フォックスが倒れるまでの一部始終を見ていた真一は、足元から力が抜け落ちた気がした。パネルに背を預け、汗を拭う。
間一髪、間に合った。フィアスの生命を救うことが出来たのだ。
ぶはぁ、と息を吐き出し、ホールへ続くスロープを駆け下りる。
フィアスは上体を起こして、近くの壁にもたれるように座っていた。その手は、銃を固く握りしめている。
「フィア……」
呼び声を遮るように、フィアスは握っていた銃をこちらに向けた。
真一は両手を上げ、立ち止まる。
冗談ではないと、鬼気迫った雰囲気を見て察した。
銃を向けているが、フィアスの顔は真一ではなく自分の手元を見ていた。グリップを握る手が震えているせいで、銃身は右へ左へと大きくブレている。
「やめろ。銃を、おろせ」
浅い呼吸を繰り返しながら、フィアスは自身の左手に向かって厳しい声でささやいた。まるで言うことの聞かない犬を、しつけている飼い主のように。
「違う。そいつは、敵じゃない」
震える右手で銃を覆い、銃身を下げる。他人に対してディス・アームを施すように、白い手が銃を利き手から引き離した。弾倉を抜き、すぐさま遠くへ投げ捨てる。
地面を滑って、銃は物陰に隠れた。
「だ、大丈夫か?」
恐る恐る真一は声を掛ける。ようやくフィアスは顔を上げた。切れ長の両眼は⁠血まみれの顔と同様、⁠真っ赤に染まっていた。
「その目……」
壁に手をつき、フィアスは立ち上がる。身体のあちこちを負傷しているようで、スーツの上からも、染み込んだ血溜まりがぬらりと反射している。中でもひどいのは、出血の激しい左足だ。壁を支えにしなければ動けないほどのダメージを⁠負っているらしい。
真一は慌ててフィアスの元へ駆け寄った。
「撃たれたのか?」
肩先に伸ばしかけた手は、
「触るなっ!」
ものすごい剣幕ではね返された。
フィアスの赤い目は⁠、鋭い獣の光を宿して、真一を睨みつける。敵視と言えるほど、攻撃的⁠……⁠いや、攻撃的というのは生温い表現だ。
風向き次第で、本当に殺戮を犯すような、一触即発の空気がある。
思わず真一は一歩退く。
フィアスは頭を微かに振ると、疲弊した様子でつぶやいた。
「すまない……⁠戦いの後で、気が立ってるんだ」
「お、俺も悪かったよ……それより、怪我の手当てをしないか? 撃たれたんだろ?」
「こんな傷、すぐ治る」
「何言ってんだよ。応急処置くらいは……」
「必要ないと言っているだろう」
真一は反論しようと口を開きかけ、再び閉じる。
何かが変だ。 フィアスは壁伝いに足を引きずりながら、ホールの出口へ歩を進める。彼の歩いた跡は、薄く伸びた血が、⁠水彩画のように残される。
必要ないはずがない。ぼろぼろじゃないか。
内心で思うものの、真一は⁠行動に表せない。
戦いが終わってもなお、フィアスは見えない何かと戦っていた。まるで、一度気を緩めたら死体が襲い掛かってくると言わんばかりに。
「もう少しで、俺は倒れる」
そう告げられたとき、死が間近に迫っているのかと思い、背筋が凍った。真一が息を呑んだことを知ってか知らずか、フィアスは歩きながら、ちらりとこちらを振り返った。赤い目は相変わらず鋭い輝きを放っている。
「詳しいことは、目覚めてから話す……三時間後だ。マイチ、リンを探してくれ。フォックスが乗ってきた車の中にいるはずだ」
「フォックスから聞いたのか?」
「いや、あいつの服にリンのにおいがついていた。風に乗って、ガソリンのにおいもする。あっちだ」
血のついた指で指し示す方向を真一は見た。何重もの防壁を超え、建物の外側に緑色の原野がわずかに顔を出しているが、車らしきものは見当たらない。さらにその向こうの、林の中のにおいを嗅ぎつけたとでも言うつもりか?
真一の疑心を裂くように、強い語調でフィアスは言った。
「俺を信じろ」


フォックスは仰向けに倒れていた。
見開いた赤い目は光を失い虚空を見上げていた。眉間に開いた穴から噴き出た血が、額の両側を伝って、地面に小さな溜まりを作っている。
脳幹を破壊され即死。
電気のスイッチを切ったように、痛みも苦しみもなく死んだはずだ。
死者の与える静けさの中、フィアスの呼吸が微かに大きくなったのを真一は感じた。横目に見ると、彼は荒く息をつきながら、血塗れた両手を封じるように硬く握りしめていた。
「銃だ」
生唾を飲み込んでフィアスは言った。
「マイチ、そいつの銃を壁の裏側へ置いてきてくれないか。あまり、目にしたくない」
「う、うん」
「血のにおいが、きついな……」
そのつぶやきには呼応せず、真一は短機関銃のグリップをつまむと走り出す。
誤発砲に気をつけながら壁の死角へ隠し、フィアスの元へ戻る頃には、彼は剥ぎ取った死体のジャケットから車のキーと携帯電話を取り出していた。
飛んできたキーをキャッチする。フィアスは立ち上がると、フォックスの携帯電話を自身のポケットにしまった。すぐさま片腕で鼻と口を覆いながら、フォックスを見下ろす。
抵抗を感じながら、真一もそれにならう。
燃える赤毛、派手な服装の伊達男。彼はフィオリーナに、自分の価値を認めて貰いたがっていた。追放を言い渡されたときの、女上司にすがる姿は、見ていてこちらが切なくなるほどだった。
最終的にフォックスが選んだ道は、組織と敵対すること。寵愛を望んでいた女神に牙を剥くことだった。
人の心は複雑だ。愛と憎しみは常に表裏一体で、生と死はあっけなくひっくり返る。
自分の内側も外側も不安定に揺らぐ世界で、
「俺は、好きな人を傷つけたくないな」
真一はぽつりとつぶやいた⁠。
フィアスはちらと真一を見ると、再びフォックスに視線を落とす。
それから手にしていたジャケットを、そっと宿敵の顔にかけた。
数秒、目を閉じたあと、
「マイチ」
静かな声で真一を呼んだ。
赤い目で、真っ直ぐに真一を見つめる。
「ありがとう」
「な……なんだよ、急に」
「フォックスを倒せたのはマイチのおかげだ。気を失う前に、礼を言っておこうと思ってな」
「素直なのはお前らしくないな。調子狂うぜ」
「そんなに俺はひねくれているように見えるか?」
「見えるどころの話じゃないよ。見るからにねじ曲がっているだろ。今日だって、回りくどいやり方で俺のことを無視してさぁ……」
「あぁ、そのことか。まだ根に持っているなんて」
言葉が途切れると同時に、フィアスはがっくりと膝を折った。
そのまま前のめりに倒れたところを、真一は慌てて受け止める。
「フィアス! おい、しっかりしろ!」
腕の中で身動ぎしない、友人に向かって呼びかける。
うつ伏せの身体をひっくり返すと、フィアスの目は硬く閉じられていた。ぴくりとも動かない。
眉間を貫かれたフォックスと変わらない。自分が気を失ったことにも気づかない、唐突な意識の断絶だった。
真一はぐっと歯を食いしばると、抜け殻同然の身体を引きずって移動させた。
そして死体からある程度の距離を取ると、そっと地面に横たわらせた。
「フィアス⁠! フィアス!」
肩を揺すって名前を呼ぶが、まったく反応がない。念のため呼吸と脈拍を確かめると、どちらとも正常だ。
ただ眠っているだけのように見える。
真一はしばらくその顔を見つめていたが、やがて着ていたジャンパーを脱いで、枕代わりに金の髪の下に敷いた。
三時間後だ。
フィアスの言葉を反芻しながらつぶやく。
「あとで、じっくり話を聞かせてもらうからな……絶対に、起きろよな!」