると、凛は小さく手を振った。
「ねえ、見えてる? あたしはこの通り、すごく元気! いぇい!」
ハンズフリーに切り替わった電話から、うふふふふ、と笑うフィオリーナの声が聞こえてくる。
当然というべきか、彼女は映像をオンにしていないようだ。
ただ、声だけが聞こえてくる。
「リンさんの元気な姿が見られて嬉しいです」
「フィアスも元気よ! ほら……って、なんでクッションで顔を隠してるの?」
「映りたくない」
「えっ、なんで?」
「写真は嫌いなんだ」
「これ、動画よ。ログも残らないし」
「申し訳ないが……マイチにパスする」
「つまんないわねぇ。それじゃ、真一くん!」
向かいのソファに歩み寄ると、真一もフレームに向かって手を振る。
「よっ! フィオリーナ、相変わらず美人だな……って、向こうは映っていないのか」
「そっちは出られないのー?」
向かいの二人が携帯電話を凝視していると、「それでは、少しだけ」と言って、フィオリーナが画面に現れたようだ。こちらからは携帯電話の裏側しか見えないが、ぱっと笑顔になった彼らの表情で分かる。
フィオリーナがどのような場所、どのような格好で映像に映っているか分からない。
まあ、分からなくても差し障りはないのだが――そんなことを思いながら、足の傷の具合を確かめていると、いやな視線を感じた。
眼光鋭い敵視ではなく、悪戯に輝く四つの眼差しだ。
包帯を巻き直しながら、フィアスはため息を吐いた。
「撮るなって言っただろ……」


男は、ホテルを出る。
ちょっとした買い出しに出掛けるためだ。
皮のジャンパーと、ブルージーンズを身にまとい、鋭い目をサングラスで隠す。
偽装の極意はやりすぎないこと。そして、いついかなるときも自然体でいることだ。
同じ歩調でついてくる足音に、先ほどから気づいている。
それでも、平静を装う。
男は人気のない角を曲がり、そのまま目についた裏口のドアノブを回した。
幸運なことに、鍵はかかっていなかった。
潜りこんだ先は、家電量販店のバックヤードだった。段ボールが積み上げられた向こう側で、休憩中の少女がパンを食べている。
男は背後を振り返る。すりガラスに、追手のぼんやりした黒髪が映る。辺りを見回すような仕草をしている。諦めの悪い性格らしい。
当分、あの路地に戻れなさそうだ。
男は段ボールをすり抜けながら、少女の元へ向かう。大学生くらいだろうか。携帯電話をいじりつつ、テレビ画面をちらちらと見ている。
よう、と声を掛けると、少女はびくりと肩を震わせた。
つけまつげをつけた目が、大きく瞬いて男を見上げる。
「誰? 業者の人?」
「ただの客さ。トイレに行く途中で、道を間違えちまったみたいでな」
「はあ……」
「フロアに戻りたいんだが、この道を真っ直ぐに行けばいいのかな?」
少女は日常の動作の名残から、一瞬テレビの方へ視線を移し、また男を見た。その顔にわずかな警戒の色が窺える。イレギュラーの訪問客を、訝しんでいるようだ。
男はむしろ、自分が清廉潔白せいれんけっぱくな一般人に見えるかを試す、良い機会だと考えた。
「洗濯機売り場で、嫁さんが待っていてさ。呆れていると思うんだよな。〝あの方向音痴、また迷子になっているのね〟って。このままだと、勝手に高いのを買わされちゃう気がするんだよ」
そして、その気楽さに悪意はないと少女も考えたようだった。
椅子から立ち上がると、少女は先頭を切って歩き始めた。親切にも道案内をしてくれるらしい。
悪いね、と謝りながら男も続く。
短い道案内の最中、少女はずっと携帯電話をいじっていた。驚くべき速さで、表示された写真を次々と上部へ押しやっている。
「それは何をしているわけ?」ちょっとした好奇心から、男は尋ねてみた。
少女は首を傾けて、背後の男をちらりと見た。
「インスタ」
「いんすた?」
「友達の写真見てる」
何を言っているのかまったく分からない男は、とりあえず頷いておく。
世間から離れていた間の、タイムラグの穴埋めは、そう簡単なものではない。
「そういうのが、流行ってんの?」
「うん」
「うちの娘もやってんのかな」
「やってんじゃない?」
少女の声は投げやりだ。彼女の年齢は、自分の娘と同じくらいだ。
穴埋めしなければいけないものは、世間の流行以外にもありそうだな、と男は思う。
少女は従業員通路の終わりにあるドアを開けて、販売フロアに出してくれた。
男は礼を言い、何食わぬ顔でその店を後にする。
表通りをしばらく歩いても、追手の気配はしない。
一体、誰に後をつけられていたのだろう。男は考える。
改めて考えると、追手から殺気のようなものは感じなかった。
どちらかというと、こちらの正体を探るような、慎重なやり方だった。
ある直感が舞い降り、男は立ち止まる。
すりガラスに写っていたシルエットを思い出す。
自分と同じほどの背丈の、黒服。
サングラスを外して、振り返る。胸ポケットにメガネをつっこむと、来た道を引き返す。
追手を巻いた家電量販店の角を曲がり、裏路地へと舞い戻る。その道の向こうに、わずかな光が見える。
路地の向こう側は、別の通りに繋がっている。川沿いの道だ。
川を挟んだ向こう側は住宅街になっていて、小さなスナックが立ち並んでいる。十七年の時を経て、その数は半分以下になっている。
側に、小さな公園がある。公園と言っても、遊具はブランコと砂場しかない。場末の小さな隙間だ。それでも懐かしいその場所――極道時代に飲み明かして夜を越したその場所は、変わり映えがない。
変わり映えなく、荒んでいる。
その中心に、記憶の中の背格好とまったく同一の、一人の男が立っている。
スーツのポケットに手を入れて、空を眺めている。追憶に浸っているらしい。
やっぱりな、と男は思う。
一呼吸し、相手に気配を悟られるより先に、声をかける。
「けーいち」
公園に佇んでいた男が、素早く振り返る。
鋭い視線は一つしかない。片目は遠い昔に喪失している。
隻眼の男――一之瀬慶一郎は、目を見開いて男の名前をつぶやいた。
「龍頭、正宗……」