話をしてくれないか


冷たい外気を吸い込み、空咳とともに吐き出す。
五感が感じるもののすべてが、唐突に押し寄せてくる。
海の底から引きずり上げられたような、後天遺伝子特有の目覚め。
乾いた咳を繰り返し、ようやく呼吸が落ち着いた。
「すごいな」
隣で声がした。涙でにじんだ目をこすり、運転席を見上げると真一がいた。
サングラスを掛けた目で、車についたデジタル時計を見る。
「三時間後……ぴったりだ」
フィアスは周囲に視線を走らせ、大まかな状況を把握した上で、上体を起こした。
ここは自分の車の中。リクライニングを倒した椅子に座っている。寝覚めの怠さや体調の変化は感じられない。
あの廃墟から、車内へ瞬間移動した。非現実的だが、体感的にはそのように感じられる。
戦闘後の休眠状態は、あくまで体内の神経系統を回復するための、意識の断絶に過ぎないということか。
フィアスは真一の顔を指さした。
「俺のサングラスだ」
「しばらくの間、貸してくれ。日差しが眩しいんだよ」
真一はフレームの縁に触れながら、フロントミラーを覗き込む。
満足気ににんまりと笑って、
「ほら、すごく似合っているだろ?」
車はゆるやかに山間の道路を走っていた。自分が横浜から来たときに通ったルートを引き返しているようだ。景色に見覚えがある。
フィアスは溜息とも安堵ともつかない吐息を吐き出し、すぐに後部座席を覗き込んだ――フロントガラスに反射していた、凛の姿を確実なものにするために。
「マイチ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
真一はハザードランプを点滅させると、車を道路脇に止めた。
助手席のドアを開けて外へ出る。
左足をついたとき、鋭い痛みとともに体勢を崩しかけた。銃創はふさがっていないらしい。
凛は後部座席に横たわっていた。彼女の半身には青いスカジャンが、布団代わりにかけてある。
フィアスは両腕を伸ばし、そっと彼女の身体を持ち上げた。車外に運び出し、身体を抱きかかえたまま膝をつく。脈拍を測り、呼吸音を聞く。どちらも正常だ。
しかし……
「体温がやけに低い」
スカジャンを真一に預け、彼女を入念に観察する。と、右上腕に赤黒く変色した注射痕を見つけた。
「リン。聞こえるか? リン」
名前を呼んでも反応がない。彼女の長い睫毛は美しく閉じられたままだ。
深過ぎる眠りに、違和感がつきまとう。
「俺はてっきり、眠っているだけかと……」
不安げな顔の真一を見上げ、フィアスはうなずいた。
「ひとまず、アジトに戻ろう。安全な場所で様子を見たい」
再び凛に視線を戻す。
眠った顔は、無表情に近かった。拉致されていた二日間が、どのように流れていったのか、彼女の顔からは想像ができない。注射痕以外に暴力を振るわれた痕跡は見当たらない……少なくとも、表面上は。
フィアスは、ぎゅっと凛を抱きしめた。
彼女を後部座席に戻し、車に乗り込む。
携帯電話を耳元にあてていた真一が、歯切れの悪そうに告げる。
「お前が戦っている間に、こっちでも色々あったんだよ」
「色々?」
「ああ。そのせいか、フィオリーナもシドも電話に出ない」
フィアスも自身の携帯電話で、二人に電話を掛けてみる。どちらとも数回のコールで通話が強制終了された。出る暇がないのか、出られない状況にあるのか。
とにかく、事情の分からないまま引き返すのは得策ではない。
事の経緯を話し始めそうな真一を遮り、フィアスは言った。
「東京郊外に知り合いの家がある。ここから一時間もしない。詳しい話は移動しながら聞こう」
「そうだな。早いところ凛をベッドに寝かせてやらないと」
「ああ……」
両掌を見下ろして、フィアスはうなずいた。そこには凛の腕の感覚が、溶けない雪のように残っていた。


目的地に向かう車内で、真一は廃墟に来るまでの経緯をかいつまんで説明した。赤い目の侵入者、事件現場と化したホテルのロビー、そしてフィアスが眠っている間に起こした行動の数々。
「お前が言っていた方向に、フォックスの車はすぐ見つかったよ。廃墟に来る途中でBMWも見つけていたから、手初めに凛を運んだ。それから気絶しているお前をなんとか担いで車に乗せた。その間、人の気配はまったくしなかった。フォックスが単独で動いていたっていうのは本当だったみたいだな」
「李小麗もいなかったのか?」
「ああ、人影すら見かけなかった。その場にいたとしたら、凛を取り戻しに来るはずだろ?」
「確かに……」
奇妙な話だ。龍頭凛が再び敵の手に渡る可能性がある駆け引きで、監視役を待機させていないなんて。
フォックスが〈サイコ・ブレイン〉の追随を嫌がったとも推測出来るが、彼が死んだ後でさえ、非常策を講じなかった。
李小麗はなぜ戦場に来なかったんだ?
あるいは、来られなかったのか? ……一体、なぜ?
顎に手をあて思案に暮れるフィアスだったが、ハッと我に返ると言った。
「おい、死体はどうなった?」
俺を甘くみちゃいけないぜ――と言いたげに、真一は舌打ちしながら指を振る。
「慶兄ちゃんに電話したら、何も聞かずに動いてくれたよ。そういうことの後始末に慣れている知り合いがいるらしい。殻薬莢からやっきょう一つ残さないって」
フィアスは安堵の息を吐く。フィオリーナと連絡が途絶えた今、死体処理は急を要する問題だった。
諸外国へ出掛けた時に使う、始末屋という職業は、日本にも存在しているらしい。
「〈笹川組〉の動きとしてはかなりグレーだな。組織の顔役を、こちらの都合に巻き込んですまない」
「背に腹は変えられないよ。それに慶兄ちゃんも、俺らの様子を知りたがっているようだったぜ」
「若君の身が心配なんだろう」
「もちろん、それもあるだろう。でも、それだけじゃない。慶兄ちゃんとしても、あの男が気掛かりなんだよ」
「マサムネか」
うん、と真一は頷いた。
そして過去に思いを馳せるように、しばらく黙ったままハンドルを操作していた。
かつての裏切り者を、一之瀬がどう考えているのか分からない。正宗の情報を収集して、どう動くのか。あるいは動かないのか。
生かすか殺すか、感情を読みにくい人間は、先の行動を予測しにくい。
一之瀬のことは、考えるだけ時間の無駄だ。
フィアスも口を閉じて、今度は横浜に潜伏しているはずの正宗のことを考えた。
笹川組の元ヤクザではなく、龍頭凛の父親として。
「横浜に戻ったら、娘に謝れ」と叱責した記憶が、ずいぶん昔のことのように感じられた。
果たして、窮地きゅうちで交わした約束を、彼は覚えているだろうか?
覚えていたとしても、錯綜する情報の糸をたどって、娘のもとへたどり着けるだろうか?
そして、真実を告げられた凛に対して、自分は何が出来るだろう?
……いや。
フィアスは微かに首を振る。
彼らが再会するとき、自分はその場にいないかも知れない。

漠然ばくぜんと抱いた予感は、いつまで経っても消えなかった。