真一は家の中を回って、役に立ちそうなものを集めてきた。飲料水に医療箱、温かなブランケットに、非常食やインスタント食品。
寝室の脇にかき集めた食材を並べている間も、空腹の音が絶えず鳴る。それでも一人だけ食事にありつくことに遠慮があるのか、手を出さない。
神妙しんみょうな顔をして、デスクチェアに座っている。
その間も、空腹音は健在だ。
「ここは無人島じゃないんだ」
真一を振り返ると、フィアスは言った。
「食いたいなら食えばいい」
「フィアスこそ、朝から動きっぱなしで腹、減らないわけ?」
「空かないな。ここ五年ほど、食欲がない」
「そ、そう……」
「遠慮するな。好きにくつろいでくれて構わない」
「俺たち、不法侵入してるってこと、忘れてない?」
真一は曖昧に笑うと、食料の中からいくつかを拝借し、「すぐ戻るよ」と言って部屋を出た。
 フィアスはベッドに向き直る。
 温かい場所に連れてきたことが良かったのか、凛の体調は徐々に回復しているように見えた。顔色に艶が出て、脈拍も女性の正常値に近い。
 上昇した熱に染み出したように、ふわりと彼女のにおいが漂う。香水の奥に潜む甘い香り……果実よりも花に近い。
 一番の記憶は、とフィアスは考える。
 そのにおいから想起される一番の記憶は、つややかな睫毛まつげ
 喧嘩別れをする直前、二人でベッドに腰掛けていたときのこと。凛は自分の肩にもたれて、目を閉じていた。心から安堵した表情を浮かべて。
 そのとき、長い睫毛が寝覚の涙に濡れて光ったのだ。
 その光は、美しかった。
 彼女の美しさのすべてを、ぎゅっと凝縮したかのように。
 小さくて、ささやかで、束の間に消えてしまう。
「儚さ」と人が呼ぶものを、いつまでも見ていたいと思ったのは久しぶりだった。

「あなたのめ」
その一声で、追憶が消えた。
思い出の光より強い、黒曜石こくようせききらめきが目の前に現れたからだ。
小さな手が伸び、頬に触れる。
凛はわずかに微笑んだ。
「とてもきれいね」
フィアスは凛の手を取ると、ベッドに身を乗り出した。
「リン!」
肩に腕を回して、上体を起こすのを手伝う。用意していたミネラルウォーターを口へ持っていくと、覚束なげに二口飲んだ。
「ありが、とう……」
呂律ろれつの回らない舌で礼を告げると、凛はフィアスを見上げる。
恐怖と混乱に苛まれた瞳に、胡乱うろんな膜が掛かっている。
精神安定剤で感情を抑制されているのだ。暴れる動物を大人しくさせるように。
彼女を自分に寄り掛からせると、両腕で、そっと凛を抱きしめた。
「大丈夫」
「ん……」
「何も心配いらない」
「うん……」
凛の手がシーツの上を移動し、シャツの裾を握った。力の入らない指先で、すがるように抱擁に応える。彼女が震えているのか、自分が震えているのか、分からない。
「夢……見てるのね」
「夢?」
「こんな、優しくないもの……」
胸元に熱い涙の染みができる。そうだな、とフィアスは思う。夢と思われても仕方ない。
凛を収める腕の力に自信がなかった。五年以上、守りたいものを失っていた。その間に、この手は人を殺すこと以外の使い道を忘れていた。
今では後天遺伝子の問題までついて、いつか彼女を傷つけてしまうと想像するだけで気が狂いそうだ。
フィアスは凛の首筋に顔をうずめる。彼女が発するにおいを嗅ぐと、不思議と心が落ち着いた。
どちらが支えになっているのか分からないアンバランスな抱擁は、凛が微かに動いたところで一応の納まりを見せた。
腕の中から顔を上げて、彼女はまじまじとフィアスを見つめた。
「夢じゃ……」
「夢じゃない」
「本当に?」
フィアスは頷く。
「本当だ」

ベッドに寝かせても、白い手は力なくシャツの裾を掴んでいた。
「謝りたいことがある」
その手に触れながら、フィアスは言った。
「真実を伝えなかったせいで、君に危険な行動を取らせてしまった。今回のことは、俺の責任だ」
「そんなこと……」
「俺のせいなんだ。君の感情にーーその恐怖や不安に、気づかないふりをしていたんだ」
「あたしも、同じ。貴方の気持ちを、もっと考えてあげれば良かった」
凛が目を細めると、目尻に溜まっていた涙が頬を滑り落ちた。触れていた手がぎゅっと握り返してくる。
「半分こしましょう」
ふ、ふ、ふ、と微かに笑いながら目を閉じる。薬の効力が続いているのだろう。眠りに就く前の一呼吸とともに、彼女は言った。
「責任は、半分こ」


凛が目を閉じたあと、フィアスはしばらくその場から動かなかった。
彼女の頬に手を当て、呼吸が深まっていくのを待った。
そして眠りに落ちたのを確かめると、ゆっくりと立ち上がる。キャビネットの前に立ち、写真立てを手に取る。
白く照り返るガラスの表面を撫でる。
かつて家族だった人々。優しくされた記憶。愛していた人。
すべてが、淡く滲んでゆく。
しばらく眺めたのち、静かに写真立てを伏せた。