言葉が、途切れ途切れに聞こえてくる。
断絶した状況が、無理やりつなぎ合わされる。
感情に強く響くのは、思い出したくない記憶を生々しくえぐるからか。

一つ目、彼女の研究室ラボにいる。
肩を抱き、子供に教え諭すように言う。

いいのよ。
何も話さなくていい。
打ち明けなくてもいいの。
私とあなたの関係は、何も変わらない。
裏切ったなんて思わないで。
それだけでいいの。
傍にいてくれるだけで……。

二つ目、家を出る直前。
切羽詰まった彼女に腕を掴まれる。
最後に交わした言葉は、正確には覚えていない。
だからこそ、誇張される。
自分を痛めつけるために、その台詞はどこまでも残酷だ。

ねぇ、お願いよ。
これ以上、私の前から、誰もいなくなってほしくないの。
あなたを失うくらいなら、仕事を辞めるわ。
私、どんなことでもするから。
絶対に、どこにも行かないで。
行っちゃ、ダメよ!

髪に触れる手のこそばゆさで目を覚ました。
ベッドの傍に跪き、うつ伏せになって眠っていた。いつの間に寝入ってしまったのか、記憶がない。
顔を上げると、彼女がいた。
布団の上に座り込み、自分の髪を撫でている。
目と目が合うと、微笑んだ。
「おはよう、フィアス」
「……おはよう」フィアスは上体を起こす。
眠りの甘い余韻が、頭の中に漂っている。後天遺伝子とは違う目覚め方ーーいつもの覚醒だ。
「すまない。いつの間にか、眠っていた」
「こっち、使っても良かったのに」と言って、凛はベッドの傍をぽんぽんと叩いた。
「変な意味じゃなくてね。ベッドで眠らないと、悪夢を見るから」
「悪夢?」
「ひどくうなされていたわよ。どんな夢を見ていたのかしら」
フィアスは頭をかく。
先刻の夢なら初めから終わりまで、鮮明に覚えていた。
相変わらず自虐的な悪夢しか見ないことに、自嘲を隠せない。
どこまで責め立てれば気が済むのか、無意識下の自分に聞いてみたいものだ。

真一のいるリビングへ、凛を連れていく。
二度の眠りで薬の効果は完全に切れたらしい。
彼女は自力で階段を降りた。黒い瞳は覚醒後の冴えた輝きを放ち、全身に生気がみなぎっていた。
ごしごしと目をこする真一を見上げて、
「なんで泣いているのよ、真一くん。泣きたいのはこっちよ」
そう言う声も、微かに濡れていた。
フィアスがここに来るまでの経緯を説明する間に、真一はインスタントスープを作って持ってきた。
熱いスープを舐めるように口にしながら、凛は事のあらすじを聞いた。
一昨日から今日までのフォックスとのやりとり、襲撃しゅうげきされたホテルのアジト、消息不明の李小麗に、音信不通のフィオリーナとシド。
そして、自身に流れる後天遺伝子について。
「後天遺伝子……つまり、戦いのドーピング剤みたいなもの? それが、貴方の身体に入っているの?」
「正確に言うと、血液の中を巡っている」
「それは、自分でコントール出来るものなの?」
フィアスは微かに眉をひそめる。
「今のところは……」
その仕草に、凛は気づいていないようだ。なぜかフィアスの上腕を繰り返しさすりながら尋ねる。
「痛くない?」
「特には」
「体調はどうなの?」
「良くないな。五年前から不眠で、食欲もない」
「性欲はあるの?」
「ノーコメント」
「貴方って、そういう話題になると、いつも同じ対応ね」
「君は、そういう話題に、いつもこじつけようとする」
フィアスは微苦笑すると、凛に手を伸ばし……引っ込めた。
ほんの一瞬、彼女が震えたような挙動を示したからだ。
それは、凛自身にも思いがけない反応だったようで、曖昧に笑うばかりだった。その後、凛は何事もなかったかのように振る舞ったので、フィアスも言及を控えた。
彼女は平生と代わりなかった。自分の紺色のシャツーーというか、フィアスから拝借していたシャツーーのにおいをくんくん嗅いで、「汗くさい」と顔をしかめ、髪の毛を掻き回して、「埃っぽい」と唸った。
お風呂に入りたい、と切望した声で告げるので、フィアスはバスルームへと案内した。
壁に貼られた書き置きは、まだ残っていた。
〝Call me Aldo!〟
凛が入浴している間、一階をくまなく回り、目につく側からメモをがした。左手に束ねられた呪いの札は、見えるところだけでも100枚は超えていた。リビングに戻り、集めたメモ用紙を丸めるとゴミ箱に捨てた。
すかさず真一が、その一枚を指でつまむ。
「こーる、みぃ、あるど? アルドって……」
「気にしないでくれ」
ソファに腰を下ろすと、フィアスは腕を組んで、目を閉じた。
真一は写真立てを思い出す。
フィアスを育てた親の一人は、日本人だった。
だからこそ、人生のほとんどの時間をアメリカで過ごしたにもかかわらず、彼の日本語は流暢りゅうちょうなのだ。
「サユリさん、だっけ? お前の母親……」
「母親じゃない」
フィアスは片目を開けると、真一を見た。
「サユリは、サユリだ」
「ふぅん?」
どこかに落ちないまま、真一は笹川家にある薄いアルバムのことを思い出す。
物心つく前に両親が他界したため、思い出深い家族写真は少ない。フィアスの方も疑似家族ぎじかぞくであるはずだが、その写真は本物の家族同然……いや、それ以上に仲が良さそうだ。
「電話、しないのか?」
「電話?」
「Call me,Aldo」
真一の言葉で、初めてフィアスは、メモに書かれた英語の意味を完全に理解したようだった。
気怠けだるげにもたれている割に、毅然きぜんと首を振る。
「この世界に入ってから、サユリとは会っていない。今後も会う気はない」
そうか、と頷くだけで真一は悔い下がらない。
以前は古縁に対して不義理を見せると顔を曇らせたものだが、様々な経験を経て、顔を合わせない方が良い関係もあると知ったのだろう。
「問題は、俺の家族じゃない」
フィアスは言った。
「彼女の家族だ」