後天遺伝子


 ⁠「幽霊展示場」、一度は行ってみるべきだな!
 いつだったか、真一が語ったことがあった。アジトで手持ち無沙汰な日々の、ちょっとした雑談の中で。
 神奈川で有名な心霊スポットは五箇所あって、中学生のころ友達と全部回ったんだ! 中でもいちばんヤバかったのが「幽霊展示場」。バブルの頃にでかい展示場を作ろうとしたらしいんだけど、作業中に何人も死人が出て、完成には至らなかった。
 小田原の方にあるんだけど、すげえ辺鄙へんぴな山の中にあってさ、ぼろぼろに壊れかけた建物が今も放置されたままなんだよ。いかにもって感じで怖かったなー!
「その話ぶりからすると、幽霊ってやつは出なかったんだな」
「うっ……、痛いところ突いてくるなよ。怖かったんだから、結果オーライで良いだろ!」
「横浜から一時間の無駄足を踏んで恐怖を味わいに行くことの、どこが結果オーライなのか教えてくれ」
「お前なー、そんなんだから友達がいないんだよ。遊ぶことの理由を聞いてくるやつと遊べるか?」
「余計な世話だ……おい、シド。笑うな」
「今度連れてってやるよ! ⁠日本の肝試し、楽しいぞー」

 お前の情報はあてにならないな、とフィアスは思った。フィオリーナが調べ上げたこととまったく違っている。
 この場所は山ではなく丘陵きゅうりょう。展示場ではなく、娯楽施設を目的として作られた。工事が頓挫とんざした理由は、死人が出たからではなく、資金調達に問題があったから。
 心霊スポットではあるが、それ以外の目的を持った人間の利用が多い。主に裏社会に生きる人間が、人里離れた場所であるのを良いことに、拷問や処刑、闇取引の現場に活用している。
 フォックスは、小麗からこの場所のことを聞いたのだろう。人気のない山奥の、コンクリートで覆われたフィールド。殺し合いにはうってつけだ。
 鬱蒼とした雑木林の中を、周囲を警戒しながら進む。
 敵が潜んでいる気配はない。罠を仕掛ける時間もなかったはずだ。林を抜ける。野球場のように広い原野が現れる。⁠雑草の繁った中心部に建造物らしきものが見えた。跡地という言葉にぴったりの、屋根のないコンクリート造りの建物。携帯電話に送信された衛星写真を見ると、迷宮のような複雑な間取りが剥き出しになっている。
 中心は漏斗型の傾斜になっていて、観劇に使われる予定だったようだ。
 ――フォックスの姿は見えません。死角に注意してください。
 片耳に取り付けたイヤホンからフィオリーナの声が聞こえる。袖口に隠したマイクから、了解、とだけ返事をしてフィアスは歩を進める。上空の目がある分、フォックスにこの戦いは不利に働く。それを承知の上でこの場所を選んだのだとすると、観測されるメリットがあるということだ。携帯電話のGPS機能を逆手にとって自分のねぐらに導いたときのように、こちらの動きを利用⁠されている気がする。
 嫌な予感を感じながら、木の陰に身を隠す。深く息を吐いて、握った銃を構え直した。
「遠慮すんなよ」
⁠フォックスの声だ。
反射的にグリップを握る手に力がこもる。神経を集中させて、相手との距離をはかる。
「入ってきたらどうだ? 戸口は開いてるぜ」
フィアスは腕を口元に近づけ、小さな声で告げる。
「衛星は?」
――十時の方角。
「了解」
身をかがめ、原野を抜ける。四角く工事現場を囲う外壁に背中を預ける。
――対象に動きなし。
「あのガキは連れて来なかったのか」
フォックスの声は何枚も隔てた壁の向こうからくぐもって聞こえた。距離に開きがある。
「まあいい。シンプルなゲームに審判役は必要ない。罠も伏兵もいない。俺が望むのは、単純な力の勝敗だ。俺とお前のどちらが強いのか……っと」
声が途切れた。その瞬間を⁠狙って、片耳から応答がある。
――通話しています。
「通話?」
――対象は中心へ移動中。武器を手にしている様子はありません。
……武器を持っていない?
 気でも狂ったか? フィアスは眉を潜める。相手は手ぶらのまま、何者かと電話の最中だという。それも中心地へ向かうなんて。
 フィアスはじっと耳を澄ませた。フォックスの声は聞こえてこない。壁伝いに移動する。
 建物の入り口にあたる部分、上空写真で外壁が途切れている場所があった。音もなく移動し、建物内部へ侵入する。入り口は広いスペースが設けられていた。さらに奥へ向かうための入り口が二つ、コンクリート壁に四角く穴が開けられている。
 右の通路を進むと、数本の支柱が伸びた細長い廊下のような部屋に行きあたった。ホールを見下ろせるように計画されていたのだろうか、スロープになったこの部屋と円形の中心部はビルにして二階分の高さがある。部屋と中心部を隔てる境界は壁というよりパネルに近く、コンクリートとコンクリートの間に隙間がある。その壁の一枚に身を潜め、蟻地獄のような漏斗型の中心部を俯瞰すると、最下層へ降りてゆく赤髪が見えた。フィオリーナの言った通り、携帯電話を耳にあてている。
 狙いを定めてみるが、この距離から拳銃での狙撃は難しい。的を外せば、こちらの居場所がバレてしまう。
「フィオリーナ!」通話を終え、フォックスが叫んだ。小型マイクの収集音域に乗せるためだ。
「残念だが、アイツの死体は残らないぜ。ネオが解剖したいそうだ。髪も爪も肉片も根こそぎ回収させてもらう!」
⁠フィアスは眉をひそめる……聞いていて、あまり気持ちの良い話じゃない。
――フィアス。
フィオリーナがつぶやくように言った。
――フォックスの死体は始末しなさい。わたくしに解剖の趣味はありません。
 珍しく、彼女の声に微かな嫌悪が感じられる。
 と同時に、フォックスの哄笑が円錐えんすいの地形にこだました。
――対象から、十二時の方向へ移動中。ホールを上っています。
「武器は」
――所持していません。
 どういうことだ。戦意喪失しているのか。
 いや、フォックスの口振りは自信に満ち溢れている。
 それならば、何故、武器を持っていない?
――貴方の部屋に向かうつもりです。
 フィアスは素早く引き返し、エントランスから今度は左手側の部屋に向かう。シンメトリーになった通路は、右の部屋と柱の配置もほとんど変わっていなかったが、中心部を隔てる境界はパネルではなく連続したコンクリート壁だった。目下を眺望できない分、フォックスの動向を目視できないが、銃撃を受ける心配はない。
「フォックスは?」
――進行方向、変わらず。
「武装」
――変わりなし。
⁠武器を持っていない。
 先制を誘っているのか。しかし、丸腰で陽動することに何の意味がある?
「他に敵は?」
――フォックス以外に人の動きはありません。周囲を囲まれているわけでもない。
「左から回り込む」
――攻撃は待ってください。
「しかし……」
「龍頭凛は強い女だ」
遮るようにフォックスが言った。
「紛争地域のガキみたいに、苦痛に耐える術をよく身につけていた。⁠あれだけの拷問に、涙一つ⁠零さなかったよ。三年前に比べて、俺も腕を上げた⁠つもりなんだが」
――挑発に乗ってはいけません。
「蝶のタトゥーは額⁠に入れて飾っておきたいほど綺麗だ。彼女の身体の中で、⁠俺は一番気に入ってる。⁠……なぁ? お前もそう思うだろ?」
指先に冷たさを感じる。力を込めているせいで、グリップを握る指が白く変色していた。
――フィアス。
「奴は丸腰だ」
――待ちなさい。
「こちらの居場所はバレていない」
――隙が出来るのを……
「付け入る隙は今しかない」
フィオリーナが息を呑んだ。
――居場所がバレた!
押し殺した声がノイズに塗れてわずかに荒れる。
――退避!
乾いたアスファルトを蹴る軍靴の音が耳に届く。しかし、音の出所が掴めない。右側でもない、左側でもない。
強いて言うなら、それは、ホールから聞こえてくる。
 まさか、右手側の部屋から、下層の柱を足掛かりにして、こちらの部屋へ飛び移ろうとしているのか?
――三時の方角!
 強い衝撃が走った。部屋と下層のホールとを隔てているコンクリート壁からだ。フィアスが走り始めると同時に、目の前の壁が砕け散る。白い粉塵が立ち込める中から、黒い手が伸び、首を掴んだ。
 壁越しに激しく身体を打ち付けられる。
「うっ……」
 強い衝撃に打たれた頭が、ホワイトアウトした。全身から力が抜ける。銃が指先をすり抜け、地面に落ちた。
――フィアス!
フィオリーナの声⁠が耳に届いた。⁠気絶したのは一瞬で、フィアスはすぐに意識を取り戻した。明瞭な意識に比べて、視力の回復にわずかなタイムラグがあった。
霞んだ視界に、二つの赤い光が見え⁠た。
⁠その光は迫ってきていた。フィアスは目を見開いて、赤い光を凝視し、すぐに正体を悟った。
それは眼光だった。
荒々しい、怪物の⁠赤い眼光が目と鼻の先で自分を睨みつけていた。
「お互い、人間のフリはよそうぜ」
赤い目を細めてフォックスは笑った。